心と五感の観察を同時に行う

2021-02-27 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

最初は心だけ、あるいは五感のうちの1つだけを観察しますが、少しづつ同時に行う感覚になっている時間が増えてきたような気が致します。

特に、視界がスローモーションのヴィパッサナー状態になった時は五感のうちの1つである視覚にだけ意識が集中し、意識はそれで満たされます。

一方で、ナーダ音を聞いている時は意識がナーダ音で満たされます。

どちらにせよそれに集中している状態ですけど、集中と言っても良いですし、観察とも表現できると思います。表現方法の違いだけで、集中と言うか観察というかの言葉の違いだけです。

これらは、集中する時に利用する五感の種類が違うだけでどちらも1つの感覚を主に観察しています。

一方で、心というのはもっと微細で、心と言っても感情面あるいは心の声である想念的なものもありますから、感情はどちらかというと五感に近いものですけど、心の声である想念は五感に近いものからもっと深いところまでグラデーションがあります。

最初は心だけ、あるいは、五感のうちの1つだけを観察することに努めた後、やがて、その組み合わせになってゆくように思います。

やりやすいのは五感の方ですけど、瞑想するのであれば静寂の境地をまずは目標にすべきで、そうであれば想念が対象になるわけで、想念を観察するわけですね。

実際のところ瞑想の最初は静止(シャマタ)から始まるわけですけどとりあえずそのステップを抜かして全体像だけわかりやすく説明しますと、心の観察か五感の観察かという大分類がまずあって、そのうちどれから観察するか、というところが入り口になるわけです。

心は奥深いですから五感から始めても良いですし、心の特定の階層から始める場合もあるわけです。

瞑想で、特にサマーディやヴィパッサナーのような状態になれば観察状態になるわけですけど、その場合でも、心あるいは五感のうちどれか1つのみのサマーディあるいはヴィパッサナーから始まって、やがて、その組み合わせになっていきます。

最初は座っての瞑想ですけど、そのうち、日常生活でのサマーディあるいはヴィパッサナー状態になって、そうなれば、例えば最初は皮膚の感覚あるいは目の感覚だけ微細になって観察状態になり、そのうち、それだけでなく心の声である想念も観察できるようになります。

最初から想念の観察ができればそれをしても良いですけど、心は微細で、五感の方が粗大な感覚ですから五感の方が割とやりやすいわけです。ですけどたとえ五感から始まっても時間が経てば心の観察も自然にできるようになりますので、次第に組みあわせが増えていって、そのくらいになれば特に意識しなくても日常生活で割とサマーディあるいはヴィパッサナー状態を保てる気が致します。

これは、油断しているとその状態から落ちてしまいますけど、落ちたからといって悪いということではなく、どの時点が自分のサマーディの力の限界かを知ることは重要で、普段の日常生活をしていてもどのくらまでサマーディを保つことができるか、という日常生活そのものが修行になっているわけで、日常生活が悪いということはなく、座っての瞑想ばかりしていればいいといわけでもなく、普段の日常生活もそれはそれで大切になってくるわけです。