何も思わぬ瞑想と比喩される滅尽定

2021-01-03 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

身体のオーラがあるような、ないような境地で非想非非想処(ひそうひひそうしょ)に達した後、その瞑想を続けていると軽やかな状態になってきます。

この寂境にひたりきると、例へば眠り足つてふっと目覚めるというような明朗な浄氣にうたれてはっと転ずる勝緣が得られるのである。(中略)無差別平等の清淨感が、例へば雲をひらいて現ずる月光のように觀じられて来るのである。「信心と座禅(油井真砂著)」

これで非想非非想処が完成し、よって、4つの無色界禅定が完成したことになるようです。

■4つの無色界禅定
・空無辺処(くうむへんしょ)
・識無辺処(しきむへんしょ)
・無所有処(むしょうしょ)
・非想非非想処(ひそうひひそうしょ)

この次に、滅尽定(めっしんじょう)と呼ばれる心を滅した定、サマーディがあります。これは禅定の4つの色界禅定および4つの無色界禅定の後の9つ目の禅定と説明されています。ですから、無色界禅定の最後である非想非非想処(ひそうひひそうしょ)の後に来るものです。

これは流派によって解釈が異なるようで、例えば「心を完全に滅する」とか「非想非非想処とは全く別物」という説明がなされている流派もあるようです。テーラワーダ系の仏教では以下のように説明されています。

阿羅漢果に悟った聖者・阿羅漢だけ、(中略)心の波を徹底的に穏やかにして、最後に、心自体を、しばらく「滅する」のです。(中略)非想非非想処定と滅尽定の間には、雲泥の差があります。「ある」心を鎮めることを目的として達成する心の平静状態=禅定と、その心が「ない」こと自体は、決定的な差なのです。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」

テーラワーダ系の用語と最近読んでいる油井真砂さんの著書「信心と座禅」の用語の定義が食い違っているのでわかりにくいですが、テーラワーダ系の定義に基づけば非想非非想処定と滅尽定はかなり違うものになるのでしょう。しかし、「信心と座禅(油井真砂著)」の説明に基づきますと、これら非想非非想処定と滅尽定はほとんど同じ状態を説明しているようにも思えるのです。

テーラワーダ系の説明では無色界禅定であっても心があることを前提にしています。「信心と座禅(油井真砂著)」にも最後まで心はあるにはあるのですが、非想非非想処定に達した時点で、心があるような、ないような、という状態にまで既に達します。

そうであれば、その次の滅尽定は似たようなもので、ない状態を保つようにするだけです。

滅尽定とは言え、心が完全になくなってしまうわけではなく、その後に心が作用する状態に戻ります。ですから、滅尽定を一度してしまったら心を完全に捨ててしまうわけではなく、「滅する」といいつつもそれは一時的なものであると解釈できます。

滅尽定の正式名が「想受滅(そうじゅめつ)」と呼ばれるように、想=心の動機に、受=触れられ感受された、滅が一瞬起こって、あとは心が起こりません。滅したのですから消えたのです。ないのです。ないから、その後のことは何も言えません。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」

ということですから、それは「信心と座禅(油井真砂著)」の説明に基づきますと非想非非想処定の応用の状態のようなものだということがわかります。

既に非想非非想処定の時点で「あるような、ないような」という状態になっていますが、それはあくまでも体のオーラの感覚を確かめようと認識能力を働かせるとそのように認識されるというお話で、わざわざ状態を見ようと意思を働かせなければ既に感覚は「一瞬だけ起こって後は起こらない」という状態になっているのです。

ですから、それだけでも既に「想受滅」というような状態ではあるのですが、滅尽定というような落ち着いた状態にするためには意識的に「認識能力を動かさない」ように意図を働かせて、五感が入ってきても「認識しません」と自分にあらかじめ指示を出しておくことで上記のように「一瞬、五感から感受して、すぐに滅が一瞬起こって、あとは何も起こらない」という状態になるのです。

ですから、わざわざ滅尽定というほどでもなく既に滅尽定に似たような状態になっているのですが、瞑想としてそうするということであれば滅尽定と言うのは、まあ、一応あると言えばあるのだと思います。

非想非非想処定と似たようなものだと思いますけど、非想非非想処定の説明は誤解が多くて、単に心を一時的に停止させればいいかのような誤解がありますので明確に別にした、というのはあるのかもしれません。

流派の定義によっては明確に別ですし、テーラワーダ系の定義ですと別物ですけど、「信心と座禅(油井真砂著)」の定義ですとほとんど同一のように思います。

確かに、非想非非想処に入ったばかりでは滅尽定という感じではありませんが、少し瞑想を続けると軽やかな感じが出てきて滅尽定になるような気が致します。

このあたりは、言葉で言い表しただけでは誤解がありそうで、単に「軽やかな感じ」というとそれ以前でも色々とそのようなこともありましたので、単にそれだけですぐに滅尽定になるわけではありませんが、ステップを踏んで非想非非想処までたどり着けば軽やかな感じが出てきてそれが滅尽定なんだなというのは実感としてよくわかります。

滅尽定においては、それは必ず通る道ではあれど、その安楽な状態にずっと居続けてはならない、と注意がなされている状態でもあります。ずっと眠ったようにその状態にいることは悟りへの妨げとなる、と説明されています。

それは、この状態がとても安楽で軽やかなところからよく理解できます。

意思をもってして次の段階に進むという自らへの指示が必要のように思います。

「滅尽定」を文字通り読んでしまうと「心をなくす」ということになってしまいますが、実際はそのような文字通りの意味ではないわけです。心の状態が以前よりも大きく変わっていますし、実際は「想受滅」というようにすぐに心の動きが消えてゆく状態ということであれば非想非非想処定の段階に至っているのであればちょっと応用すればすぐにその状態になれるように思います。心の使い方ですよね。最初は心を、ペットに繋ぐ手綱のようなもので軽く結んでおく程度で心はさまよわずに、何かを感受してもすぐに消え去ってゆきます。そのうち、その手綱を離してもペット(心)はどこにも行きません。まあ、ここだけを読むと「手綱で心を結ぶ」ということで、これ以前の状態であってもそれはそうで、昔から手綱をつけるというような方法で心を鎮めてきたわけですけれども、前提条件として非想非非想処定あってこその滅尽定の想受滅ということですから、手綱とは言っても、ほんの少しの細い手綱で、凧の紐かもうちょっと太い程度の簡単なもので、ペットと言ってもチワワみたいなペットで、大型犬を繋ぐ紐ではありません。このあたりは程度問題とでも言いましょうか。そうして、最初こそ手綱はいりますけど、少し安定してしまえば手綱をなくしても心はどこかへ行ったりせず、何かを感受してもすぐにその感覚が消える(滅)ようになります。

それは厳密に言えば「何も思わない」ということではないですけど、「ほとんど思わない」「すぐに心の動きが滅する」ということで、そのことを形式的に「何も思わない」とか「心を滅した」とか表現するのだと思います。ちょっと紛らわしいですけどね。既に色々なところでそう表現されているように思います。

文字通り読んで「いつまで経っても心がなくならないから滅尽定に達していない」と悩んだりする必要は全くなくて、説明を読めば実際はそれは想受滅のことですから、非想非非想処定の後に想受滅が来ればそれは滅尽定ということだと形式的に理解しておけば十分なのかなと思います。

まあ、そうは言いましても流派によってこのあたりの解釈は違うでしょうし、これは私の解釈であって、流派の解釈をどうこうしているわけではありません。

ちなみに、テーラワーダ仏教では阿羅漢の後に滅尽定で阿羅漢とは悟りを得た聖者のことですから悟った後に滅尽定という順番になっていますが、「信心と座禅(油井真砂著)」ですと滅尽定でもまだ悟っていない、という位置付けですね。悟りというのは色々ありますけどテーラワーダ仏教における阿羅漢の悟りというのは「静寂の境地」とかそのあたりな印象を受けます。であればそのような順番になるのでしょうけど、個人的には「静寂の境地」は個人的な境地であって「公」にまで広がっておらず、ましてや、まだ悟りだとは思いませんので、「信心と座禅(油井真砂著)」の位置付けの方がしっくりきますね。