全体に明け渡すことがスピリチュアル

2021-06-02
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

全体には自分も含まれていて自分が全体に溶け込むこと、言い換えれば明け渡すことがスピリチュアルであって、誰か自分とは分離された外側の存在である別の人あるいは団体あるいは物あるいは考え方に対して明け渡すことがスピリチュアルではないのです。

よくスピリチュアルや宗教では自分を明け渡すことが怖いというお話が出て来ますけど、誰か別の存在に全てを委ねるのであればそれは危険なことで、実際のところ、それは本当のスピリチュアルではなく、本当の意味における純粋な宗教でもありません。それはただの依存であって、自分が考えなくなって自分というものが相手の言いなりになって道具のようになってしまうようなスピリチュアルは本来のスピリチュアルではありません。そのような誤解が大いにあるように思います。

実際のところ、言葉ではそのようなことをどこも割と言っていると思いますが、本当に全体に対して明け渡すことができているかどうかが問題なわけです。口でそうは言っていても誰かの利益のためにそう言っているだけのこともありますので、実際のところ、他人に対して明け渡す、というようなことはその人がどんなに立派であってもすべきではありません。しかしながら、誰かに対してではなく、全体に対して明け渡すのであればそれは依存にもなりませんしその全体には自分も含まれているわけですから、特に損得のないお話になります。

そうは言いましてもこの世の中は色々とずるい人がいますから、処世術としては明け渡しなどは他所ではしない方がいいとは思います。

ここでは、心の持ちようとして全体に明け渡すというスピリチュアルな態度および祈りをすれば十分で、自分の心が全体に溶けてゆくような心持ちを持ちながら生活すればそこには違いが出てくると思います。

対象のない「全体」あるいは「無限」と言っても良いですが、そのような全体あるいは無限に対して自らを明け渡すのが祈りなわけです。ですから、変な団体が訴えているように「誰か」という対象のある明け渡しではないのですよね。

もちろんそれは「全体」ですからその「誰か」すらも「全体」の一部であって、とても純粋な意味からすればその「誰か」とか「なにか」すらも全体の一部としての明け渡しということですので間違いということではありませんけど、この世界にはずるい人が沢山いて、そのような言葉巧みに「明け渡し」を要求してきて何かを奪ってゆくような人がゴロゴロしているわけです。

ですから、この種の「明け渡し」には注意が必要で、明示的に自らの意思で明け渡すのであればそれは自己責任ということになりますけど、誰かに明け渡しを要求されて明け渡しを行う、なんてのは本筋ではないのですよね。例えば懺悔とか誰かへの信頼というのは自らの気持ちの内側から生じてくるもので、言葉巧みに明け渡しを要求してきたり、直接的には言わないまでもマインドコントロールしてくるような変な団体はそこらじゅうにあるのです。

まあ、とりあえず、自分一人で瞑想をして瞑想中に周囲の存在に感謝して全体あるいは無限なる存在に対して明け渡しをしている分には危険はないと思います。

その時、向きが重要で、自分から相手に対して、という方向ではなく、全体あるいは無限が自分に対して向かってきて自分と接触して自分が全体あるいは無限の一部になるのであればそれは本来のワンネスにおける明け渡しなのだと思います。

自分から相手、という方向の場合は自分の中心軸が揺らぐことにもなりかねませんし、誰かに言われてそうするのであれば依存関係を生み出す危険性もあります。一方、無限あるいは全体が自らに向かってくるのであれば自分としての中心軸はあり続けますし自分も全体の一部なのですからそのような依存にはなり得ません。このことを簡単に「明け渡し」とか言ったりすることもできますけど、そこには誤解の入る余地があるのかなと思います。