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悟りが理解を生むのであって理解が悟りを生むのではない

2021-03-26 00:00:00
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

経典を勉強すれば悟れる、みたいな流派がありますけど、個人的にはそれはよくわからなくて、そういうこともあるのかもしれないですけど、私は勉強だけではなくて体験が必要で、更に言えば、理解が悟りのきっかけになることはあったとしても最初に来るのはいつも悟りであって、理解は悟りの後に来るもの、あるいは、自身の状態を確かめるための理屈でしかない、と思っています。

自分の状態が悟りかどうかを確認するためには聖典を開いて勉強をする必要がありますけど、だからと言って、経典を勉強すれば悟れるというわけではなく、体験としての悟りが先にあって、それが悟りかどうか確かめる、あるいは、聖典の説明の説明のための理解が後に来るものだと思います。

もっと言ってしまうと、そのような表面的なことだけではなく、悟りそれ自身が理解をもたらしますので、悟りとは理解そのものだ、と言うことは確かに可能です。

ですけど、その意味における理解とは経典の理解のことではなくて、体験を伴うもので、経典を勉強することに熱心な流派が言うように「経典をしっかりと勉強して正しく理解すれば悟りに至ることができる」というお話とはちょっと違っているわけです。

悟りの質そのものが理解でできている、と言ってもそう間違いではないわけです。ですから、理解はたしかに悟りの本質そのものである、と言うことでもあるのですけど、だからと言って、経典に書かれてあることをそのまま理解して正しく解釈できたとしてもそれは悟りではないわけです。

悟りというものの質が理解でできている、ということであって、理解すれば悟れるというわけでもないわけです。

理解とはサンスクリットで言うとニャーナですけど、ニャーナこそが悟りである、というお話は、確かに悟りの状態であればそれはそれで正しいわけです。

ですけど、仏教の流派でも色々と意見があるように、例えばちょっと違う似たお話で「人の本質はもともと悟っているのだから何もする必要はない」という流派もありますけど、その一方で、人の本質は悟ってはいるもののそれは隠れていて、隠れているものを表すために修行しなければならない、と言っている流派もあって、真実は後者に近いのですが、同じように、「理解」においても、人の本質はもともと悟っていて理解に満ちているのだから修行しなくても理解しさえすればいい、と主張するのは、理解が隠れているからこそ修行が必要、というお話も対比できるわけです。

人の本質がもともと知識(ニャーナ)でできているからと言って悟っているわけでもなく、悟りの結果として人の本質がニャーナであることが納得できるということは、ニャーナ(理解)とは結果であって、手段は別にあるわけです。

小さなニャーナを積み重ねてゆけば悟りのニャーナになるのかもしれないですしそのような道もあるのかもしれませんけど、特にそこに修行方法の制約はつけなくてもいいと私は思うのですが。

そのように、知識が悟りに導くとか、知識だけあればいい、と言っている人たちの日々の行動を見ていると、長い間聖典をチャンティングしたり瞑想をしたりプージャ(祈りの儀式)をしたり、それはほとんど修行に見えるのですけど、本人たちはこれは修行ではなく儀式あるいは知識を得るための勉強、と主張したりしています。私からすれば、何と呼ぶかというくらいの違いで、それはお祈りであれば他の流派であればそれは修行であったり本格的な修行に入る前の加行と呼ばれている予備的な修行だったりするわけです。ですから、言い方だけのお話で、なんやかんやで似たようなことをしていると思えるわけです。

ですから、言い方はあまり気にしなくてもいいのかな、と私は個人的に思うのですが、一部の流派の方々にとっては言い方は重要ですので、私はそれはその人の主張を尊重しますから特に否定はしませんけど、個人的にはこのような解釈をしています。

どちらにせよ、悟りに達すればそこには知識(ニャーナ)があって、それは、あるというよりも、やってくる、という感じのもので、最初はやってくるように感じたりもしますけど、実際は、知識と一体になる、という種類のものですので、エネルギー的な体験だったりするわけです。流派によってはエネルギーとか言わなくて単に知識だけが重要としている流派もありますけど、まあ、言い方だけのお話だと私は思いますが。どちらにせよ知識に溢れた人はエネルギッシュで、誰であろうとエネルギーに溢れた人のことを否定はしないと思いますし。

その時、知識が先なのか、悟りが先なのかを識別するのは後になってしまうと難しくて、勉強を沢山している人が悟ったら知識が悟りに導いたかのように感じるかもしれませんけど、実際には、悟りが知識(ニャーナ)で出来ている、ということなわけです。それは、体験的には悟りで知識(ニャーナ)を得る、とか、ニャーナと一体となる、みたいな状態になるわけです。悟りと言うのは最初は体験ですけどそのうち日常になりますから、そうなるとニャーナとも常に一体になって、そうなると「悟りによって知識がやってくる」という状態ではなくなって、単にニャーナに包まれたいわゆる悟りの状態が続くようになります。そうなると確かにニャーナだけが存在する、ということも確かに正しくはありますけど、それは最初からそうなるわけでもありませんし、また、勉強して知識を得れば悟れるとかそういうこととも違うわけです。ステップがあるわけですね。

勉強を否定しているわけではなくて、勉強は必要で、勉強していたら悟る人もいるとは思いますけど、私が言いたいのは、そうした頭での理解と、実際にニャーナと一体になった状態とは違っていて、ニャーナと一体になりさえすればそれは理解の状態ではありますけど、だからと言って、勉強して知識を得て理解を高めればそのまま悟りになるかと言うと、それは保証出来ないわけです。

個人的にはそれよりも集中の瞑想から初めて静寂の境地の瞑想をステップで目指した方がいいとは思いますがそれは個人が決めることですので。



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