真理の探求は真面目すぎない方がいい、というお話

2021-02-18 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

聖典や経典に記されていることはあくまでも一面であって、それが素晴らしいものであったとしても鵜呑みにして信じ込んでしまうと真実を見失ってしまいます。

疑えとまでは言いませんけど、あくまでも真実は自分の中にあるのですから、聖典や経典に書かれてあったとしてもそれは自分の中にある自分が出した答えではありませんから、あくまでもヒントでしかないのですよね。

でも、真面目な人ほど聖典や経典を真に受けてしまってそれに固執してしまいます。

それが宗教ができてゆく過程ではあるのですが、それはそれで興味深い過程ではあるものの、そのように真面目に聖典や経典に取り組んでしまうと答えは全て自分の中にあるという真実を直視できなくなってしまう危険性があるのですよね。

例えば、ヨーガスートラで「心の死滅」がヨーガの定義あるいは目標として記されていますけど、文字通り解釈してしまう人と、「そうなのですかね? そうかもしれません」と、大雑把に理解する人とでは、実際の所、後者の方が成長が速いように思います。

前者であろうと後者であろうと、頭の理解だけではなく自分の奥底から出た感覚を根拠とすればいいのですが、往々にして前者は文章そのものの理解に固執してしまいがちのように思います。まあ、人によりますので、逆の場合もあるかもしれませんけど。

別の例で、ヨーガスートラで「ネガティブな思いが出てきたら、逆の思いを浮かべる」みたいなことが書かれてありますけど、これも、真面目すぎる人は常にそのように努めてしまいますけど、これはかなり誤解があるお話で、サマーディ以前であれば雑念が多いのでこのようにして雑念を抑え込んでゆく方が良いですけどかなり浄化が進んでサマーディの近くにまで達すれば実際はこのように抑え込む必要すらないのですよね。

でも、真面目な人は文章をそのまま受け取ってしまってこのやり方が常にいつまでも必要で通用すると解釈してしまって、これがあくまでも一面を言っているだけに過ぎない、ということをなかなか理解できないのですよね。

答えは全て自分の中にあるのですから、それをやってみて必要だと思えばやればいいし、不要だと思えばやらなくてもいいわけです。ですけど、答えが自分の中にあるということがわかっていない人は聖典や経典の文面に固執してそのやり方にこだわってしまいますけど、それは自分の中に答えがあるということが理解できていないのですよね。

この、答えは自分の中にある、という考え方は割と最近のスピリチュアル、特に宇宙系のスピリチュアルではよく言われていることですけど、古典的なヨーガや宗教あるいはヴェーダではそのような言い方はしませんけど、古典的な分野ではそれよりも、多様性があることで人の選択を促している面があるように思います。

あまりにも多様性があって聖典や経典によって違いがあるので自分で選ぶしかないのですよね。そして、選ぶ基準は何かというと自分の経験を基にするしかないわけで。状況は違っても、最近のスピリチュアルでも古典的分野でも、自分の内面の感覚を頼りにするということは一緒なわけです。

ですけど、真面目な人ほど文面にこだわってしまうのですよね。そして、自分の解釈をしている人を「解釈を捻じ曲げている、間違った人」とか言ったりします。捻じ曲げているというよりも、答えは自分の中にあって、実際のところ、全ては真実なので、自分の中から出てきた答えであれば全て完璧ですから合っているとか間違っているとかいうお話はそこにはないのですよね。単に、自分の中から出てきた答えと聖典・経典との記述とは違っているというお話で、違っていたとしても、自分の中から出てきた答えは自分のその時の状況・考えに即してみれば全て正しくて完璧なわけです。表現の違いで誤解とかも多少はあるかもしれませんけどそれは重要なことではなくて、自分で出した答えであればそれを受け入れればいいというだけのお話です。

このあたりが真面目な人には受け入れがたいようで、ですから、個人的に思うのは、真理を追求するのはそれなりの真面目さも必要ですけどあまり真面目すぎない方がいいかなあ、とも思っています。O型のような曖昧さがベースにあって、真実は自分の中から見出す、というスタンスが組み合わさっているといいのかもしれません。