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思いを観察しさえすれば悟れると教えている流派

2021-02-18 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

私が若かった頃、20〜25年くらい前になるでしょうか。思いを観察しさえすれば悟れると教えていた流派に教わっていました。弟子という形式は組織の形態として存在しておりませんでしたのでただ単に学んでいたというだけでしたが、そこでは、思いを観察して自分自身を背後から見るようにするだけで素早く悟れる、ということを教えていました。そこに通ったというか学んでいたわけですね。

今から思えばヴィパッサナー瞑想の走り、あるいは、それほど管理されていないヴィパッサナー瞑想の教えだったように思いますけれども、どちらかと言うと宇宙系のスピリチュアルに分類されていたように思います。

当時は、そういうものかな、と思って、思いの観察をして、思いだけでなく、日常生活を意識的に行うことで食事や行動の全てを瞑想にしましょう、ということが教えられていました。

今でいうところのヴィパッサナー瞑想ですね。歩き瞑想、食事での瞑想、など、日常生活の全てを瞑想にしましょう、という教えです。

今から思えば、それはそれで正しいのですが、その前段階がすっぽりと抜け落ちてしまっているように思います。

伝統的な宗教や修行の流派であれば、本格的な修行に入る前に加行(けぎょう)とも言われている準備段階としての修行が存在していて、いきなり本格的な修行に入れない人(これがほとんどだと思います)のために基本的な修行が用意されているわけです。

若い頃に通った流派では、思いを観察しさえすれば素早く悟れて、他の流派のように長い修行など不要だ、と謳っていたのですが、実際のところ、それは準備ができている人がそれだけすれば素早く悟れるというお話であって、準備ができていない人はやっぱり加行をしなくては本格的な修行に入れないのが現実かと思います。

特に宇宙系のスピリチュアルにはこの傾向が顕著で、「◯◯しさえすればいいんですよ」みたいなお話はその前段階としての前条件がすっぽり抜け落ちていて、たしかに宇宙人からしてみたらそんな前段階なんて既にクリアしているので「◯◯しさえすればいい」ってことになるのですけど、多くの地球人はその前段階をクリアしていませんので、「◯◯しさえすればいい」ということにはならないのですよね。

当時もうっすらとそんなことを感じておりましたが、今から思えば、はっきりとそのことが理解できます。

あそこで教えていた「思いを観察すればいい」というのは、ヨーガで言うところの「サマーディの状態を常に保って、日常生活で修行する」という段階に相当しますので、その前段階がすっぽり抜け落ちていてただ単に思いの観察の真似事をしたところでなかなか悟らないのは当然のようにも思います。

「◯◯しさえすればいい」という系の団体あるいはそのような主張をしているスピリチュアリストには要注意で、本人にとってはそうなのかもしれませんけど、実際、それができる人はそうはいないのですよね。



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