永遠を知ってるかどうかで理解が異なってくる

2021-05-31
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

ヨーガやヴェーダンタの言い方とはちょっと違いますけど、比喩的に言えば、永遠を知ってるかどうかで理解が異なってくるわけですね。

永遠を知らない理解であればそれは一時的な理解にすぎず、永遠を知った上で一時的な理解と永遠の理解がわかるとそこに違いが出てくるわけです。

顕教とかヴェーダンタ等を勉強してくると永遠のお話がたくさん出て来ますけど、永遠を勉強したからと言ってここで言っている比喩的に永遠を知るというお話にはそのまま繋がらなくて、言い換えれば、永遠を体験した上でその体験とは知識ともいいようによっては言うことのできる認識面における経験であって、そのような体験を伴う知識の体験で永遠を知った上での理解であれば違いが出てくる、と言うことです。

体験による永遠の認知なくしていくら永遠を語ったとしてもそれは表層のお話にすぎなくていくら深淵なる経典を語っていたとしても本質の面において永遠を語っていることにはならないのですよね。

これはある程度の見る側の準備が必要なところではあって、見る側に準備がなければ見ることができない、という一面もあります。

一方で、語る側にしても、自分では永遠を知っているつもりであっても単に勉強しただけ、という場合もあって、このあたりは微妙ですので、見分けるのが難しい場合もあります。きちんと勉強をすれば永遠を正しく語ることができるにはできますから、そうしてきちんと勉強した場合と本当に自分の奥底から出てくる理解で話しているのかで違いが出ることもあるのですが、きちんと勉強している方が正当なきちんとした論理になりますのでただ勉強しただけの方が立派に見える、と言うこともあります。その場合、それほど勉強せずに永遠だけ知った人の場合は粗雑に見えることもありますけど、実際は、永遠への理解で言ったら逆の場合もあるということですね。

どちらにしても、他者の本質を見抜くことは難しいですが、自分からしてみれば相手が悟っているかどうかは実際のところ学ぶという観点から言えばそれほど関係がなくて、悟っている人の方がいいといえばいいですけど学問に通じているわけではなく、あまり気にせずに近くにいる人から学べばいいのかな、と私などは思うのですが。どちらにせよある程度からの答えは自分自身でしか探求できないのですから途中までの道程はそんなに大差ないと思うのです。