顕教の背後には密教があり密教の結果として顕教がある

2021-05-10 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

最初は顕教のわかりやすい教えから始まります。それは道徳だったり仁義だったり礼儀だったり作法だったり風習だったりします。

わかりやすい例として、食事の時はあまり喋らずに静かに食べましょう、というお話があります。

このお話をマナーあるいは道徳や風習と捉えるならばそれは顕教です。
一方、修行の結果として捉えるのであればそれは結果としては密教です。

密教としての修行は別にありますが、密教の結果としてマナーや風習のような姿に行き着くわけです。

これは単なる風習あるいは習慣として片付けられているようなお話かもしれませんけど、このような普段の当たり前のお話の中にも顕教と密教が隠されているわけです。

ですから、顕教が単に顕教としてマナーや風習あるいは道徳のお話で終わっているならばそれは薄っぺらい教えで、一方、背後に密教の教えがあって結果として顕教を教えているのであればそれは深い教えになります。

よく、仏教とは道徳的なものだとか風習を作ってきただとか礼儀的なものだとか言われたりしますけど、形としてはそのようにマナーや風習として残ってきた、ということだと思います。

一応は仏教徒は仏教大学とかで勉強はしているとは思いますけど、一見すると、それら顕教の教えは当たり前すぎてその背後にある姿がよく分からない場合が多いように思います。

これは、仏教徒からしても同じことで、あたかも単なる道徳や風習と思っていてもその背後に密教の教えがあるわけで、それがわかっている仏教徒と単に道徳や風習としか理解していない仏教徒とが実際にはいるということです。

本来、顕教と密教とには分かれておらず顕教と密教が一対になって初めて仏教ということだったかと思います。少なくとも私はそのように理解していて、その原型は原始仏教ということになるかと思いますが、密教的な要素は今は真言宗に受け継がれていますが、それよりも、インドに残っているヴェーダやチベット系仏教にこそそれらの雛形があるように思います。

雛形はそのようにしてあり、今は、特に日本では密教の部分と顕教の部分が分離して存在していて、流派によって顕教だけあるいは顕教を主に教えていて、一方、密教だけあるいは主に密教を教えている流派があったりしますけど、本来は、表裏一体なものなのですよね。これには異論があるかもしれませんけど少なくとも私はそう思っています。

密教的な教えは、簡単に言えばサマーディ(三昧)のお話になります。

そして、サマーディに達するとそれは最初は単なる修行中の一時のお話に過ぎませんが修行が進んでゆきますと日常生活にまでサマーディが広がり、普段の生活にまでサマーディが広がってゆきます。その時、修行と日常生活が出会うのですよね。

サマーディが日常生活に出て、例えば、上記の例で言いますと食事ですけど、食事の時に食事をありのままに見て食材をそのまま直接的に「むきだしの心(いわゆるリクパ)」で味わうことこそがそのままサマーディでもあるし瞑想でもあるし流派によってはそれをも修行だと言っています。

サマーディ以前の場合、普段の普通の心は彷徨っていてあちらこちらを漂って想像を繰り返したりしていて目の前のありのままを見つめることが難しい状態になっており、ありのままに一瞬見ることができても次の瞬間には心が彷徨ってしまって食事そのものをずっとありのままに継続して感じて受け入れて体験し続けることが難しい状態になっているわけです。

一方、サマーディが一時的あるいは日常生活で継続的なものになれば普段の生活にも広がって、食事の時は心が彷徨い歩かずに食事だけを楽しむことができるようになります。楽しむと言っても歓喜ではなく、ありのままに食事を「むき出しの心(リクパ)」が直接的に、途中に想像を挟むことなく、機械的に自動的に動かすことなしにリクパがそのまま食事と目の前に対峙して間に何も挟むことなく体験、行動することができるわけです。

これは単なる理解でもなく実際の行動であり体験であり、実際の起こり得るものです。単にきちんと理解したからそうなるというものでもありません。ただ、理解ということで言えば、これらの体験・経験は感覚的なものですので、違ってくるのは理解と認識のみでありますので、一部の流派が主張しているようにそれら全てのことをトータルに見れば「理解」とか「知識」とか言えなくもありません。頭の中で起こることではありますので、一応はそのことを「理解」と呼べなくもないですし、確かにそういう面はありますけど、より一般的には、知識とか理解とかいうよりも、体験が継続的に現れる、と表現する方がわかりやすいかと思います。

そのように、サマーディは単なる机上の空論あるいは聖者だけが行えるものではなくて誰しもが可能で、実は普通の人が何気なく行っている行動そのものがサマーディだったりするわけです。

サマーディとは何か遠くの世界にぽつんと存在しているのではなくて、日常生活と結びついているのです。

それは理解を超えたものと言うこともできますけど違ってくるのは認識のみですのでそのことを理解とか知識とか呼ぶこともできるということです。ロジカルな普通の考える心(ヨーガやヴェーダでいうチッタあるいはブッディ)を超えるものではありますけどアートマン(真我)としての意識(チット)が現れるのがサマーディであるわけです。日本語で心というと幅広いですけど、簡単に考えるなら普通の心と高次の心という2つの心がある、と考えるのが分かりやすいです。高次の心が現れてきた時に自らの行動が異なってくるのですが、それが今の日本における道徳や習慣、風習といったものに現れているのです。であれば、昔の日本の人々はそれなりの覚醒を持って目覚めて行動して生きていたのだということになります。

そして、顕教が教えているのは道徳的なものである一方で、同時に、密教の特にサマーディの結果としての日常生活のあり方を表現してるわけです。

顕教の教えとしてわかりやすい日常生活の道徳とか躾を教えるのは有用ではありますけど、あたかもそれだけでサマーディが達成できるかのような教えを顕教の方は時にしたりしますけど、あくまでも顕教の教えは修行した結果としての当たりの前の日常の姿であって、修行は別にあるということです。

密教というと呪術のイメージがありますけど実際には本質は呪術ではなくもっとシンプルなところにあるわけです。

顕教を行っている方がそれをどこまで理解して行っているかどうかはわかりませんけど、顕教の教えに従って道徳的な教えや躾及び義務に従った生き方をするのは基礎にはなりますけど修行としては不十分だと私なんかは思うのです。ただ、この辺りは流派ごとの教えがありますので基本は好きにすればいいと思うのですけど、お坊さんであればそれなりに勉強をする人もいるでしょうからそれでもいいのかもしれませんけど、本来、仏教というのは自分たちが修行するという面もあるにはありますけど真理を求める人々を導くという役目もあるわけで、そのような人たちがただ顕教の教えを行うだけで人々が救われると思っていたら大間違いなのだと私などは思うのです。

顕教の人は道徳や道理及び躾を説きますけど、そうして礼儀正しく振る舞っていると実際のところ本当に悟っている人となかなか見分けがつかないことがあります。きちんと勉強していればあたかも悟っている人と同様の論説を解くことができて、論説だけを見ると本当に悟っているのかあるいはきちんと勉強しただけなのかが見分けがつかないことが時々あります。悟っていても表現する言葉がないだけの場合もありますし、逆に、悟っていないのに言葉は達者な場合もあります。

とは言いましても、一般的には顕教は道徳的なところで止まっているように思います。それはそれで大切ではありますけど、私からしたら、道徳だけで満足はできないのです。

顕教の人に話を聞いて、回答として「本質は当たり前の日常にある」と返答があったとしましょう。顕教のお坊さんはとても簡単な日常生活のお話をして人々を啓蒙するようなお話をすることが割とよくあるように思います。普通の人はそれを聞いて満足して帰るのでしょうけど、個人的に思うのは、それが、現状に眠り込むためあるいはただの受け売りであれば生臭坊主あるいは真面目だけれどもよくはわかっていない人で、本当に悟っている人が同じ言葉を言ったらもっと鋭く「響く」わけです。同じ言葉でも言葉の響きが違うわけです。現状維持を肯定するだけの同じ言葉を聞いても何も面白くはなく真実ではなく、真実はもっと奥に刺さるものなわけです。

刺さると言ってもとんちんかんな指摘をして困らせる場合もあります。それは割と仏教の人がよくやることで、本人は指摘しているつもりなのでしょうけど、言われた方は困るだけで全然響かないことが多いのです。例えば、よくある指摘で「それは想像しているだけで本当にそうなったわけではない」みたいな事をヨーガとか仏教の人は好んで言いますけど、ほんとありきたりの指摘で、面白くも何ともありません。確かにそういうお話はありますけど、言葉が全然響かないのですよね。生臭坊主あるいはよく分かっていない人がこういう事をいうと単なるマウンティングになってしまいます。指摘することで自分の優位を確保しようとしているわけで、意識的か無意識で行っているのかまではわかりませんけど、それは愚かな事です。誇大妄想狂というと言い過ぎですけど自分を過大評価している人ほどこうして相手を指摘して面白がります。顕教の教えにはそういう危険性があります。わかっていないのにわかったつもりになってしまうのです。側から見たら何か凄い人のように見えることもあるでしょうけど、言われた側からすると単なるマウンティングでしかなくて困るだけのことも多いのです。

顕教のお坊さんあるいはインドで勉強してきた人に色々と質問すると「それは貴方に準備が出来ていないからだ」みたいなことを言われることがあります。まあ、それはそうなのかもしれませんけど、言葉が響かないのですよね。生臭坊主あるいはよく分かっていなくてただ勉強しただけの人にそれを言われても・・・。と思ってしまいます。まあ、本当に悟っている人という可能性はなくはないですけど、大抵は、きちんと真面目に勉強してそれで悟りだと思っている人が多いです。顕教あるいはインドのヴェーダンタ学派ではきちんと勉強して身につければその理解が悟りだったりモクシャ(自由)になるというお話をする人がぼちぼちいますけど、本当の悟りと単に道徳あるいは勉強して身につけただけの人の差はなかなか微妙で見分けにくい時もあるのですよね。

見分け方としては、悟っている人の指摘は「静か」で「淡々」としています。そこに静寂さがあります。一方、ただ学んだだけの生臭坊主あるいは真面目で勉強したけれどもあまりよく分かっていない人の指摘はうっすらと(表情を隠しながらかもしれませんけど)面白がったり相手と勝負したりするような態度が表に出ます。真面目で相手を傷つけない人の場合もありますけど、相手を傷つけないからと言って悟っているわけではないのが難しいところです。実際に見てみれば一目瞭然で全然違うのですけど、言葉だけを見ていると割と似ているので、指摘することで自分が何者かになったかのように勘違いしてしまう人もいるのですよね。まあ、それはよくあることですので、微笑ましいと言えばそうなのですけど。顕教は密教の結果であるからこそ、あたかも道理をわきまえて生活していれば悟っているかのような錯覚に陥ってしまい、それ故に、道理と躾で他人を指摘するという茶番を繰り返してしまうことがあるわけです。本人にその気がなくても、流派としてのやり方があると勘違いして行ってしまうこともあります。

個人的に思うのは、異論はあるかもしれませんけど今の日本の顕教や密教はそうした型にはまっている面がそれなりにありますので、原型であるインドのヴェーダやチベットの教えに本質があるように思います。とは言いましてもそれらインドやチベットの流派の人が必ずしも分かっているというわけでもないのが難しいところですが、原型がより多く残っているように思います。

顕教をインドやチベットのサマーディの視点で見ると、サマーディの状態で日常生活を過ごすことと日常生活を道理を持って静かに過ごすことは似ているようでいて微妙に異なることがあるということがわかります。同じことを意味している場合もありますけど、同じことを意味しているのならばそれは日常生活がサマーディになっているということですので、基本的には別物と思った方がいいと思います。

瞑想の「集中」に関する解釈も同じようなことがあって、瞑想の基本は集中から始まってやがては日常生活がサマーディになるわけですが、サマーディに達していなくてもマナーや作法が洗練されているとサマーディのように見えることがあって、瞑想の修行で集中を訓練とかしてこなくてもあたかもサマーディを達成したかのように見えてしまって、瞑想の集中が不要であるかのような勘違いが生じてしまう可能性があるわけなのですよね。顕教やヴェーダンタの勉強系の流派において瞑想の「集中」が不要というお話(あるいはサマーディが集中だと定義している流派においては集中としてのサマーディは不要というお話)はちらほら散見するように思われますけど、それは顕教のマナーがあたかもサマーディ状態あるいはモクシャ(自由)を達成した状態かのように見えてしまう、という誤解が元になっていたりするわけです。

これは、顕教あるいはインドのヴェーダの学派あるいは特権階級のブラフミン(バラモン)がその特権をグループ内で囲い込んで維持するために誰かに悟りあるいはモクシャ(自由)というステータスを与えるシステムとこれらの考え方が組み合わさることで凡人でも悟りあるいはモクシャ(自由)を得ることができる教え(システム)になっているという面もあると思います。ですから、システムとして社会の階級制度あるいは特権階級を維持するために詭弁として述べられているお話と、本当に悟りやモクシャ(自由)になる方法とを混在しないことが重要ですね。ブラフミンは長い間特権階級を享受して来て、今はだいぶその権勢は失われてはいますけど、それでも、長い間続いてきたシステムが残っているということだと思います。それらインドの悪習もあるにはあって、一方で、原型としての悟りやモクシャ(自由)のお話もありますので、日本人としてはインドの悪習とは無縁でありますから、本来の原型だけを学ぶことができるわけです。勉強しさえすれば悟りやモクシャ(自由)に至れるというのは私から見るとインドの悪習の詭弁のようにも見えて、流派の一門に生まれた出来の悪い人であっても流派の中で高いステータスを得て役職を得ることができるためにそのように言っているだけ、というように私には見えるのです。元々そのように割と詭弁として始まったものがその後、何世代も重ねるうちに忘れられて、教義としての形式が固まってしまったのではないかと推測するのですが、どうでしょうか。確かに、サマーディというのは認識だけが異なりますので考えようによっては「知識によって悟りあるいはモクシャ(自由)になる」、という言い方をすることもできなくはないですが、ちょっとこじつけな気がします。こじつけのように私には見えるのですが流派によっては大真面目でそのように言っていますのであまり言いたくはないのですが、ちょっと違う気がします。顕教やインドのヴェーダンタなどの勉強系の流派のお話を聞くときは、このような割と悪習の部分を取り除いて原型の部分だけ見るようにすると割と話がすっきりと見えてきます。ただ、本人が悟ってはいなくとも伝統において勉強して次の世代に教えを代々繋げてくれたという点に関しては功績が大きかったと言えますので、一概にそれが悪習だとも言い切れない面もあると思います。

サマーディになって日常生活にまで常に観察が行き渡ってありのままを見て感じられるようになるとそこには見ようによっては「集中」なんてなくてリラックスしながら物事を微細に詳細に感じられる丁寧な日常生活になるわけで、そうなると、瞑想の基本である「集中」とは異なったような状態になるわけで、それがサマーディなわけですけれども、一見するとそれは瞑想とは違ったものであるかのように見えますけど実際のところ、瞑想を「集中」から始めて突き詰めた結果としての観察状態のサマーディの日常生活の状態になるわけです。

サマーディと言っても瞑想中だけサマーディになる段階から日常生活そのものがサマーディになって瞑想と日常生活の区別がつかなくなるような段階まであるわけで、日常生活がサマーディになるともはや瞑想の「集中」とは無縁になる、と言うと語弊がありますが、機敏な微細な鋭い感覚が常に働いている状態になりますので、ずっと集中している、とも、あるいは、集中していない、とも表現することができて、どちらも正しい表現方法であるわけです。一点に集中してはいないですが常に満遍なく意識は集中状態にあるわけです。フォーカスする1点という種類の集中ではないですが意識が散漫になっておらず常に気付きの状態にあるという意味では集中なわけです。集中と言っても緊張はしておらずリラックスしていて、リラックスしているのと同時に意識はしっかりとしているのです。ですから、集中と言ってもその両者の意味があって、瞑想では概ね1点集中ですけどサマーディでは1点ではない意識の幅広い集中になるわけです。1点集中ではないと言ってもある程度の意識の方向性はあります。心というものは意識を向けた方向に向かうものですけど、ここでは心の奥にある意識が働き出した状態で、それは全てを把握しているというわけではないですけど意識が常にあって、それはある程度の方向性のある集中ではあっても一点集中ではないのです。ですから、サマーディのことを集中と呼ぶこともできますし集中と呼ばないこともできて、流派によっては集中ではなく観察だ、と表現したりしますけど、表現方法の違いだけであって、どれも同じ状態の筈なのです。流派によってはこのようなサマーディ的にリラックスしている1点集中ではない満遍な集中状態のことを瞑想と呼んだりもします。瞑想が一点集中なのは割とヨーガ系ですけど、サマーディ的なリラックスの瞑想を瞑想と呼ぶ流派もありますので、瞑想とかサマーディだからと言って一点集中だけかというとそうでもないのです。

このようなサマーディですから、顕教において日常生活があたかもサマーディのように見えてしまうことがあります。実際は凡人がマナー良く生活しているだけだったりするのですが、それでも、振る舞いの上品さなどからサマーディのように見えることがあります。一方、サマディのようにそれほど見えなくても実はサマーディ状態、ということもあったりします。

そうは言いましても一応はその人が気付きを持って行動しているかどうかという点で見分けがつくと言えばつきますけど、なかなかわかりにくい時もあります。

そのような洗練されたマナーにおいてサマーディ状態かのように勘違いしてしまうことがあり、特に顕教は行動が洗練されていたりしますから、サマーディ状態でないのに素晴らしく見えたりサマーディ状態に見えたりするわけです。

普通の場合、マナーや作法が洗練されてくるとまず入る境地がいわゆる「ゾーン」で、とてつもなく集中した状態になって歓喜あるいはエネルギーが沸き起こり、一時的にその集中の大将との一体感を感じることがあります。そのゾーン状態は極度の集中によって起こりますのでまだそれはサマーディではなく、ゾーンが終われば普通の状態に戻ってゆきます。そうしてゾーンを繰り返しながら瞑想を深めてゆくわけです。ここで瞑想と言っていますけど瞑想は座って行うものだけでなく行為の中にも瞑想がありますので、作法やマナーという入り口からも瞑想に入れるわけです。そうしてゾーンに入ることができます。ヨーガ的に言えばダーラナ(集中)の段階ですかね。

ですけど、それはまだサマーディではなく、サマーディはゾーン(ダーラナ、集中)に入ることが常になってからゾーンの歓喜が穏やかになって、そうして常に集中の状態が平常状態で保てるようになってようやく現れてきます。始めは短期間のサマーディから始まって、やがて、日常生活のサマーディになるわけです。そうするとようやく顕教のマナーや作法といったものの本当の意味を理解するに至るわけです。

サマーディになったからと言っても作法が完全に身につくとかそういうことではなくて作法とかマナーはそれはそれとして学ぶ必要がもちろんあるのですが、その奥底に眠っている意味にサマーディになると気付けるようになるということと、サマーディになった上で学んだ作法というのはよく身に付いたり、学んだ作法にサマーディが加わると作法が深まる、という違いがあるわけです。