意識が高層ビルのエレベータに乗って上昇するかのような感覚になってアジナあるいはサハスララの付近に意識が移動します。
もともと、体と感覚が一体になっている時は割とマニプラが優勢で、特に目や皮膚の感覚をヴィパッサナー状態あるいはカニカ・サマーディの状態で観察し続けています。
一方、アジナあるいはサハスララに意識が集まった時は五感を観察し続けているものの体と意識が一体という感覚から少し離れたものになります。
分離と言うとスピリチュアルでは割と悪者にされていますけれども、ここで言う分離とは、もともと肉体と魂とは独立しているものがヨーガでいうところの「無知」によってそれら体と魂が一体であるかのように錯覚している状態から体と魂を分離させる必要があるということです。
ここで誤解して欲しくはないのは、魂と体が完全に別物だと言っているわけではなく、アートマンあるいはブラフマンのレベルまで微細なところを見ればどちらも一体でありますので体も魂も違いははないということにはなりますけど、体と魂とが別物であるというのは実際にその粗大あるいはそれなりに微細な粒度においてはきちんと別物として存在しておりますので、そのように、ぼちぼち微細な粒度を見れば粗大な体とぼちぼち微細な魂とは別物だということであって、更に極限まで微細なところを見ればアートマンあるいはブラフマンの粒度においては同一であるというのはその通りなわけです。
そのように、人間が認識している粗大な肉体という体ともう少しだけ微細な魂(ヨーガでは魂とは言いませんけど)では、その素質は異なるわけで、それらが同一だと勘違いしている状態から引き離してあげる必要があるということです。
比喩的に言えば、ありのままを見る、ということでもありますが、そう言われたからと言ってわかるようでわからないお話かとも思います。
具体的に言えば、もともと五感の目とか皮膚とかの感覚を観察していて、その感覚と自分とが一体になっている状態から、感覚と自分という感覚が分離した状態に遷移するということです。
特に五感の目はマニプラが扱っているとヨーガでは言います。一方、直感の目はアジナです。
魂を体から引き離すということは、五感の目から、直感的な目に遷移するということであり、五感の目を扱っているマニプラから直感的な目であるアジナあるいはサハスララに意識の主観を移動させる、上昇させる、ということになります。
瞑想をしていて、魂が肉体と少し分離した時がチャンスで、オーラの手で魂を持ってあげると意識が上昇し始めて五感から離れ、高層ビルのエスカレータあるいは上昇気流に乗ったパラシュートか気球のようにぐんぐんと高度を上げてゆき、意識がアジナあるいはサハスララに到達することで感覚的な目が冴えてきます。その時は、五感と自分が一体になったという感覚から少し離れて、観察状態が優勢になります。とは言いましても肉体はまだありますので五感はなくなったりしませんし、それらが動いていて自分というものがあるという感覚はまだあります。しかし、それら五感が自分自身だったという感覚は随分と薄まって、多少の高みからそれら五感を眺めているような感覚になります。
実際のところ、本当は魂と体とは完全に分離ができて、自分以外の視点からも世界を眺められるのだという確証を得ます。ただし、これはあくまでも確証を得たという段階であって、実際にまだここでは魂と体とは完全に分離はできていなくて、ただ単に文字通り確証を得ただけの段階になります。
それでも、今まで体と魂とが一体になっていた状態と比べると随分と進歩したと言えます。
今までの瞑想ではサハスララに意識が集まったとは言っても体と魂がまだマニプラあるいはアナハタにある状態でサハスララにまでオーラが行き届いたということでした。一方で今回は、意識の中枢が一時的にとはいえアジナサハスララに移ったという感じであり、それなりの違いがあります。
比喩的に言えば、サハスララにオーラが集まって観察状態になる前はハイキングや登山をしてもなかなか頂上が見えてこなかった状態で、サハスララにオーラが集まった状態は山の頂上を尾根あるいはふもとから眺めて素晴らしいと言っていたのに相当し、今回は、実際に小さな山の上に登って素晴らしい、と感じる違いがあります。まだまだ素晴らしい山はありそうですけど、少なくとも、そのような違いがあります。