瞑想とは心の波を静かにすること

2021-05-02 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

瞑想について色々と言われていますけど、基本はそういうことで、同じことを「集中」と言ったり「観察」と言ったりカタカナでヴィパッサナー(観察)とかサマタ(集中)とか言っているだけのことで、同じことです。

これは流派によって解釈に違いがあって、それでも実態は同じことかなと私なんかは思っておりますが、日本の場合は天台小止観で語られていることが基本になっているようでそこでは題名の通り止観であって「止(シャマタ、集中)」と「観(ヴィパッサナー、観察)」が瞑想のことだと定義されています。

あるいは、流派によっては瞑想とは集中のことだと定義されていて、例えばヴェーダンタ派ではそのような解釈になっていてサマーディ(三昧)も集中のことだと説明されていたりもします。

一方で、ヴィパッサナー系の流派では瞑想とは観察のことであると定義されていて、集中は瞑想ではなくて観察が瞑想だと解釈されています。

チベット系にもこのような集中と観察という区別はありますけど、それよりもゾクチェンの見解を元にした「普通の心」と「心の本性(リクパ)」による働きとしてこれらが説明されています。

どれも同じことを言っているわけですが、人によっては違ったものだと理解するかもしれませんし、流派による解釈は異なっていることもあるかと思います。それはその流派に属しているならば好きに解釈すればいいかとは思いますが、私は同じだと思っております。

これらは色々と説明はあれど、基本は心の波を静かにすること、という点では共通しています。

流派によっては、特にヴィパッサナー系の流派ではこのことは重要視されていない場合があって、ヴィパッサナー系にも色々とありますから流派にもよりますけど、流派によっては、心の波を静かにすることを重視しない流派があります。

とは言いましても、基本としては、これら全てに共通していることとして、心の波を静かにすることがあるわけです。異論はあったりするでしょうけど、基本はそうだと私は考えております。

これはどういうことかと言いますと、チベット系の見解に即して考えるのが一番すっきりするかと思います。

心の波を静かにするというのはチベット系の言うところの「普通の心」のお話です。

一方、「心の本性(リクパ)」は、しっかりと働き始めたならば普通の心に惑わされずに常に働き続けるようになりますので、そうなりさえすれば心の波が静かかどうかというのはさほど関係がなくなってくるのですが、普通の場合はこの心の本性(リクパ)はあまり動いておらず、普通の心の雑多な働きでリクパは覆い隠されて見えなくなってしまっているわけです。

ですから、瞑想の基本的な順序として、普通の心の雑多な動きを沈めて静かにする、という手順が先に来るわけです。

その最初の手順を「集中」と呼ぶのかあるいは修行の前段階の「加行(けぎょう)」と呼ぶのか流派によって色々と違いはありますけど、本質的なところで言うと心の動きを鎮める、という段階が最初に来るわけです。

そうして心の動きが静まってくるとやがてリクパの動きが出てくるわけですが、それが流派によっては色々と言い方の違いはありますけど、例えば「観察(ヴィパッサナー)」と呼ばれたりするわけです。

これは一般用語で言いますと「客観視」と呼ぶこともできます。

客観視と言うと頭で考える論理の客観のことを想像してしまうかもしれませんけど、頭で考える論理の客観および客観視は瞑想などしなくても普通のこととして存在しているわけですけれども、ここでいう瞑想における意味としての客観視は最初は誰しもが出来るわけではなくて、瞑想としての客観視はこうした心の本性(リクパ)によるものですから、最初はとてもその力が弱いかほとんどない状態なわけです。

流派によっては集中瞑想や心の動きを鎮める段階をスキップしていきなりリクパに働きかけます。

そうは言いましてもどの流派でも基本はステップを踏むわけですが、流派によっては、例えばチベット系の流派によってはまずリクパの本質に働きかけて、足りない部分を補うために基本の修行を行う、ということが行われたりするようです。

一方で、流派としてこうした基本のステップを踏み越えて、あるいは、一定の修行をしてしまえばそれで良しとして早急に心の本性(リクパ)のステップに進む流派もあったりします。

こうした段階というのはあるべくしてあるわけで、まだ準備が整っていない場合に先の修行をしたとしても全く理解できなかったりあるいは混乱を引き起こすことすらあります。

この種のお話は速度を競うものではないので、早く進んだ方がいいとか遅いから駄目だとかそういうことは全く無いのです。あるべくところでなすべきステップにいればいいだけのお話で、基本ができていなければそれをすればいいだけです。

早急に先に進もうという流派に属している人は、往々にして早いステップを進もうとして先で詰まってしまい、結局、戻ってやり直しになったりします。本人がそれに気付かずに先のステップに進んだと思っていても全然それができていなかった、なんてこともあります。

流派のやり方として、集中瞑想は初歩の段階だから観察だけが重要で観察をすることが早く成長できる、と言って集中瞑想をおろそかにして、集中瞑想をしないわけではないのでしょうけど観察瞑想を主にしていれば良いと言って観察瞑想の真似事で例えば体の観察とかして観察瞑想っぽいことをしていたりもしますけど、体の観察は五感に属するものですのでここで言っているリクパの観察瞑想とは異なるわけです。体の観察は観察という言葉を使っていたとしても五感の観察であるならばそれは集中瞑想でありますけど、流派によってはそれを観察瞑想と言っていたりしますから混乱があります。

観察瞑想と称して体の観察を行ったりすると不思議な感覚および認知をすることがあり、そうした体験はたまには瞑想の一時の味付けとして妙味を出してくれることはありますけど、そうした不思議な感覚は五感に属するもので、あくまでも集中瞑想の範疇なわけです。最初は心が安定していなくて静寂の境地にも達していない時にこうした不思議な感覚が出てくると何か凄いことのような印象を受けてしまいますけど、たしかにそれは瞑想をしたことで瞑想をする以前とは異なっていてそれなりの成長の印ではありますけど、そのような妙味の感覚は、静寂の境地がないのであればまだ集中の瞑想の段階であってリクパによる観察状態ではないわけです。

瞑想の基本は心を鎮めることであって、そうした妙味の瞑想は心を鎮めるどころか心が興奮してしまうことすらありますので、たまには面白いですけど、ほとほどにしておく必要があり、そうした瞑想における心の興奮すらもやがては収まってきて静寂の境地に達します。

そうして静寂の境地に達して、最初はただ単に静寂で、歓喜が沸き起こる状態なわけですけれども、やがてはその歓喜が静まってきて、静かな喜び、至福というものに変わってゆき、そうした段階を経てゆくとやがては心の本性(リクパ)の働きが出てきます。

リクパに達するにはそのような段階を踏むのであって、最初からいきなり観察瞑想をしてどうこうなるわけでもなく、であれば、集中瞑想がどうとか観察瞑想がどうとか言うのは本質から言ったら特に最初はあまり違いがなくて、とりあえず座って心を鎮めればいい、ということになります。

瞑想は説明するならばそのようにとても単純なお話で、瞑想の基本は集中だと説明されると「ふーん」とか「たったそれだけ?」とか思ってしまったりもするかもしれませんけど、実際のところ、その集中が進んで静寂の境地に達するにはステップが必要なわけです。

集中と言われてしまうと一点集中のことになりますけど、最初はそれでも良くて、ですけど、少し瞑想が進んでくると「集中」を少し違って解釈して、「波立っている水面を鎮めること」を集中だと解釈すれば良いと思います。

まず最初の一点集中はアスリートあるいは仕事的な集中で、それはいわゆる「ゾーン」ということでもありますけど、一点集中をすることで心がそれだけになり雑多な雑念に惑わされなくなり物事のそれだけに集中して歓喜が沸き起こります。その段階ですと一点集中に至るまでに時間がかかったり数ヶ月あるいは数年に一度だけ一点集中のゾーンに入れる、みたいな断片的な集中になります。

やがて、その一点集中のゾーンに意識的に入れるようになって、仕事においてゾーンに入って仕事をする、みたいなことが普通に出来るようになります。

それを繰り返しているとゾーンとしての集中が静まってきて、割と日常の生活においても意識が敏感になってきます。それが「波立っている水面を鎮めること」という段階です。この段階ではまだリクパが完全には働いてはいませんが、少し出てきた段階です。とは言いましても瞑想的に言いますとまだリクパどうこうと言うよりは普通の心がかなり優勢に動いている状態になります。

そうして瞑想を進めてゆきますと静寂の境地に達します。これはあくまでも普通の心のお話で、リクパが出ているかどうかは実のところ静寂の境地そのものとは直接的には関係がなかったりするのですが、静寂の境地で普通の心が静まった状態になると、心の奥底にあるリクパを探れるようになって、リクパとしての心の本性を意識的に動かせるように訓練できるようになります。

それ以前は意識を動かすと普通の心が動いてしまっておりましたが、心を沈めて静寂の境地に達することで普通の心がほぼ止まった状態になることで心の本性であるリクパがどこにあって、そのリクパを動かすためには意思をどのように働かせればリクパが動くのか、瞑想中で確認できるようになります。そうしてリクパを動かし始めるといよいよヴィパッサナー状態(観察状態、サマーディ)になるわけですが、最初はまだその動きが弱い状態で、特に最初は普通の心を鎮めて静かにしておかなければリクパの動きはすぐに消え去ってしまいます。

と、そのように瞑想は進んでいくわけですが、いよいよヴィパッサナー状態あるいはサマーディになったとしても最初は普通の心が静まっているという条件下においてのみリクパが働くわけで、かなり最初の段階から多少進んだ段階においても尚、心を鎮めるということは重要になっているわけです。

流派によっては心を鎮めるということをそれほどせずに「ある程度の集中は必要」とか言っている流派もありますけど、この種の静寂の境地は特に最初は特別の集中を必要として、それなりに瞑想が進めがそれほど集中は必要ではないですけど、瞑想のステップとして初心者に教える時にも「ある程度の集中は必要」などという説明では誤解があると私は思っていて、その程度の集中で済むということであれば最初からそれなりに瞑想状態にある人に対してしか有効ではない教えなのかな、とも思ったりするわけです。瞑想の素養が最初からそれなりにあれば「ある程度の集中は必要」と言われて「ああ、そうか」と納得もできるのでしょうけど、現代社会の雑多な騒がしい世の中で暮らしている人にそのようなことを言っても伝わらないのではないでしょうか。昔はそれでも良かったのかもしれませんし、その流派に独特の、それを補うような修行があったりするのかもしれませんので、それは流派次第なのかもしれませんが私にはよくわかりませんし、いくつかの流派で瞑想の説明を聞きに行った限りでは私はこのように解釈しました。

特に最初は色々と見聞きしましたけど、やはり瞑想の基本は心を鎮めることかな、と思うわけです。