悲しみはヴィシュッダが開いた時の感情の経験だったのかもしれない

2021-01-11 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

先日、儚さを感じて涙が出てきたわけですが、その翌日、ふと気がついてみると、ヴィシュッダでイガイガしているようなブロックされているような感覚が随分と少なくなっていました。そして、いつの間にか悲しみの感情も収まってきました。

創造・破壊・維持の意識が出てきてすぐの頃は、ヴィシュッダでブロックされているような感覚がありましたが、今も多少は感覚がありますけど、それはブロックされているようなイガイガしたものではなく、単に、ヴィシュッダに何かある、という感覚に変わっています。

そして、いつの間にか悲しみの感覚が落ち着いてきて、ほんの少し悲しみの余韻みたいなものは感じますけど、悲しみが湧き出て来るという感じではなくなってきました。

であれば、もしかしたら、この悲しみの感覚は、ヴィシュッダが開いてきたことによる感情の現れだったのかもしれません。

ヴィシュッダが完全に開いたかどうかはわかりませんけど、以前よりヴィシュッダにエネルギーが通っていてアナハタとも繋がった感覚があり、アナハタとヴィシュッダにまで創造・破壊・維持の意識が来ている感覚があります。

チャクラは一気に開くこともあれば段階的に開くようにも思いますし、多少はヴィシュッダが開けてきたということのようにも思います。

そして、この状態では瞑想中にエネルギーが詰まっているような感じがするのがアジナの少し後ろ、後頭部のあたりな感じがしてきました。

過去生のサードアイの記憶を辿ってみますと、サードアイは眉間というよりも後頭部に近いところでクリスタルができて、その一部というか次元の違う一部の面がフォースアイとして頭頂から出て次元を超えたり周囲に視点を移動させたりするように思いますから、その第一歩として後頭部のところにサードアイの反応が出てきたのであればおそらくはヴィシュッダにもエネルギーとしての創造・破壊・維持の意識が通ってアジナの方が活性化し始めたのかなという気が致します。

チャクラが開くのは段階的なもので、チャクラの調整という段階でもそれなりに開くでしょうし、今回はもう少し開けてきたとも思いますが、世間で言われているような開いて何か起こるという意味合いよりも、新しい創造・破壊・維持の意識のエネルギーに馴染む、というような感じの方がしっくりきます。

もともと先日経験した時もヴィシュッダかな? とも思ったのですがそれほど確信はなく、一晩開けて落ち着いてみて上記の状態を確認したらやはりヴィシュッダだと考えるのが妥当な気がしてきました。ただ、完全に開いたとも思えないですが。完全に開いたと言えるのはもっと後の、全てのチャクラが統合して働き出す段階においてであってここでは少しづつ開くくらいで十分なのかなと判断しています。

そもそもチベットではチャクラを開く際に必ずしも何かの経験が起こるわけではないと言われていますし、今回はヴィシュッダが開いて「悲しみ」という感情でそれを体験したわけですけど、それもまた一つの現われなのかな、と解釈しました。