悟りについて色々と理解の混乱がありますけど、このような前提がない悟りが何なのか見えてこない気が致します。
というのも、死んでしまえば肉体がなくなってスピリットになるだけで人生はそのまま継続するわけですけれども、死ぬことで変化する認識のことを悟りだと思ってしまうと、それでは死ねば悟れるのか、というお話になってしまいます。
死ぬことで変化するのは時間軸が超越しやすくなるとか物理的な制約から開放されるだとか、その程度・・・ その程度と言っても大きな変化ですけど、心の面から言うと生きている時と死んだ時とでは大差ないわけです。
生きている時に幸せな人は死んでからも幸せで、逆もまたしかりです。
生きている時は肉体的・物質的な制約に制限されますから例えば住居だとか金銭だとかいう制約によって縛られていますけど死んでしまえば金なんていらないですし住居とかもイメージで想像するだけでポンっと現れてきますので、基本的に自前で済ますことができますので物質的な制約に縛られることはなくなります。
ですから、生きている時に無理して付き合っていた人や、イヤイヤながら同居していたパートナーと死後も一緒に暮らす必要は全くないわけです。死後もずっと一緒にいたいと思えるような結婚が一番理想的だと思いますけどね。
それはさておき、そうして死後も生活が続くわけですけれども、そうして変化する認識や能力的な面は死ねば誰しもがある程度は発揮できるようになります。それは生きている人間からしたら超能力のように見えるかもしれませんが死後の世界・・・ というと語弊がありますが、それは死後ではありますけど割と普通の世界、スピリットの世界、天国の世界と言ってもよい世界においてそれらの能力は割と当たり前のように存在しているわけです。
ですから、この世においてスピリチュアル的な能力を開発してみたところで、死んでみたら割と普通で、なーんだ、そんなことか、というお話だったりもするわけです。
物質化能力だとか、テレポーテーションだとか、空中浮揚だとか、たしかに地上でそれらの能力を発揮するにはそれなりの修行が必要で、それも悟りへの道として有益な面もあるにはありますけど、それらの能力そのものが悟りではないわけです。
割とそれはメンタルなアストラルなスピリチュアル能力の「テクニック」に属するお話で、悟りとは本質的にはそれほど関係のないことなわけです。
生きている人間がこの世でいくら大きな物質を組み合わせて巨大な建造物を作ったとしてもそれが自己顕示欲の象徴だったりすることと同様に、スピリチュアルな能力で物質化とか何かを浮かせてみたりしたところで、そうしてこの世で巨大な建造物を作るのと大差ない、と言うこともできます。
それが純粋に悟りのための修行として行われているのであれば有益な場合もありますが、出来たからと言って、それが顕示欲を満たす結果になるのであれば悟りの道ではなくなります。
物質で芸術的あるいはプロの仕事をするのと同様にスピリチュアルな能力でプロの仕事をすることもできます。その場合、本質的な意味においては物質的な次元でプロの仕事をするのとスピリチュアルでプロの仕事をするのとでは割と同じであると言えて、どちらも高いスピリチュアルな活動でありえるわけです。
そうして見てみると、次第に、生きている人間と死後の人間とが大差ないのだ、ということが見えてきます。
それぞれ、対象ややり方および結果は違っても創造をして活動をして誰かに奉仕をしたり助けられたり、というところは同じなわけです。
そうして、死後の世界で可能なことを実現することが悟りではない、という理解に達したならば、そこで、それでは悟りとは一体何なのでしょう、というお話になるわけです。
死後の世界で普通にできるようになることが悟りではないのだとするならば、それでは、死後の世界でもまだ達成できていないことの中に悟りがあることになります。
悟りと言っても段階がありますが、時空を超えられることとか、物質化能力も、必ずしも死後で誰しもができるわけではありませんので、それができることが一応の悟りの一つの段階だと言うこともできます。それは単一のスピリットとして、独立したスピリットとして自由に時空を超えて動けるということであり、とりあえずの悟りと言っていいと思います。
しかし、それはスピリットが独立して存在しているだけで、まだ個別の存在です。スピリットは分霊を作りますから分霊を作ったり、自分が分離してきた大本であるグループソウルに合流することもありますけど、それは悟りというよりは単にスピリットの分離と合流のお話で悟りとはさほど関係がありません。グループソウルの方が悟っていたのですが自分のスピリットが分離したことにより意識が汚れてしまっていることもありますので、そのような時はグループソウルと合流あるいは再度分霊を受け取るということで悟りに近づく場合もありますけど、それは本質的にはただの分霊との合流と分離のお話で、どちらが悟りに近いかの違いがあるというお話です。ですから、その分霊の合流と分離のお話そのものが悟りとは本質的には関係がなくて、ただ合流したり分離したりする、というお話です。
では悟りとは何かというと、本質がわかっているか、理解できているか、という点になるわけです。それは頭だけのお話ではなくて自分のスピリットがそれを理解していて根源に繋がっているか、というお話で、そこには、本質的には能力とは関係がなくて、ただ、根源と繋がっているかどうかだけが悟りと関係があります。
もちろん、そうなれば能力的なものも出てきますけど、そうなって出てくる能力はそれ以前のテクニック的なものではなくて、ものすごく簡単にこの世を自由自在に動かせるようになります。その、動かせる範囲がそのまま悟りの深さになって、最初は自分を自由に動かすことができて、次第に、自分の周囲、更には地域、国、惑星へとどんどんと意識が広がってゆくわけです。ただし、広がるにつれて細かくは見ない感じになりますので、細かく見るために分離が必要で、ひとりひとりのスピリットはそのためにも分離をしてこの世を経験しているわけです。
ただ、分離を長くしてしまうとその根源を忘れてしまうので根源に戻るのが悟りであって、根源を理解しつつこの世を完全に生きるのがいま生きている人間の役割になるわけです。