心を一点に集中させるのは間違っているという教え

2021-03-28
トピックスピリチュアル

流派によっては心を一点に集中させるのは間違っている、と教えています。

これはこれでよく理解できて、理屈としては正しくて、サマーディに近づいたレベルであればそれは正しくて、あるいは、素質がそれなりにあったり、現代社会のように雑多な社会でなければきっとそれは可能なのだと思います。

心がさまよい出ていかないように、すべての思考を遠ざけ、寂静の境地や楽にとどまろうと、心を一点に集中するのも間違いだということをはっき知っておく必要がある。この「集中」そのものも、またもうひとつ別の思考にほかならないからだ。心をリラックスさせ、ただ、気がそれたり忘れてしまったりせずに、自分の真の境地そのものを目覚めさせたままにたもち、いかなり思考にも支配されないようにするのだ。本当にリラックスしているとき、心はあるがままの自然な状態にある。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」

これはこれで一貫性があって、本質で言えばこれは正しいと思います。

しかし、本質では正しくあっても、特に最初はこれは実行が困難だと私は思っていますし、著者も同様のことを認めています。

修行を始めたばかりの時には、長い時間、こうやって気が散らないようにしながら、思考をあるがままに認めてやるのは困難だ。(中略)みずからの心の状態にとどまり、寂静な境地や思考の波の動きがあらわれてくるまま、一瞬一瞬を味わいつづける。それ以外に修習はない。あるがままの自己を知り抜き、自分自身の真のリクパの境地にとどまりつづけるのだ。それ以外に、何か非常にすばらしい経験や輝きを追い求める必要はない。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」

これはこれで正しくて、こうしてグル(あるいはラマ)に言われたらそのまま納得するしかないですけど、実際にはそれは割と高いレベルで物事を語っているように私には思えるのです。

リクパの境地はいわゆるサマーディを短期間でも行えるというレベルですから、リクパの境地に留まるのが困難な人であれば確かにこの理屈で合っていますけど、リクパが出てきていない人であればこれは困難なわけです。こういうことを言うと、リクパの境地は誰にでも備わっているから誰でも可能、という声が聞こえてきた気がしますけど、たしかにそれはそうですけど一般人のリクパの境地はとても弱くて、一瞬しか続かないわけです。

きっと近くにグルがいて一緒に生活するような環境ではそれが可能なのかもしれません。よく、精神修行にはグル(精神的な教師)が必要と言われていますけど、グルがいる環境であればそれはそれで正しいように思います。

特に初心者は、この覚醒した意識を常に保ち続けるのはとてつもなく困難です。簡単に挫折してしまうほど困難なわけです。グルが近くにいない環境であれば特にそうです。

一方で、グルがいたとしてもいなかったとしても、これらの説明を誤解して解釈してしまう可能性もあります。観察と言われると、これらで言っているリクパの境地とは五感を超えているのに対し、説明だけを読むと五感、特に皮膚の感覚を観察することがリクパの境地であるかのように勘違いをしてしまう可能性もそれなりにあります。

皮膚の観察をすることや、特に鼻のあたりの呼吸を観察すること、あるいは、眉間に集中することなどは五感の観察あるいは心の観察、心の集中という観点からすると大差なくてどれも全て五感を用いた心の集中であるのですが、皮膚の観察をしているとリクパの境地でサマーディ状態かのような勘違いをしてしまうわけですよね。特にグルがいない環境ではそうです。

ですから、私としては、上記の説明はとても正しいのですが、言葉の説明を聞くだけではとても勘違いしてしまうので、特に注意が必要なお話かな、とも思います。

それよりも、誤解も少なくて実行も可能である「集中瞑想」の方がその前段階の入口として瞑想手法として優れていると思っています。

ここで、一見すると矛盾したことを言っているように見えるかもしれませんけど、ある意味、この集中瞑想というのは確かに最終的なサマーディの状態においては集中というのは不要ですので、上記の説明のように「集中瞑想というのは間違っている」とも言えるのですが、そうは言いましても上に書きましたようにこのお話はとても誤解が生じやすいことですし、ましてや、いきなりリクパを使ったサマーディの練習なんて普通の人には実行がとてつもなく困難なわけです。

それであれば、集中瞑想から始めて「静寂の境地」くらいまで達してその後やがてリクパが出てきたところで上のようにサマーディに遷移すれば困難も少ないわけで、ただ、最初に注意事項として集中瞑想がゴールではないということだけ理解しておけば十分かな、と思うわけです。

上記のように色々と説明を聞いてしまうとまるで集中瞑想が悪者かのように解釈してしまうかもしれませんけど、実際のところ多くの流派で集中瞑想は初段階の瞑想として広く用いられていますし、観察瞑想と言っているところですらその内容を見ると特に最初は単なる集中瞑想が実態だったりします。その説明として矛盾しないように集中瞑想を否定していたりしますけど、実態を見れば集中瞑想でしかなくて、理屈を合わせるために集中瞑想を否定して観察瞑想と言っているだけだったりします。

これは弟子たちの理解不足にも問題があるのかもしれませんけど、最初は集中瞑想で全く問題ないわけです。そもそもサマーディというレベルに達していないのにサマーディに入っていく説明で集中瞑想を否定しているだけなのに、最初から集中瞑想が不要かのように弟子たちが理解してしまう、あるいは、瞑想の先生と言われる立場であっても割とこのあたりを理解していないことも多々あるように思えるのですよね。

瞑想とは心の中で行うものですから、このあたりを理解せずとも一応コースを受ければ瞑想の先生にもなれてしまいますけど、実際にサマーディに達したらこのあたりのことはすっきり理解できるのですけど、そこに達しなければ集中瞑想を否定しまうような誤解が生じてしまうのだと思います。

そうは言いましても、今の私の感覚からすれば集中瞑想はどうでもよくて、リクパのサマーディを日常生活で保つことにだけ最近は興味がありますから、最初に引用した説明の方がしっくりきているのは事実です。

ただ、過去の記憶を辿ってみると集中瞑想も有用だった時期もありますので、その時の記憶を元にお話をしていますが、たしかに、例えば生まれながらにそれなりの境地で生まれたら最初に引用したように集中瞑想を全否定してしまうのも致し方ないのかな・・・ とも思います。人によっては、特に偉大なグルはそのような場合も多いですしね。

ですけど、凡人はいきなりそのレベルにありませんので、集中瞑想から始めるべきだと思うわけです。

私は割と好き勝手にやっているのでこういうこと言えますけど、流派に属していると集中瞑想が絶対だったり、観察瞑想が絶対だったりして、堅苦しい面もあると思います。そこはまあ、個人的に思うのは流派のやり方は適当に聞き流しておいて自分の理解を元にやるのがいいと思いますけど、そこは人それぞれかと思いますのでそれもまた好きにすればいいと思います。

実際、上記の引用元であるゾクチェンでは、サマーディに入るための修行というものも存在していて、必ずしも上記の通り弟子に過酷な現実を叩きつけるだけではないように思えます。そこはきっと流派やグル(ラマ)の考え方、やり方に依存していて、上記のように考えるグルもいるということだと思います。

ですから、上を読んですぐに「そうか。集中瞑想は間違っているのか」と早とちりしないことが肝心だと思います。

繰り返しになりますけど、今となっては集中瞑想はちょっと気持ち悪くて不快感すら感じるくらいになっており、もともと停止していない心というものを無理やり止めたり一点集中して雑念が湧きにくい状況にするのは今は違和感しかないのですが、それでも、雑念が多くて雑念に振り回されている時は集中瞑想で心を一時的に止める瞑想も有効だったと思います。それの極地が「無」の瞑想なわけですけれども、そこで留まることをせずに一時的な休息であるのならば十分に効果を発揮できたわけです。