理解こそが解脱(モクシャ)を達成することができるもので経験は一時的なもので重要ではないという流派があります。例えばインドのヴェーダンタ学派とかですね。
実際のところ、モクシャあるいはサマーディの側から見た時のみ経験が重要ではないのであって、モクシャあるいはサマーディに到達するためには経験が必要になってくると私なんかは思います。
理解こそが解脱(モクシャ)に到達できる手段だとしている流派であっても修行のようなことは行われていますし、実際のところ、修行や経験を詰んではいるもののそれを修行や経験とは呼んではおらず理解や勉強と言っているだけのことに過ぎないように私には思えます。言葉の表層で理解という言葉に重きを置いて、実際は、実質的に修行や経験を重視しているのにも関わらず言葉の表層で理解という表現に置き換えているだけで、実際は大差ないのかなと思います。
例えばマントラを唱えることを一部の流派では修行と言いますがそれら理解こそがモクシャに至る道と考えている流派では修行とは呼ばずに単にプージャと呼んだり祈りあるいは瞑想と呼んだりします。
実際のところ、物事は全てあるがままで完璧でありますので、私からしてみたらこのような解釈の違いも大差はなく、そのような違いすらもただ単に趣味の違いあるいは文化の違いとしか思えないのですが、それでも、このような些細な違いで意見を食い違えてあっちは正しいだとかこっちは間違っているだとか指摘しあっている状況があるように思います。
確かに、モクシャやサマーディが重要というのは間違ってはいませんが、かと言って、その前段階にあるシャマタ(止)の段階もそれはそれでもちろん重要なのです。しかし、理解こそが重要で経験は不要としている学派は修行や経験に相当するシャマタ(止)を否定しがちなのですよね。先の段階であるモクシャやサマーディから見たらシャマタ(止)をしているかどうかは大差ないのですが、サマーディに入るまでにはシャマタ(心の静止)は必要になってくるわけです。
そのように、モクシャやサマーディのためにシャマタ(止)は不要と言った時、モクシャやサマーディに到達した人であればその意味としては、シャマタ(止)があろうがなかろうがモクシャやサマーディがある、という意味で解釈するのに対し、まだモクシャやサマーディを知らない人はシャマタ(止)を否定してしまうのですよね。シャマタ(止)があろうがなかろうがモクシャやサマーディがある、ということであって、シャマタ(止)が不要ということではないのですよね。これは、似ているようでいてかなりの大きな違いです。
理解こそがモクシャに至る、としている学派の中には、シャマタ(止)が不要だからシャマタ(止)の修行をしている学派は間違っている、とみなして論争してしまうのですよね。
文献だけを読んでモクシャやサマーディを理解してしまうとそのようにシャマタ(止)を否定してしまうことになるのかもしれないですけど、実際には上記のように、モクシャやサマーディの状態であればシャマタ(止)があろうがなかろうが関係ないということであって、シャマタ(止)が必要かどうかという話ではないのですよね。
実際には、モクシャやサマーディに至るための前段階としてシャマタ(止)は有用なのであって、基本的にはシャマタ(止)を経由してからモクシャやサマーディに至るのだと思います。
理屈から言っても、シャマタ(止)とはメンタル(ヨーガで言うマナス)のコントロールですから、マナスのコントロールができていない人がモクシャやサマーディに至ることはありえないと思うのですけどね。マナスのコントロールなしにモクシャやサマーディに至ることなんてあるのですかね?
なぜにそこまで固執して理解だけが重要と主張して、特にことさらにシャマタ(止)を否定するのか私にはさっぱり理解できないですし、理解が重要と言うのなら、万人に理解できるように説明してほしいものです。実際に何度もこれらのことを聞いてもあまりはっきりとした答えはしてくれなくて、理解が重要だとかしっかり理解しなくてはいけないとか、理解していないだけだとか、もっと勉強が必要だとか、そのような答えばかり返ってきます。そうなのかもしれないですけど、私にとっては上のように解釈する方がしっくりきます。
私からしてみたら、そのような誤解に基づく理解はなんと愚かしいことだと思ったりもするのですけど、そのような愚かなことも含めて物事は全てあるがままで完璧だと思っていますので、愚かであろうがなんだろうが好きにすればいいと思っています。これらの解釈はもしかしたら私の誤解なのかもしれないですけど、まあ、それであったとしても完璧であると思うわけです。