瞑想における体験・経験と知識の解釈は流派によって異なる

2021-05-30
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

瞑想におけるシャマタ(止)からサマーディへの過程は基本的に勉強だけでなく実際に瞑想をして体験してゆくものになりますが、体験とか経験とかいう言葉は流派によって異なっていて、勉強系の学派(顕教やヴェーダンタ等)では経験という言葉は否定されていることがあって代わりに勉強するという言葉を使うイデオロギーがあるようですけど、実際のやっていることを見るとサンスクリットや仏典のチャンティングだったりしますので実態はそう変わらないように思います。

ヴェーダンタ等、学派によっては経験という言葉が否定されていて勉強するという言葉が使われていますが、その理由としては経験というのは一時的なものなので最終目標である悟りあるいはモクシャ(自由)あるいは目指すべきアートマン(真我)は一時的なものではないので経験という一時的なものに頼るのではなく「理解」によってのみそれらに到達できる、という基本的な考えがあったりしますけど、私が思うにはそれは言い方と理屈だけのお話で、そうは言っても理解ですら一時的な理解でしかない事もあって、最終的に悟りに達したらもう後戻りはせずに悟りの状態に留まり続けるというだけのお話であれば、いくら「理解」という言葉を使ったとしても普通の頭の理論での理解と最終的な悟りの理解は違うわけですから理解ですら一時的ということもできますので、ことさら「理解」という言葉にイデオロギーを持って扱う必要はないと私なんかは思うのですが、それが流派のやり方なのでしょうからそれは好きにすればいいと思います。

流派によっては「理解」と「理解が起こる」という言い方の区別がされていてとてもわかりにくいですけど、この場合、ただ「理解」というと一時的な理解である場合と永続的な理解という意味の場合があってコンテキストによって異なっていて、一方、「理解が起こる」というと永続的な理解を意味していたりするようです。

個人的には、同じ単語を使い回すよりも一時的なものと永続的なものとで単語を分けてくれた方が理解がしやすいと思うのですが、それは流派のやり方のようですので私にはどうすることもできません。

流派によって色々と独特の言い回しがありますけど、一時的なものと永続的なものとに分かれているという点に関しては割と共通だと思います。流派の独特の言い方に惑わされないことですね。実態はどれも、一時的な体験あるいは一時的な理解から始まって永続的な体験あるいは永続的な理解へと遷移してゆくということだと思います。

コンテキストの読み解きが複雑な場合もありますけど、結果としてこれら2つのうちどちらを意味しているのだろう、と思って読み解けば意外に単純な場合も多々あります。

ヨーガ系の流派であれば瞑想をする、ということになりますし、勉強系の流派であれば勉強をする、とか、儀式やチャンティングの義務あるいは聖典の勉強をする、とか、色々と言い方はありますけど、実態としては概ね上のような分類と順番になるように思います。