ちょっと疲れている時は魂と感覚が少しズレていて、魂が動きに引きづられる感覚になります。体が動くとそれを同時にズレなく感覚として把握できている場合は意識がはっきりしている時で元気な時です。
疲れている時は、体の動きに対して魂がちょっとズレて、一瞬、魂が引きずられてから一致する状態に戻るという振り子のような動きになります。
最初は、疲れている時のこれらのズレはよろしくない状態なのかなと自分では解釈しておりましたが、実際のところ、このズレは自分の魂と肉体とを認識するための良いヒントになるので、疲れ自体はそれほど好ましくはないものの、一時的にこのような状態を作り出すかあるいは時に疲れる時はこのようなズレを観察してみるのも良いかなと思いました。
元気な時は主にマニプラがうまく働いていて、いわゆる丹田のエネルギーが体中にみなぎっていて、それ故に、観察状態も途切れなくズレなく体中に行き届いています。
それはそれで好ましい状態であることには違いないのですが、疲れた状態・・・ と言っても、普段の生活で特別そういったことはあまりなくて、ハイキングしたり長く散歩をするとかちょっと長めにサイクリングするとか、何がしか原因があって疲れ気味になった時、このような体と魂とのズレを感じることができます。
これは何故、好ましい面もある状態かと言うと、魂と肉体とは一体で動くのが基本で観察状態というのが基本にあるものの、実はそれらは切り離すことができて、魂と肉体とを切り離すことができればできるほど完全な分離の観察状態へと持っていけるからです。
・・・このあたり、語弊があるかもしれません。スピリチュアルで分離というと良くないことのように思えてしまうかもしれませんけど、ここで言っている分離というのは独立という意味合いで理解してほしくて、本来魂は汚れることがない純粋なものなのですけれども肉体に引っ張られてしまっているのですよね。魂にはもともと形もなくて純粋なもの、というのは流派によって色々と解釈がありますけど、ヨーガあるいはヴェーダで言うところのアートマンは永遠不滅で汚れることのない存在としてあるのですが、それが、あたかも肉体に引っ張られてしまっているかのように錯覚・・・ というか、覆いが被せられていて、肉体に引きずられてしまっているのですよね。
その、もともと純粋で独立しているアートマンあるいは魂を肉体から分離させるために、このような「ちょっと疲れた」状態で魂が体の動きに引きずられる感覚を味わうことは良い気づきのヒントを与えてくれると思っています。
実際のところ、何も修行とかしていない人ですと肉体と魂とはかなり分離していて、その、修行していない状態の分離に戻れと言っているわけではありません。
修行していない状態の分離は制御されていない分離であって、アートマンの覆い(タマス)は厚く濃い影のように覆いかぶさっていて、アートマンが見えることはありません。
一方、ある程度の修行をしてアートマンが見えてきて、魂あるいはアートマンと体とが一体になって始めてこれらの事柄が意味をなしてくるわけで、この状態ですと魂あるいはアートマンと体とが一体になって動いていて分離はさほどなくなっていますから、これが基本になった状態でたまに疲れると、その疲れの状態とは多少の分離を生み出して、その多少の分離こそが次なる完全な分離の常時観察状態へと持っていくための鍵というかヒントを与えてくれると思うのです。
この状態ですと、ついつい魂あるいはアートマンと体との一体化を追い求めすぎてしまいます。一体化した状態で体を自由自在に動かすことあるいは体や心を詳細に観察することが普通になってきて、そのヴィパッサナー(観察)状態を維持すること自体が目的と化してしまうことがあります。実際のところ、人間の体そのものも一時的なものですので、人間の体すらも知識を得るための手段でしかないのに、その操作方法に熟達することおよび人間の体と一体化すること自体が目的になってしまって、いつまでも人間の体を操作し続けてしまうという罠に落ち込んでしまうわけです。
そこで、意図的あるいはたまに疲れると、それらのヴィパッサナー状態に「ゆらぎ」を与えて、一時的な「分離」を作り出し、その「分離」こそが現状打破の鍵となって次の状態である、完全な意識の肉体からの分離による常時観察状態へと歩んでいけるわけです。
最近のスピリチュアルや仏教では苦行は良くないとか言われていますけど、たしかに昔ながらの苦行は良くないとは思いますけど、多少のきっかけ作りとしてはありなのかな、とも思います。
ただし、これらはとても誤解があるものだと思いますので安易に他人には勧めませんし、こう書いたからと言って他人に有益かどうかもわかりません。私はたまたま現在ある環境を利用しているだけという面もありますので、わざわざこのような分離状態を作り出す必要もないような気も致します。
とは言いましても、瞑想録として記録はしておきます。