雑念の否定は不要(同テーマ&時系列の前記事)

瞑想でいつの間にか自己暗示にかからないよう注意する

2021-03-06
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

特定の流派において、その流派の瞑想をしている人だけが何故か「キレやすい」、「怒りの沸点が低い」、「他人を見下す」というような、瞑想の目的とは逆の効果が出てきてしまっている場合があります。

これは、瞑想において自己暗示にかかっていることがあって、実際には瞑想がうまくできていないのにもかかわらず「自分は瞑想できている」と思っていますが、実際のところ、感情を抑圧して瞑想っぽい状態を作り上げているわけで、その抑圧された感情が何らかのきっかけで刺激されると低い怒りの沸点にすぐに到達してキレてしまったり、他人を見下す気持ちが出てきてしまうわけですよね。

抑圧とここで書いていますけど、「想像する」と言い換えても良いです。

自分が瞑想できていると「想像」してしまうわけですよね。

ですけど、実際の所、瞑想とは「自然に生じてくる」ものであって、自分の心が想像するものではないのですよね。

例えば、集中瞑想をしていると瞑想状態が自然に生じてきます。

心が一点に縛り付けられることで、それまで表層に出ていなかった奥深い意識が現れてくるわけです。それは文字通り「現れてくる」ということであって、想像したりするものではありません。

流派によっては瞑想中に体の感覚を観察したりするわけですけれども、そのような「観察」の感覚は誤解が生じやすくて、観察を心でしていること自体は五感に属するもので、瞑想で現れてくる「観察」は五感の観察ではなくて五感を超えているものなのですよね。

その一方で、五感の観察が瞑想状態だと勘違いしてしまう人もいて、その場合、割と想像で「瞑想できている」「観察できている」と思ってしまって、いわば自己暗示にかかってしまうこともあるわけです。

実際の所、そのように想像していたり皮膚の観察をしている状態と、実際にサマーディあるいはヴィパッサナー状態になっているときとは全く別物なのですけれども、最初は見分けがつかないですよね。そのような状態で、単に五感で観察しているだけにもかかわらず瞑想できていると自己暗示にかかってしまうことがあるわけです。

これは、それが悪いと言っているわけではなくて、割と初心者にはよくあることで、そのような勘違いすらもきちんと観察して、次のステップに進めばいいわけです。

流派によってそのような初心者の勘違いを指摘して間違っているとか単なる想像だとか言って、時には辱めるような指導をするところもあるようですけど、私からしてみたらそれは初心者が一定の段階に進んだことを示す重要な「しるし」であって、進歩の印なのではないかと思っております。瞑想をしていなければそこにすらたどり着かないわけですからね。十分な進歩だと思うわけです。

ですけど、そこで留まってしまって既に最終地点に到達したと勘違いしてしまうのは良くなくて、それは指摘してあげる必要が時にはあるかと思います。

とは言いましても、探究心が旺盛な人であれば「何かおかしいな。ここが最終地点なのかな。その割には自分の意識はこの程度だな」と思って、更に探求を進めるわけです。

その、自分で探求する、というところが面白いわけで。

別に、答えを求めているわけではないのですよね。

答え自身は書物のどこかに書いてあるわけですけれども、瞑想で面白いのはそのようなステップを一つづつ自分の感覚を頼りに探っていくところであって、それなしに最後の答えだけ示されても拍子抜けというか興ざめであったりするわけです。

自己探求こそが瞑想であると思うわけです。



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