今まで、スピリチュアルで「貴方は光なのです」とか言われても、そうかもしれないとは思っていても、深く確証が持てていたわけではありませんでした。
しかし、ここにきて、瞑想をしていたらふと「あれ。私の体って光みたいだ」と、急に実感が湧いてきました。
光が視覚で見えているというわけではなくて、ただ単に、私の体が光だと感じる、というお話です。
まず、最近の瞑想では身体がスカスカの状態で、少し前までは単に「体がなくなったみたい」な感じがしていただけでしたが、ここにきて、単に体がなくなった感じだけではなく、それが光な気がしてきました。
まだ完全に光になっているわけではない感じではありますがそれなりに光で、「光の存在」と言われたら「確かにそうかも」という感じがしてきました。
これは、誤解があるかもしれませんけど、善と悪というような二元論のお話ではなくて、おそらくはこの世の全て、善悪とか関係なしに全てが光なのかな、と思うわけです。
流派によっては「空」というのかも知れません。
この世は全てのものが「光」でできていて、言い換えれば「空」であって、光あるいは空が輝いているあるいは現れている、とも言えるわけです。光であれば輝いていると言えるでしょうし、空であれば現れている、ということです。
これは、「私の体は光だと想像する」ということではありません。そのような「想像」はしていなくて、単に、ふと「あれっ、光だ」と気付いただけのお話です。
こういうとまた語弊があって、それじゃ「気付くことが重要」なのかというと、そういうわけでもありません。流派によっては「気付くことが重要」とか言っている流派もありますけど、これに関しては「気付くことが重要」というわけではなく、単に、体が光だと認識し始めたというだけのお話です。
瞑想やヴィパッサナー的な気付きのお話と、ここでいう「光だと気付いた」というお話は、別のお話です。
瞑想ではサマーディに至るための手法として気づきの瞑想とかをしたりしますけど、それは手法のお話で、ここで言っている「光だと気付いた」というのは、あくまでも結果のお話です。単に「気付いた」と言っても、瞑想での手法としての気付きの瞑想手法と、ここで言っている「光だと気付いた」というお話とは別なのです。
ですから、「私が光だと気付く瞑想」なんてする必要がないですし、そんなのはできないと思います。いくら「私は光だ、光だ」と思ってみても光だとは思えないでしょうし、思う必要もないと思います。
ただ単に、急に「あれ、光だった」と気付く地点が来るというだけのお話です。
同様に、「私が光だと想像する瞑想」なんてのも不要かなと思います。ここで言っている不要とは、文字通り、光だと想像する瞑想が不要と言っているのであって、天から光を降ろすようなエネルギーワークは有用だと思います。あくまでも、ここで言っている意味における「光だと気付くことを想像する瞑想」は不要だと言っているだけで、光を満たすと言いつつも要は(地あるいは天の)エネルギーを増やすようなエネルギーワークについては有用だと思いますから、そこは誤解して頂きたくないと思います。不要とは言っても、ここでは不要と言っているだけであって、例えば密教では光やマンダラを想像することで修行したりしますし、その修業はそれはそれで別のお話で、その流派の修業を否定しているわけではありませんし、そういった修行も有用だと思います。ここでは不要と思える、と言っているだけです。そう言っておかないと誤解が生じてしまうかもしれませんから。