アナハタの普遍的な愛とマニプラの情による愛

2021-06-05
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

マニプラはソーラープレクサスとも言い、お腹のあたり、丹田のあたりで感じる愛で、情による愛です。

一方、アナハタの愛はハートによる愛です。

そこには明確な違いがあります。

マニプラの下にはスワディスタナ(セイクラル)がありそれは性による愛があって、それぞれの階層において愛の形が違ったものとして存在しています。

それは一応は全て愛として言い表されているものではありますけど、それぞれ、かなり違った様相を表しています。

生まれた段階でどれかの段階から始まるわけですけど、そこから次第に上の愛を学んでいくわけです。

例えば最初はスワディスタナの性的な愛から始まって情の愛であるマニプラの愛を学んでいくわけです。あるいはマニプラの情の愛から始まってそれなりに普遍的なアナハタの愛を学んでいくわけです。

地球においては、だいたいこの3段階がほとんどのように思います。キリストとかブッダとか聖者のようにそれ以上の段階ということもあるとは思いますが、大抵の人は性的な愛か情の愛に生きているように思います。

これはどれが良いとか悪いとかそういうことではなくて、それぞれの段階で学ぶものがある、ということだと思います。

だいたい2段階くらいがメインになって、性的な愛ばかりの人、性的な愛と情の愛が半々の人、あるいは、情の愛が主要な人、あるいは、情の愛と普遍的な愛が半々の人、そして、普遍的な愛が優勢な人がいるかと思います。

この時、2段階違っているものはあまり優勢にはならなくて、例えば、性の愛がそれなりに動いている場合は普遍的な愛はそれほど動きませんし、逆に、普遍的な愛が働いている時は性の愛はあまり動かない、というのが基本です。

そうは言いましても性の愛を行おうと思えば行うこともできますし、それはパートナーの段階と自分の段階の差に応じて愛の形も変わってくるわけですけど、地球上を見ると、性的な愛が優勢な地域と情による愛が優勢な地域に分かれるかと思います。

性的な愛にすら達していないというのはあまりなくて、だいたいが性的か情の愛の段階にあるかと思います。

これら、段階の違う人の間においては愛の形が違いますから、すれ違いということもよく起こります。

普遍的な愛を身につけている人の場合は誰しもが素敵に見えますから、顔がそれなりであればそこそこモテる場合もあるかと思います。ですけど、それは必ずしも誰かを好きになったとかそういうことでもなく、単に普遍的な愛があるということです。

情の愛は日本においてはわかりやすくて、日本の人の大勢はこの段階にいるかと思います。

性による愛が優勢で情による愛がまだわからない人の場合は割と唯物論的に自分のことばかり考える生き方になりますけど、それは悪いということではなく、そのような唯物論的な人たちがあまり好き勝手に生きすぎないようにもっと精神的に成長している人たちが歯止めをかけてあげることも必要かと思います。

これらの段階において、性による愛で唯物論的立場で生きている人間と、ハートによる普遍的な愛で生きている人間とを見てみると明確な差があるのですが、実際のところ、性による愛で生きているのにも関わらず育ちの良さと躾によってマナーを身に付けた人間はハートによる普遍的な愛で生きている人間と一見すると見違えてしまう、といったことが起こります。これは不思議なことで、面白いことでもあります。ですけど、実際にはその差は顕著ですから全く違うのですが、両者とも情から離れているという点においては共通していて、割と論理と理屈に基づいて行動しますから、一見すると似ているわけです。

カップルの組み合わせとして色々なパターンがあります。
・性による愛に生きている男性と情による愛に生きている女性の組み合わせ
・男性が情の愛に生きていて女性が性の愛に生きている組み合わせ
・男性も女性も性の愛に生きている組み合わせ
・男性も女性も情の愛に生きている組み合わせ
・男性が普遍的な愛に生きていて、女性は情の愛に生きている組み合わせ
・男性が情の愛に生きていて、女性は普遍的な愛に生きている組み合わせ
・男性も女性も普遍的な愛に生きている組み合わせ

この時、2段階違う場合は付き合うのが難しい気が致します。

理想的なのは両方とも同じ段階なわけですけど、家族として暮らしているうちに片方が上の愛に目覚める、ということもありますから難しいところですね。

私としましては、1段階くらいの違いは相手を受け入れることで許容するのが良いのではないかと思います。2段階違う場合は不幸ですので離婚ということもあるのかもしれませんけど、1段階くらいの違いは仕方がないのかなと思います。

段階とは言ってもそれは割ともっとなだらかな少しづつの変化が起こるものですので、男女間で多少の違いが出るものですから、多少の1段階くらいの違いは許容しても良いのではないかと思います。

パートナーに自分より上の段階を求めたとしても、逆にそのパートナーから見れば相手は下の段階ということになりますから、どうしても片方は少しの段階の差を受け入れる必要が出てきます。差というものはどうしても生まれるものなのですよね。であれば、1段階くらいの差は受け入れるのが良いのではないかと私などは思います。そうでないと結婚なんてできません。とは言いましても今世では諸事情あって私は結婚はしていませんけど。私の過去生で一緒だった妻たちが大勢あの世で楽しく暮らしていて、その時の記憶を元に話しています。

あの世に行っても来世でも一緒に楽しく暮らしたいと思える妻と一緒になるのがいいと思います。

長くいるうちにそのうち情も湧いてきますし、よくない面があっても仕方がないと受け入れることができるようになったり、あるいは、来世で一緒になって自分がより良い方向に導いてあげる、みたいな気持ちも出てきます。

例えば、少し前の5つか6つかそれよりもっと前の人生においては私は男で、最初に付き合った女性が性による愛が優勢で、愛欲に溺れたことがあったのです。めちゃくちゃ美人で何度も体を求めていたように思いますけど、自分が情やそれより上の愛を持っていたとしても相手が性による愛が優勢だとそれに引っ張られてしまうわけですよね。パートナーの関係性というのはそういうところがあって、両者の段階それぞれに応じて自分が相手の段階に引っ張られる、ということが起こります。その人生においては、性による愛はもう懲り懲りかなと思っていた時に前の人生で一緒だった妻の転生と出会って好きになるわけですけど、性による愛から離れられなくて、その時はまだ結婚していなかったわけですけど二股状態になってしまったわけです。それが後でバレるというか明示的にバレるようにしたわけですけど、割と泥沼になってしまったわけです。でも、前の人生で一緒になった妻はそんなことがあっても死んでからあの世に言ってもまた一緒だったわけです。その長い付き合いの元妻は、その後、そんな愛欲から私を開放してあげたい! と思ったらしく、次に私が転生しようかなと言った時に「それじゃ、私がお母さんになってあげる!」と立候補してくれました。このように、長い付き合いになると必ずしも結婚という形の愛だけでなく、周囲において、友達あるいは家族として相手に寄り添う、ということが起こります。

パートナーに引っ張られて時に性による愛に溺れてしまうこともありますけど、基本的には自分が元いた段階に戻ってゆくものだと思います。

そして、基本的には上の愛を学んでゆくものなのですよね。

1段階違うだけで愛の形というものはそれなりに違いますし、2段階違うとかなり違って、お互いのことが理解できないと思います。ですから、そんなものだ、と思うしかないですね、おそらくは。

日本や世界では恋愛による愛によって結ばれることが基本とか言われていますけど、それは性や情による愛におけるお話で、アナハタのハートの普遍的な愛になるとそのような愛とは離れていきますから、そうなると恋愛それ自体の形も変わってきますので、そもそも恋愛というものが盛り上がらなくなってきますし、結果として、恋愛による結婚というのがかなり難しくなってくるように思います。

恋愛においては性や情による感情がないとそれは恋愛ではないという固定観念と言いますかそういう人がほとんどであれば恋愛というものがそういう形になりますから、アナハタの普遍的な愛で生きていると、わざわざ性や情による愛にまで降りてこないと恋愛ができないことになってしまいますから、それはある種、辛い状態になってしまうわけです。

アナハタの普遍的な愛の人は割と少なくて、顔が悪くなければそれなりにモテますから恋愛に苦労しないかと思いきや、意外に、そういう人は恋愛に興味がないことが多くて、もちろん普遍的な愛がありますから基本的には誰でも好きなわけですけど、それは性や情による愛とは違うわけです。

このアナハタの普遍的な愛の人が増えてくれば恋愛というものが減るのは当然で、そうなってくると昔のように家同士のお見合い結婚やあるいは紹介による結婚というものも増えてくるのかもしれません。誰でも愛せるが故に、相手に求めるものは基本的な礼節であったりとか知性であるとか習慣とか、どのような生活環境で生活しているのか、と言った点が焦点になってくるわけです。それは側から見ればお金目当てに見えるかもしれませんけど、もちろん生活を支える上での経済面も重要ではありますけど、主な関心は相手の基本的な成長の段階なわけです。段階が違いすぎると合いませんし、完全に同じというのはあり得ませんけど、ある程度近いのが良くて、1段階以内の違いに収まっていることが基本になるわけです。

たまに、元皇族かどこかのお家柄で性的な愛に溺れている女性をどこかの地方の神社の妻にあてがった、というお話を聞いたことがありますけど、情の愛の男性が性的な愛に溺れている女性を引き取るというのはそれなりに大変な気がします。1段階ですらかなり大変なのですから、2段階となりますとほぼ不可能に違いでしょうし、お互いに理解も難しいのではないかと思います。

据え膳食わねば男の恥、なんて言いますけど、アナハタの普遍的な愛に目覚めた男性は据え膳であっても食べなくなります。そうすると、周囲で見ている性欲だらけの男性あるいは女性たちがこぞって「男じゃない」とか「ホモなんじゃないの?」みたいなことを言いますけど、そういうことではないのですよね。性欲が優勢な段階と普遍的な愛とでは2段階も違いますから、そうなってくると、特に下から上のことはほとんど理解できないわけです。上から下を見た場合はそれなりに理解できますから普遍的な愛を持った人が性欲まみれの人のことも理解できるのですが、生活の態度としては性欲からは離れているわけですよね。ですから、性欲まみれの人が普遍的な愛を持っている人のことを理解できなかったとしても、それはもう、人として全く別の段階にいるのですから、理解できなくても仕方がないわけです。