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求めたら広大な天空の空が私の方へ降りてきた

2021-06-01
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

朝の目覚めの前のうとうととした自動思考をぼんやりと横になりながら観察していました。脈略のない幾つかの考えが浮かんできていて、最近読んでいる本のこととか、オーラの広がりについてのお話が頭に浮かんできていました。

こうこうしていると、ふと、不意に頭の中に、目的や対象というものは特になかったように思いますが、急に目の前の「なにか」に対して「求めます」という言葉が浮かんできました。

すると、その言葉が頭の中の自動思考に出た瞬間、それは特に顕在意識が明確に意識して発した言葉ではなかったのですが、まるで呪文のように効果を発揮し、青空のようなイメージが急に現れてきて、それは雲ひとつなく遠くまで広がっていて、そして、その青空全てが下降してきて私の方に近づいて来ました。

先人はもしかしたらこのことを空(くう)と表現したのだとしたら、何ともうまい表現をしたものだなあ、と思います。

これは一見すると想像やイメージのことかと思われるかもしれませんが、最初こそ印象としてぼんやりとした青空、とは言ってもいうほど青くはなくてたぶん青だと思う、というくらいのぼんやりとした空でしかないのですが、イメージというよりも印象で、青空かのように思えたその空は、最初は一瞬、遠くのようにも見えましたが実はそれほど遠くなくて、近づくときは一瞬で私の方に近づいて来ました。それは、最初に少し静止していた時は遠くのようにも見えましたが、実は遠くなくて近くに元々あって、近くにあるのですが私とその天空の青空との間には何か空間が存在していて空間的には少し分離のある状態でした。その最初の状態の後、私が「求める」と言うことをしたら、天空の青空の全体が下降してきたのです。遠くから近づいて来たと言うよりは元々近くにあったものが少し動いただけのような感じが致します。

自分から移動したり近づいたり、ということはしていません。空の方が私の方に近づいて来ました。

そうして降りて来た青空ですが、これを一体、なんと表現したら良いでしょうか。

いいようによっては、これが「空(くう)」だと言うこともできますし、あるいは、「無限」と言ってもいいと思います。存在はしていますので「無」ではないですね。であれば空か無限ということになるかと思います。

あるいは、これは考えようによっては「全体」あるいはヨーガあるいはヴェーダンタで言うブラフマンのことと言うこともできるかもしれません。

アートマンが個人としての無限なる存在なのに対し、実はアートマンはブラフマンという全体の一部であるというヴェーダンタの理解は、この無限なる空との一体化のことを説明しているとも言えるかもしれません。

空と一体になるとは言っても完全に溶け切ったわけではなく、全体としての空あるいは無限あるいはブラフマンと呼ばれているものが降りてきて私と繋がりました。私の周囲に広がって行ったと言うよりは元々全体としての無限なるブラフマンの方が私に近づいてきて繋がり、全体との繋がり感じられました。私の個としてのアートマンの心は特に心臓のハートのアナハタのあたりにあるようで、アナハタの深くで熱感を持ってその繋がりを感じられています。そして、アナハタだけでなくアジナのあたりでもその熱感はあり、他の体全体でもブラフマンあるいは空あるいは無限と呼ばれるものを感じています。

これは、いわゆるオーラを広げる、という種類のものとは異なるように思います。オーラを融合させるのは割と肉体に近いエーテルのお話ですけど、このブラフマンはもっと微細なところでの融合で、肉体及びオーラはそれほど変化がなくて体の周囲に留まっているだけで、とは言いましてもこのことでオーラが活性化して少しは広がってはいますが肉体に紐づいているエーテルとしてのオーラが無限になるということはなくて、オーラとしてではなく、階層を異にするブラフマンの永遠あるいは無限が私に近づいて来た、という感じが致します。

無限とは言っても最初は私の前方上方にあるように感じていましたので空間的な隔たりがあるという意味では空間全てという意味における無限ではなく、上空に広がっているという意味においては空の方が適切ですけど、一旦空あるいはブラフマンと呼んでも良さそうなものが降りて来て自分と一体化してしまった後は空は空間的に限られたものではなくて私の周囲全てに広がっているものだと実感できて、同時に、そうであれば無限であることもわかって実感できるわけです。

最初は限られた認識における天空に広がる空が、降りて来て私のアートマンと一体化した後はそれは限りのない空あるいは無限あるいはブラフマンだということが実感できるわけです。

これらは、ヨーガやヴェーダンタの聖典で語られていることと一致していて、それらは割と神秘的な表現で語られていて、ヨーガやヴェーダンタの先生のお話を聞くとそれは説明のものであって実際はそういうことはない、みたいに言う人もいますけど実際に体験してみるとそれら聖典の表現は比喩と言えば比喩ですが経験できないものではなくて実際に経験そのものを過去の修行者が書き留めた事実であることがわかります。

同様に、それら聖典での説明は知識で理解するもので体験するものではないとか説明されることもありますけど実際にこれらを体験してみると、実際にそのようなブラフマンの知識というのは単に勉強をしっかりして頭の理解で噛み砕くものというのは確かにそうだとしてもそこで終わるものではなく実際に瞑想をするなりして体験及び実感して自らの生活の一部にできるものなのかなと思います。

思えば、同じような体験として以前に創造・破壊・維持の意識が胸のアナハタの中に浮かんできたことがありますが、思えば、これは個としてのアートマンとしての体験あるいは存在としての目覚めだったように思います。

元々存在していたのかといいますときっと認識していなかっただけで多少は存在していたのかなとも思いますが、アートマンが出てくる以前は、例えクンダリーニを経験してオーラがアナハタ優勢になったとしても同様の胸のアートマンとしての意識はほとんど現れていなかったように思います。

これは、神智学における成長の階梯に当てはめてみると、まず最初にクンダリーニが上がって下方及び上方のチャクラをまずは調整し、その後、一旦降りて来てアナハタを目覚めさせる、という階梯に相当するように思います。

アナハタの目覚め自体は個としてのアートマンとしての目覚めで、それは神智学的に言えば低我の目覚めということもできて、一方、今回のブラフマンとの一体化は完全に一体化したという漢字でもなくて接触した、というくらいのような気もしますので、神智学の階梯に当てはめてみると「変容、高我と低我の一時的結合」ということになるのかなと思います。

神智学の表によるとこの段階がアジナチャクラの活性化ということですけど、確かにアジナも多少は活性化されたとは思いますがアジナに何か凄い変化があったというわけでもありませんので、まあ、アジナに関しては様子見でしょうかね。それよりもアナハタが以前よりも働いてきて、周囲との空間とより一体化したような感じがいたします。

それはオーラとしての広がりとしてではなくて、オーラは広げずに体の近くに留めておきながら、それでも周囲との空間が一体化している感覚があります。

感覚としてはそういうことですが、そのことを、きっとヨーガやヴェーダンタではアートマンとブラフマンが一体化する、そして再度離れる、一時的な融合、みたいに表現しているのかなと思います。

神智学の階梯に基づけば、もっと進めば一時的ではなくもっと継続的に高我(ブラフマン)と一体化できるようです。

これは、言葉を借りて詩的に表現するならばキリストの言った「求めよ。さらば与えられん」という言葉がぴったりです。元々の文脈はどのような場面なのかは知りませんけど、言葉としてはまさにこれ、という感じが致します。

あるいは、キリスト教徒であればこのような体験は「主を求める」「主であるキリストに祈る」という言い方をするのかもしれません。キリストの光が天から舞い降りてきて主であるキリストの恵みに浸る、という表現は比喩的でもありますけど感覚的には似ています。

あるいは、クリヤ・ヨーガの一派で昔習った瞑想中に行う観想方法もどこか似ています。

ヨーガやヴェーダンタでは元々自分自身はアートマンでありブラフマンだがそれを知らないだけ、あるいは、無知によって覆い隠されていて見えなくなっている、みたいなことを言いますけど、私の体験では私としてのアートマンがブラフマンに近づくというよりはブラフマンとしての空の方が私の方に近づいて来ましたので、私としてのアートマンがどこかに行くとブラフマンが見つかるとかどこかにブラフマンが隠れているというよりはブラフマンというのは全体ですから私としてのアートマンの周囲に常に存在しているものなわけですよね。そのブラフマンとアートマンとの間に空間的と言っても認識的とも言っても良い隔たりがあったわけですが、その隔たりのことをヴェーダンタ的に無知と呼ぶこともできるのかもしれませんけど、無知というよりは、私の感覚的には、単に隔たりがあった、というだけのような気がいたします。そして、アートマンの意識の「求め」によってブラフマンと一時的にではあっても融合できて、余韻はまだ残っていますので完全に分離したという感じでもなく、繋がりがどの程度あるか、という違いなのかなという気も致します。

ヨーガやヴェーダンタあるいは十牛図がいうように一時的な融合というよりは、少しづつ深まる、という言い方の方がしっくりきます。

これは言い方を変えれば、確かヨーガスートラに記されていた「放棄をすれば知識がやってくる」ということもできると思います。そのような言葉が度々、不意に降りて来ていました。すぐに探してみましたがざっと見たところすぐには見つけられませんでしたけど、意味合いとしては、放棄というのはブラフマンに対する自己のアートマンの受け渡しのことで、知識というのは全体であるブラフマンと繋がることなのかな、とも思います。

かと言って何かすぐにわかることが増えたとかそういうことはなくて、まだ何か空間と時間に壁のようなものがあって、その薄い壁を超えることができれば時空を超えて色々と見聞きできるようになるのかな? という予感のようなものはしますけど、現時点ではさほど変わりがなくて、とは言いましてもブラフマンをより深く、徐々にではありますけど少しづつ体感を深めることで、いいようによってはブラフマンに対する「知識(ニャーナ。暗記や記憶ではなく)」を深めることができているのかなと思います。



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