ここ最近、創造・破壊・維持の意識が深まるにつれ儚さを感じ涙が出るようになってきたわけですが、それは、意識が「創造・破壊・維持」と離れた状態で出てきている悲しみのような気が致します。
ここで「離れた」と表現しましたけど、物理的な距離ではなく、心の中心が根源からちょっと「ズレている」というような意味合いです。流派によってはこれを「理解していない状態」と表現するかもしれません。
根源から離れていなくてありのままを認識している状態を流派によっては「根源からズレていない状態」「魂から離れていない状態」あるいは「理解している状態」と表現するかもしれません。
そのように、創造・破壊・維持から離れていない状態でありのままを認識できているならば悲しみは出てきません。ただ、創造と維持と破壊とが目の前でありありと繰り広げられているのを眺めるだけです。
しかし、その状態から少し離れて、ありのままから遠ざかれば遠ざかるほど儚さを感じて「悲しみ」を認識してくるような気が致します。
であれば、儚さを感じることによる悲しみというのは、ありのままを感じていないからこそ出てくる感情であると言えるのかもしれません。
その、儚さの悲しみそのものですらも創造・破壊・維持を繰り返していて、儚さの悲しみが現れてはその悲しみが続き、そして消えてゆく、悲しみの創造と破壊と維持とが何度も繰り広げられてゆくさまを感じることで、そこでもありのままの感情を感じることができます。
視点を、現象に向けてありのままを感じることで現象に対する創造・破壊・維持を認識することができます。
一方で、現象をありのままで感じることはせずに、感情に対してありのままを感じることで感情に対する創造・破壊・維持を認識することができるということなのかなと思います。
ここで、2つの対象が出てきました。
・視界
・感情
視界は五感に属するもので、粗雑な認識能力です。感情は心に属するもので、もっと微細です。
五感(視界)に関する「ありのまま」を離れて心(感情)を「ありのまま」に見つめることもできます。
一方で、五感(視界)を「ありのまま」に見つめることもできます。
五感(視界)が「ありのまま」を離れた時に「悲しみ」が生じ、その時に心(感情)を「ありのまま」に見つめることで感情の創造・破壊・維持を認識するように思えるわけです。
悲しみを克服するには楽しさという同じ心という分類にある別種類の感情を持ってくるという手もありますけど、それよりは、五感(視界)と心(感情)の両方、あるいは少なくとも片方をありのままに見つめることで悲しみを克服することができるように思います。
それは必ずしも悲しみを克服するという文字通りの意味ではなくて、克服と言うと何か戦って勝つような印象があるかもしれませんけど、この「ありのままを見つめる」というのはもっと根本的なもので、そもそもそれが何だったのか、五感あるいは感情の面でしっかりと認識して識別するということです。
そうして、「理解」すればその感情は消えてゆきます。理屈での理解のことではなく、しっかりと見た結果として理解がやってくるわけです。理論での理解は最終的に残りますけど、その過程において理屈を持ち出すよりは、まず「ありのまま」に見た上で識別して、その結果として、最終的な「理解」がやってくるわけです。
ただ、そうしたものもあくまでも説明のためだけと言えなくもなくて、物事はもっと単純で、単に、物事をしっかりとありのままに見さえすればそもそも悲しみとかは起こらない、という、ただそれだけのことです。