ヨーガスートラに、良くない思いが湧いてくるようであれば反対のこと(良いこと)を思うことにします、という一節があります。
これは、文字通り、反対の思いを浮かべる、良いことを思うということです。
ですけど、このような書き方をすると、良くない思いを否定すればいいのだと勘違いしてしまう人が一定数いてしまうわけですよね。
ネガティブな思いが出てきたら、そのネガティブな思いを否定するのではなくて、ポジティブな思いを浮かべるようにする、ということです。
最終的にはポジティブな思いをそのように努力して想起する必要はなくなっていって素のところからポジティブになるわけですけれども、もしネガティブな思いが出てくるのであれば、そのネガティブはほおっておくかあるいは可能であれば愛を送ってあげて、それとは別でポジティブな思いにフォーカスすることでネガティブが減ってゆくわけです。
これは、同じようでいてかなり違います。
(2-33) ヨーガのさまたげになる思いをふせぐためには、反対の思いを起こすことである。
たとえば、大きな怒りの波が心におこったとき、それをどのように制御したらよいか。ただそれに反対する波をおこすのである。愛を思え。「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ著)」
ネガティブに対して否定してしまうと抑圧された思いが無意識下においやられて、ふとしたことでその無意識が噴出してしまうことにもなり、キレやすくなったりします。怒りの沸点が下がってしまうわけですよね。
ただまあ、それは日常生活を送る上で程度問題のところがあって、社会生活のために他人と接している時は一時的にネガティブを抑圧して外に出さないようにする、といった生活上の工夫は必要かとは思います。
ですが、瞑想としての基本としてはネガティブは否定せずにそのまま受け入れてあげて、受け入れてあげることでネガティブは消えてゆくわけです。
悪い思いに対しては無関心でいる、というのが基本です。これらは仏教などでも言われていますね。
(1-33) 友情、慈悲、喜ぶこと、無関心、がそれぞれ、幸福、不幸、よい、わるい対象に対して思われればチッタ(心)をしずめる。(中略)もし思いの対象が不幸なものであれば、それに対し、慈悲深くなければならない。もしそれが良いものであれば、われわれは喜ばなければならない。それが悪いものであればわれわれは無関心でなければならない。「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ著)」
瞑想においてもこれが基本にありますから、ネガティブな思いに対して無関心でいるのが基本で、それに加えて、ポジティブな思いを想起する、というわけです。
ですけど、実際のところ、そうしてわざわざポジティブな思いを想起しなくてはいけないというのは瞑想の割と最初の段階だけで、ネガティブな思いが出てくるというのはエネルギー総量が低いということでもありますから、エネルギーが高まれば自然にポジティブになりますし、エネルギーが高まりさえすれば、そこに至るまでに多少のネガティブな抑圧があったとしてもそれも含めて解消されます。
エネルギーの高まりとは、平たくいえば「元気になる」ということですね。元気になればポジティブになる、という当たり前のお話です。
ですから、根本的解決はエネルギー的な解決であるわけですけれども、そうは言いましてもエネルギー的な解決には時間がかかりますので、ひとまずはこうしたテクニックも必要になってくるわけです。
ヨーガ的に言えばエネルギーの高まりとはクンダリーニの活性化ですけど、一般的には運動したりポジティブシンキングとか色々ありますし、エネルギーの高い食べ物を取るとか、いかようにもできると思います。
根本的解決にはエネルギーの高まり、クンダリーニの活性化が必要になるとしても、テクニックとしては「反対の思いを想起する」という方法はあるわけです。