集合的無意識と呼ぶのか単に無意識と呼ぶのか全体意識と呼ぶのかは色々ですが、特に深く考えていない人が宗教と聞いた時に思い浮かぶ概念を書き換えることがミッションとして存在するようです。
今の日本は、宗教と聞くとなにか嫌なイメージを持つ人が一定数いますが、宗教という言葉に対する表層の意識を良いものに書き換えることが目的です。
例えば、宗教と聞くとヒステリーになったり、宗教なんて見たくもない、という意識を上書きするミッションのようです。
同様なものとして、瞑想と聞いた時にかつては一般的には変なものと思われていたのが最近は瞑想と言うとなにか良いイメージがある、というように印象が変わってきています。
それと同様に、宗教に対してもイメージを書き換えるというミッションが存在しているようです。
私はもともと、宗教もスピリチュアルも一緒だと思っていますし、もっと言えば、何かを信じるという意味においては科学も宗教のようなものだと思っていますから、科学的という言葉と宗教的という言葉とスピリチュアル的という言葉の間には手法の違いこそあれどどれもさほど違わないと思っています。
科学にしても現実に重きをおきますし、宗教もスピリチュアルも実際には現実に重きをおきます。
宗教で思われている「信じなくてはならない」みたいな誤解は科学にもあって、ニュートン力学の時代においてはニュートン力学で説明できないことは存在しないということを「信じなくてはならない」という迷信の時代がありましたし、今でも唯物論という名で科学の冠を被った宗教が存在しています。
科学にせよ宗教にせよスピリチュアルにせよ、最初にあるのは現実であって、まず現実を受け入れてからどうしてだろう、とやるのが手順ですけど、間違った科学は「唯物論で説明できないことは存在しない」と言って現実を否定するのですよね。
同様に、間違った宗教やスピリチュアルも現実を否定します。
それらの、科学と名乗ろうが宗教と名乗ろうがスピリチュアルと名乗ろうが現実を否定するようなものは所詮はその程度で、そのような間違いに関してはどれも同様ということで、それぞれ違った領域を扱っているだけで現実重視という点は共通ですし手法は違いますけどどれも大差ないと思えます。
本当に科学を分かっている人は、科学で説明できない現実を否定したりせずに、単に、科学では説明できない、と言うだけで現実を受け入れます。ですけど、実際は宗教になっている唯物論者は科学で説明できない現実は存在しないか間違っていると言って現実を否定するわけです。現実を否定するのであればそれは間違った考えであるわけですけど、科学の名の元に現実を否定するのですからたちがわるいです。同様に、現実を否定するような宗教や現実を否定する系のスピリチュアルもたちがわるいです。
そのように、宗教というものに関する誤解があり、また、科学を名乗っていても宗教のような迷信がありますので、どちらを先に手を付けてもいいのですけど、とあるグループは宗教というものに対する集合意識を書き換えて宗教とはなんぞや、という常識を変えてゆくというミッションが動いているようです。
これは、もっと大きく捉えれば「宗教の統一」という目的に繋がってくるようで、前にも書いたと思いますけど、こちらもミッションとして存在します。