真理を絶対(者)の側から見ると行動はなくてただ真理だけがあります。流派によってはそれをニャー(知識)とか言ったりしますけど、真理とは知識であり、そこに行動は存在しません。何をしていなくても自分は実は悟っていて知識そのものであって、ただそれにマーヤー(幻想)の覆いがかかっているので見えなくなっているだけなのです。ですから、ただマーヤーの無知を取り除けばそこに知識(ニャーナ)が現れます。
そして、そのために行う行動が必要かどうかというところで流派によって意見が分かれるわけですが、私からすれば、言い方が異なるだけでどの流派も似たようなことを言っているように思われます。実際には、お互いの流派は他の流派のやり方ではなく自分の流派が正しいと思っているわけですけれども、傍から見ればどの流派もそう違いはないように思えます。人によっては違っているように見えるかもしれませんけど。確かに、一見すると違っているように見えます。
ヴェーダンタの流派は、知識(ニャーナ)を知るという手段によってモークシャ(解脱)を得ると言います。ここでは、知識は行動とは言わずに知るという手段が解脱に導くと主張しています。彼らは、行動に関する規範はニャーナではなくダルマによって定められていて、それは義務であって、モークシャを得るための手段ではないと言います。
一方、ヨーガの流派では瞑想を通じてサマーディの状態に導き、いわゆる悟りの状態になると言います。一般的なヨーガでは4つの道があると言われていて、どの道を歩んでも同じゴールに達すると言われています。
禅では座禅という手法を用いて悟りを目指したり、禅の流派によっては公案(禅問答)を通じて悟りを目指します。
一見するとどれも異なっているかのように見えますけど、実際、真理を絶対の側から見ているのか人間の側から見ているか、という違いくらいしかないように私には思われます。
真理の表現方法は多種多様で、絶対の側から見れば行動はなくてただそこにはニャーナ(知識)だけがあります。修行は不要で既に悟っているわけですね。
そして、その悟りの状態を妨げているものが無知だとすれば、それを取り除く行為が必要、というのはどの流派もほぼ同意していると思われます。
しかし、無知を取り除く行為を何と呼ぶのかが意外に流派によって異なっているわけです。
ヴェーダンタの流派は、無知を取り除くための修行などあらゆる「行為」は不要で、ただ「知る」という手段によってモークシャ(解脱)を得ることができる、と言います。ですから、ヴェーダンタの流派は修行はモークシャを得る手段にはならない、と主張しています。これはこれで、これだけを見るのならば一貫した説明のように思われますが他の流派の人が聞いたのならば行動や修行が不要という点に違和感を感じるかもしれません。
一方、ヨーガではその無知を取り除く方法(手段)として4つのヨーガの道それぞれの行動を通じて無知を取り除きます。カルマ・ヨーガであれば奉仕、ラージャ・ヨーガであれば瞑想、バクティ・ヨーガであれば崇拝や深い愛や祈り、ニャーナ・ヨーガであれば知識を得ることを行います。それらがいわゆる修行とみなされているわけです。
禅においては座禅をしたり禅問答をして無知を取り除きます。
一見するとどれも異なっているかのように見えますけど、私に言わせてみれば、どれも大差ないと言えます。人によって向き不向きがあるというくらいです。
ただ、あえて言うのならば、理論面で言えばヴェーダンタのお話が筋が通ってはいますので、理屈のお話はヴェーダンタがもっと広まって常識になってもいいのではないかと思っております。
ただし、ヴェーダンタのお話だけをきちんと理解せずただ聞いただけで真に受けてしまうと日本でも昔の道元とかが活躍した時代にあったように「何もしなくても人は悟っているのだから何もしなくても良い」みたいな邪道な教えかのように勘違いしてしまう可能性がありますので、そこは気をつけるべき点だとは思います。
私からするに、ヴェーダンタの人がそうは言っていても実際には修行っぽいことをしていて、それを本人たちは教義の理屈上、修行とは言っていないだけのように思われます。
実際のところ、ヨーガにおいても無知を取り除く方法はあったとしても瞑想状態そのものは「行為」ではなくて、「瞑想状態は自然に現れてくるもの」と説明されていますし、それは同時に「無知を取り除く」「タマス(愚鈍な性質)を取り除くことで瞑想状態になる」とか言われていますので、実際のところそれは行為ではなくて自然に起こる行為だということになっていて、実際その通りではあります。ですから、説明の方法として4つのヨーガの道で行動が説明されていたとしても実際の根本で言うとそれは行為ではなくて自然に起こるわけで、ただ、そのために行為が必要となっているだけなのですね。ですから、ヨーガも見方によっては「行為ではない」と言わなくもないわけです。そうは言っても、ヨーガはそのような言い方はせずに「修行」「行為」と表現してはいますが。そこに表現の違いがあるわけです。
禅にしても、座禅で座ることを修行のように思っている方は大勢いらっしゃいますけど、私は禅のやり方の座禅はそれほどしたことはないですけど、一応の私の理解で言うと、座禅とは、行為をしないからこそただ座る、ということだと思っています。ですから、元々の座禅は行為や修行とは思われていなかったのではないでしょうか。何か行動をするなり仕事をすると言うことが「行為」だとするならば、座禅というのは「何もしない」ということなのだと思います。それがいつの間にか時代が経つにつれて座禅という型が出来て、あたかもそれが修行という「行為」であるかのような誤解が生じてしまっているのではないかと傍から見ると思われるわけです。本来、修行だとか座禅だとかいう改まったものではなく、ただリラックスして座る、というものだったように思われるわけです。道元の書籍を読んでみると、道元はただ座るということを言っていたのであって、それは行為ではない、と私には解釈できます。
道元にしてもヨーガにしても、座った瞑想や座禅は一応の型があって一見すると行為ということにはなりますが、その実際は、ただ座って何もしない、というところにあるわけです。
何もしないとは言っても瞑想における注意がありますので本当に何もせず座るということではありませんが、気をつけるところを気をつけていさえすれば基本は何もせずに座るというところに本質があるわけです。
最初はただ座るだけというところから始まって、やがては、その瞑想状態が座った瞑想を終えてからも続くようになり、その気付きが日常生活の全てへと広がってゆきます。そうしたら日常生活がいわゆる修行になるわけで、そうなったとしたら行為だとか修行だとかそのような区別もなくなってゆきます。それを行為を呼ぶのか修行と呼ぶのかもよくわからないものになります。道元にしても座禅ばかりが有名ですけど行動しながらの瞑想ということも主張されていたように思います。
その状態は、傍から見ればただ単に修行が続いているとか瞑想状態が続いている、ということになりますけど、実際は、それは単にそうであるだけでなく、知識(ニャーナ)とも繋がっている状態でもあります。そのニャーナそれ自体は行為ではなくて曇り(無知)がないが故にありのままにニャーナ(知識)が現れている状態なわけです。
ですから、その状態に至ればヴェーダンタが言うように行為というものは必要なくてただ無知を取り除いて知識(ニャーナ)を明らかにするだけで良い、ということにはなるのですけど、それ以前であれば、そうはならないのですよね。
ヴェーダンタが言うところの知識(ニャーナ)は人が知り得ない知識であるシュルティに関する知識だと言われていて、それはいわゆる絶対の側から見た知識であって、確かにそのような意味においてはそうですけど、人の側から見た場合はどうなるか、というのはあるわけです。
絶対の側からすると行為が不要なのは確かにその通りですけど、人間の側から見たら何某かの行為が必要なわけです。
ヴェーダンタの流派はモークシャに至る手段は知識(ニャーナ)のみである、としていて、確かに絶対の側から見るとその通りではあるのですけど、それだと絶対(者)の側と人間との間に深い溝ができたままで埋めるのが難しい気が致します。もともと悟っていて絶対の側に立っている人が主張しているお話のように見えて、人間が悟るために深い深い溝があるように思えるわけです。一気に深い谷を超えられる人、あるいは、もともとある程度悟っている人であれば超えられるのかもしれませんが、ただ単にニャーナを得て悟れるかというと、それは難しいように思えます。
ヨーガの偉大な点としては人間が神を超えて絶対者に近づくことができる、という点なわけです。それは人間がどのように悟れるか、というお話で、ヴェーダンタの絶対者の視点と完全に同じとは言えませんけど、実際に人間がそれに近づくための具体的な手段が示されているわけです。
これはヴェーダンタの手法を否定しているわけではなくて、どちらも向き不向きがあって、それなりに悟りの兆候がある人にとってはヴェーダンタの手法でいいのだと思います。知識(ニャーナ)を得るだけで悟れる人もいるでしょう。しかし、人間との間にそこには深い深い溝があって、そこを超えるためには人間向けの手法が必要だと思うわけです。
ヴェーダンタの流派であっても、言葉では知識だけと言っておきながらチャンティングは熱心で、チャンティングは修行とはヴェーダンタの流派ではみなされてはいませんけど、他の流派であれば修行の一環としてみなされていたりするわけです。言い方は違えども、どの流派もそうは変わらないように私には思えるわけです。