全体に明け渡すことがスピリチュアル(同テーマ&時系列の前記事)

心に神の姿イシュタ・デーヴァターを観想して自らを明け渡す

2021-06-03
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

「全体」あるいは「無限」と言っても良い存在あるいは満ちている意識そのものに対して自らを瞑想及び日常生活中において明け渡しを行い、または、祈りを捧げます。

この時、単に無限なる広大な地平線まで続く広い空のような空間そのものが自らに迫ってくるわけですが、その時、ヒンドゥにてイシュタ・デーヴァター(Ishta Devata)あるいは単にイシュタ・デーヴァと呼ばれている心の中に浮かぶ神の姿を観想しながら行うとそれがやりやすいように思います。

これはおそらくは原型としては心の中に像を浮かべて瞑想をするチベットあるいは日本の仏教の瞑想のやり方の一つと共通している面があるとは思いますが、今回は、特にそれを意識してやっていたわけではなく、ふとしたことに「無限」と出会って自然に祈りを捧げる境地になってみたら、ふと、自らの心の中にあった神様の姿が目の前に現れて来たのです。

おそらく私はヨーロッパ等での転生もそれなりにあって、ヒンドゥの神様とかチベットの神様あるいは日本の神様よりも、割とキリスト教の白人バージョンのありがちなキリストの姿の方がイシュタ・デーヴァターとしてしっくりくるのです。かと言って今はキリスト教徒ではありませんしそれほど聖書を勉強しているわけでもなく、教会には観光で行くくらいですけど、それでも、神様というと白人バージョンのキリストの姿がしっくりきます。

色々なところで言われているように元々キリストは白人ではなくて黄色人種の生まれだったので白人の肖像画は歪曲されているとかいうお話もあって、確証はないですがたぶんそうなのかなと私も思っていますけど、実際のところ、ここでいう肖像としてのイシュタ・デーヴァターは割と誰でも良くて、自分がそれに対して神性を感じていて思い浮かべやすければぶっちゃけなんでもいいと言えばいいわけです。マリア様でもいいですし金剛力士でもいいわけですし、チベットの神様でもいいわけです。そんな大差はないと思います。

重要なのは、それが瞑想の助けになるかということで、それを観想することで「全体」あるいは「無限」に対して「明け渡し」ができるのであればそれは助けになるということです。

このような観想は本質的には無用ではあってもツールとしては有用で、ふとした時に「全体」あるいは「無限」に繋がりたい時にその神様を観想すれば無限と繋がることができます。普段の生活において瞑想の深い状態から少し落ちて顕在意識が働いているときに、深い意識に持っていくための橋渡しとして神様の像であるイシュタ・デーヴァターの観想というテクニックが使えるのかなと思います。

ぶっちゃけ、想像上の人物で実際にはいない方が現実の人間の泥臭い部分を抜きに信頼することができますので、実際に生きた人間臭いイエスキリストよりも想像上のイシュタ・デーヴァターとしてのキリスト像の方がこの用途としては向いていると言えると思います。他のイメージも同様で、現実よりもむしろ理想的な神様の像を使った方が純粋に明け渡しを行うことができるように思います。

個人的には、最初に現れてくるのが白人バージョンの理想的なキリスト像で、しばらくすると手塚治虫の漫画に出てきそうな愛着のある不動明王像に変わります。そうするうちにやがてはチベット系の神様のタンカっぽい姿に変わったかと思いきや、その後、(私の記憶の中にある)地球の静止軌道上にいる、大天使の姿に最後には変わります。

禅では「仏に出逢ったら仏を切れ」みたいなことが言われていますけど、これはおそらくは瞑想中の境地を言い表していて、今回の場合、このようなイメージが出てきたら基本的にはそれは一時的な助けに過ぎないわけです。ですから、「切れ」というのは言い過ぎな気もしますけど、イメージに頼りすぎることがないように、ということだと思います。私の場合、この言葉を思い出して試しに切ってみたら、切れるものは切れましたが、次のイメージが出てきました。その順番としては上の通りで、白人バージョンのキリストを切ると白骨だけが残ってそのままなくなるかと思えばすぐに不動明王像が出てきて、不動明王を切るとチベットの神様が出てきて、チベットの神様も切ったら大天使に変わりました。ですけど、大天使は切れないのです。切ろうと思ってもその存在が現実としてありありと存在していて、切れません。思い立って切ろうと刃を伸ばしてみますけど、それでも、大天使のすぐ頭のあたりで止まるか、あるいは、いよいよ切ってはみても、切れたかと思いきや切れ目が入ったかのように見えても切れなくてずっとそこにいます。切ろうと思っても、ハートがそれは良くない、と主張していて切る気になれませんけど、一応は禅の教えなのでそれでも切らなくてはならないかと思って一応は試してはみましたけど、どうやら最後の大天使は切る必要がなくて、むしろ、切ってはいけない大切な存在なのかなと解釈しています。切ろうと思っても刃の方がふにゃふにゃになって大天使の周囲でぼやけた霧のようになってしまいます。

このことから、おそらくは、私の御本尊がこの大天使かな、という気がしています。まあ、そういう理解でずっといたわけですけど、切ろうと思ってもやはり切れないので、これが本体なのかな、と思います。

そうなると、イメージしやすい姿としての神の姿であるイシュタ・デーヴァターとして白人キリストとか色々いて、その背後にいる御本尊がとある大天使、ということなのかなと思います。

イメージとしての神様と、実在としての御本尊は別物なのかなと思います。

御本尊はあまりにも尊くて素晴らしいので普段は隠しておいて触れないようにして、日常生活にはイメージが周囲から影響しても差し支えないイシュタ・デーヴァターとしての神の像を使うというのは理にかなっているように思います。

この時注意が必要で、油断していると自分のオーラを他の存在と混ぜてしまうことがありますので、あくまでも自分のオーラは自分の近くで留めておいて発散しないような状態にしたままで「全体」に対して明け渡しを行うわけです。

この辺りはスピリチュアルでとても誤解があるところで、自分のオーラを広げることがワンネスだとか愛だとかそういう誤解がありますけど、オーラのお話と、全体に対して明け渡すというお話とはかなり違うのです。オーラは全体にまで広がることはあり得ません。オーラを広げようと思えばそれなりには広がりますけど離れれれば離れるほど薄くなってゆくのがオーラの性質です。それは無限たる「全体」にはなり得ないのです。一方、「全体」に対して明け渡しをするときはもう一段階深いところで起こりますので、オーラとはあまり関係がないのですよね。もちろんオーラそれ自体も全体の一部ではありますけど、全体の一部だからこそ、わざわざオーラを広げる必要もなく最初から全体の一部なわけです。そのように、元々全体の一部だった自分が全体であることを受け入れるのが「明け渡し」なわけで、その時、オーラを広げているかどうかはほとんど関係がないのですよね。



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