サハスララに意識が集まって、意識が自由になって体全体をそれなりに観察できるようにはなっても、まだ、理解という意味における自由自在の理(ことわり)を得てはいないようです。
瞑想にて、そのことを気付かされました。
この、自由自在の理を得るまではいわゆる固定的な宗教観というのが残る、ということにも改めて気が付きました。
サハスララに意識が集まって、それでもしばらくすると更に一段意識が上にあがって、まだ先がありそうな雰囲気です。
今の段階では、体がそれなりに観察できて意識もそれなりに自由にはなっても、自在に理屈が自然と出てくるような理を得てはいないように思います。
かつて悟った人がいたとして、そのことを勉強するとします。この自由自在の理を得ると同様に悟った理屈が次々と出てくるわけですが、まだ自由自在の理を得ていないとどこか書物への依存が残ってしまうというわけです。
書物から離れて自分自身の言葉で自由自在に理が出てくるようになって初めて意識がある一定の、一応は悟りと呼んでも良い高みに上り詰める(まだ先はありますが)のであり、そこに達していなければまだまだだということです。
いくら光を感じて、存在を理解しようとも、自由自在の理にはまだ一歩足りない、ということのようにも思います。