創造・破壊・維持の意識が出てきた後、ネガティブなものに影響されにくくなったのと同時に、善悪の意識がほとんどなくなりました。
巨悪を見てもなんにも感じません。
最初、これは鈍くなったのかな? と勘ぐったりもしてみましたが、おそらくは自分の方がエネルギーが高くなったので影響されなくなってきたのかな、と解釈しています。
スピリチュアルとかで善悪はないということはよく言われていたりもしますけど、それは理屈でどうこう説明されていたりもしますけど実際は説明はあんまり関係なくて、本当にそのまま善悪はなくて全て自由なんですよね。
かと言って、何でも好きなことをしてしまえば良いとは思わないです。
そこは、創造・破壊・維持の意識が働いていますから、例えば悪だけをするなんてことはないですし、逆に、善のように見えることだけをすることもなくて、と同時に、現状維持だけを続けるということもないです。
何でも好き勝手にするということではなくて、言葉通りに、善悪の感覚はないということです。
この世の中には悪の塊のような存在も実際はいるようにもかつては思えていたわけですけれども、それすらも、今となっては善悪の感覚がないので、もはやよく分かりません。
善悪がわからないとは言っても、自分に危害を加えてくる人や存在に対しては適切に対処しますから、悪のようなものに対して何もしないというわけではありません。逆に、善に対しての対処もあるわけで、善のように見えても実際は偏っている場合もあるように思われるわけです。善悪の判断はなくなっても、行動は残るわけですよね。通り一遍の反応をするわけではないです。
これは、道徳のようなお話ではないです。道徳のお話はそれは正しいと思います。そういうことではなくて、存在としての善と悪のお話です。
善悪の判断があった頃はステレオタイプで良い悪いが判断されて、ある意味、善というレッテルを張っておけば何でも許してしまっていた面がありましたけど、善悪がよくわからなくなったが故に、物事はありのままに見られるようになったように思います。
道徳としての善悪はありますけど、心の奥底では善悪ではよくわからなくなってしまいました。善なのか悪なのかはよくわからないですし、他人の行動に対してもそうですし、自分の行動にしてもそうです。
道徳として、例えば、人を殺してはいけないだとか盗んだらいけない、というお話はもちろん正しいです。そういった善悪のお話は正しいのですが、心の奥底で、それを超える感覚が常時働いていて、善悪を超えたところで、何が悪いのかよくわからなくなったわけです。
それは、創造・破壊・維持の意識の一つの面で、その意識状態においては善悪はないわけです。何でも創造して、何でも破壊して、何でも維持しますから、何が良いか悪いのか、そのような判断はそこにはないということです。
これは、理屈で考えて「善悪はないですよね」とかいう頭でのお話ではなくて、全く文字通りに善悪の判断がなくなってしまった、というシンプルなお話です。