目を開けた瞑想の方がしやすい段階に至ったのかもしれない

2021-05-26 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

今までは、断然、目を閉じた瞑想の方がしやすかったです。

目を閉じなければ視界に色々なものが見えてきてそれらにまつわる雑念が出てきますし、視覚から入ってくる情報は瞑想状態に入るための妨げになっていたように思います。

一旦、目を閉じた瞑想を続けてから静寂の境地になり、その後に日常生活をしばらく静寂の境地で続ける場合は目を開けていても瞑想状態がしばらく保たれてはいましたけど、その場合にしても、静寂の境地を支える基礎としての目を閉じた瞑想というものがありました。

流派によっては瞑想を目を開けたまま行う手法がありますけど、私にはそれがあまりピンとこなくて、目を開けた瞑想は難易度が高いと思っておりました。

しかし、ここにきて、目を開けた瞑想の方が雑念に惑わされなくても済むのでやりやすいのでは、という気になってきました。

これは、基礎としての静寂の境地があって初めてこのような理解になったように思います。

静寂の境地で日常生活を過ごすことができるようになって初めて目を開けた瞑想の方がしやすいのでは、という理解に至りました。

静寂の境地になっていれば視界から入ってくる情報がありのままに自らの奥底にまで入ってきて、自らが行動そのものになって生活を送ることができ、その日常生活と座っての瞑想というものが割と同じものになってきます。

一方、そうであっても、目を閉じた瞑想をすると、一応は静寂の境地に達しているとは言っても少しは雑念というものが出てきます。例えばクラシックの音楽がリピートされるとか、ちょっとした観念が浮かぶ、なんてことはポツポツとあります。それによって惑わされたり苦しめられるということはもはやほとんどないわけですけど、静寂の境地というのは完全に思考が消えた状態ではなくて思考が消えた状態が思考がある状態よりも遥かに長く続く状態であると言えますから、多少は観念が現れてくるわけですよね。

そのように、目を閉じると細かな観念が出てくるわけですけれども、目を開けることによってその観念がとても小さなものに感じられてきます。

これは、おそらくは何をフォーカスして瞑想するかの違いでしかなくて、目を閉じた瞑想をすることでもっと細かな部分に入ってゆく必要もあるかとは思うのですが、やりやすさだけを見てみると目を開けた方が瞑想がしやすい段階に入ったように思えるのです。