悟っているのに悟りを探す人たち

2021-05-05 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

真理を追求する人を見ていると、私からすると悟っているように見えるのに悟りを追い求めている人が大勢います。

悟りとは遠くにはなくて近くにあって見えていないだけというのは昔からよく言われているたとえ話ですが、近くにあるというよりは全ての人、その人そのものが真理を体現していて、悩んでいようがいまいが既に悟っていて真理そのものなわけです。

ただ違うのは眠っているかどうかの違いであって、いわゆる悟っている人は目覚めていて真理に自覚的で全てが真理で悟っていると認識していて、眠っている人は自覚的ではないということです。

どちらにしても全ては真理で全ての存在は悟っているのは変わりがないのですが自覚的であるかどうかだけが違うわけです。

そのような状況の中、真理を探す人は何かを求めたり変わろうとしていますが、もともと悟っているわけですから何者にもなる必要はなく、既に悟っていることを自覚すればいいわけです。

これは昔の仏教でも禅が出てくる前の時代に誤解されていたことがあったようですが、既に悟っているのだから何もしなくてもいい、と言う考え方が当時の仏教の一流派にあったことに対し、禅は、本来悟っているからこそ悟りを自覚的に顕現するために修行が必要である、としていて、修行や真理の勉強とはそういうものなのだと思います。

そうは言いましても、端から見れば、既に悟っている人たちが悟りや真理あるいはモクシャ(自由)を求めたり勉強しているのはある意味滑稽で微笑ましくもあります。基本的な生活に苦労がさほどなくてそのようなことに時間を使えるのは平和だと言うことでもあります。

自分が真理だと知る方法はいろいろあって、座禅だったり勉強だったりいろいろあります。ですけど、どちらにしても既に悟っているわけですから、ある意味、微笑ましく見えるわけです。

誰かに貴方は既に悟っていますと言ってもピンとこなかったりしますけど、悟りとはそもそも指摘できるようなものではないのて誰かに言われてわかるものではそもそもなくて、悟っている人でも誰かに悟っていると言われたら「なんじゃそりや」となるのが普通で、悟りとは自覚的であるからこそ、指摘がしにくいです。もし誰かに悟っていると言われてその言葉か響くのであればそう言っている人が悟っていて自分は気付かされているわけです。あるいは、自覚的に生きていて悟っているのであれば悟っている人にそう言われても何も変化がありませんから最初から悟った気付きの状態から変わらないわけです。言われてハッとして悟りを垣間見るのは悟っていない人が悟っている人にそう言われるパターンで、それ以外は何も起こらないわけです。よく、真理の業界で偉い先生と同じことを真似して言っても響かないのはそこに悟りの違いがあるわけです。

この種の自己探求こそが悟りへの道なわけですけど、表現としてはいろいろあって、神の道とか自由を知ることとか自分を知ることとかいろいろ言われていたりしますが、真理の世界は割と自己探求の世界ですので、教えられたことが全てと思う人は向いていなくて、自分で探求しないとある程度の境地には達しなくて、だからこそ形としての手順や教義の違いはさほど重要ではなくて、全ての宗教やスピリチュアルの教えは大差ないと私は思うわけです。

形にこだわる人は別物だと思うでしょうし、一般的に言えば教えが違えばゴールは違うとお思いかもしれませんけど、そもそも真理の教えと言うのは表現が困難で文化的背景を元に説明されてきましたので、同一の根源の教えを違う表現をしているだけなのです。

もちろん人によって誤解もあるでしょうしその教えの純度も違うでしょうけど、基本的な考え方としては最終的なゴールは一緒で、どの部分の教えがどの人に対して行われているかのみが異なっているわけです。どちらにしてもゴールは一緒なわけです。

そして、そのゴールとは、実は全ての存在は悟っていて既にそのままで完璧でありのままで素晴らしい、という自由な視点・理解にあるわけです。その理解のために、まだ顕現していない、まだ理解していない、まだ気付けていないその真理を理解するために勉強したり修行したりするわけです。