集中して静寂の境地に至る瞑想は未だ有効

2021-01-12 00:00:00
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

最近は眉間あるいは鼻頭を意識するだけで雑念が消えるようになったわけですが、そのように雑念は一気に消えるのですが、それでも、眉間あるいは鼻頭に意識を合わせて呼吸するだけでエネルギーが頭まで上がるという瞑想を続けていくと静寂の境地に達します。

呼吸によって雑念は一気に祓われるのですが、それがそのまま静寂の境地というわけではなく、雑念が消えるというのは文字通りだいたいのところで雑念が消えるということであり、それと静寂の境地とはちょっと違うように思います。

以前の静寂の境地は奥深い意識がない状態で、単に静寂の境地になっていました。

今は、奥深い意識があった上で静寂の境地になっています。最初は静寂の境地に入ることを許さない奥深い意識という感じで奥深い意識によって静寂の境地に入ることを妨げられているような感じでしたが、今は、奥深い意識があっても静寂の境地に入ることができるようになりました。

その静寂の境地は深い意識があってもなくても存在していて、昔は深い意識がなくても静寂の境地に達していて、今は、深い意識が現れ続けていても静寂の境地に達しています。

これは意識の階層が違うということかなと理解しております。

浅い階層の心、ヨーガでいうチッタ(心)のゆらぎが静まることが静寂の境地であって、奥深い意識が現れているかいないかは静寂の境地とは割と独立しているのですよね。そのように今は理解しています。重なっているので最初は干渉しますけど基本的には別物なのだと思います。

浅い意識、ヨーガで言うチッタという五感に反応して記憶を司る心の部分の動きが静まることで静寂の境地になっているのだと思います。よって、これがヨーガスートラで言うところの「ヨーガとはチッタ(心)を死滅させることである」という意味の表すことなのだと思います。ヨーガスートラでは主に浅いところのチッタ(心)を扱っているわけです。

そして、最初は奥深い意識が現れていないですけど、そうして静寂の境地に達すると奥深いところから意識が現れてくるわけです。
ですから、最初は奥深い意識のない静寂の境地から始まり、次に、奥深い意識のある静寂の境地になるわけです。

ヨーガスートラのヨーガの定義は奥深い意識に関してはひとまず置いておいて、まずはチッタの動きを鎮めましょう、と言っているわけです。

ヨーガスートラのよくある批判として、「心を死滅させてしまってどうなるというのか」というお話がありますけど、心と言ってもヨーガスートラで死滅させるのは浅い意識であるチッタであり、日本語ですと死滅という訳になっていますけどこれは心を完全になくしてしまうという意味ではなくて「ゆらぎ(ヴィリッティ)」を止める、心が揺れるのを止める(死滅させる)という意味です。

ですから、要は「静寂の境地に達しましょう」と言っているだけのお話です。まあ、表現の違いですよね・・・。ヨーガスートラの目的はここにあるわけですけど、日本語訳で「心の死滅」とかいうから誤解しますけど、心の死滅ではなく「心のゆらぎの死滅」ですから、それは静寂の境地のことなんですよね。

その静寂の境地は奥深いところから創造・破壊・維持の意識が出てきたとしても存在していて、というのも、静寂の境地というのはチッタのゆらぎがなくなることですから、浅い意識について言っているわけなのですよね。

深い意識に雑念とかは元々ないですから、浅い意識(チッタ)で雑念が取り払われて静寂の境地に至るわけです。

そうして、ヨーガスートラでは「そうして心(チッタ)のゆらぎが静まると、見る者(プルシャ)は本来の状態に留まる」ということを言っているわけですけれども、まあ、一般的にはヨーガのゴールがこうして静寂の境地と言われてはいますけど、更に先があるわけですよね。静寂の境地に達して、次は見る者(プルシャ)が本来の状態に留まって、そうすると、奥深い意識が出てくるわけです。続きはウパニシャッドの領域に入っていくわけです。