意識(アートマン)が体をダイレクトに動かしていると実感する

2021-05-27 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

意識が体をダイレクトに動かしているという実感により私がアートマン(真我)であると自覚し始めました。

ざっくり言うと「私はアートマン(真我)である」と自覚するようになったわけです。

ここ最近、ただ単に視界がゆっくりとスローモーションに認識されるだけでなく、ただ単に皮膚や体の感覚が微細に感じられるだけでなく、そこから更に一歩踏み込んで、胸の奥にあるハートの意識が直接的に体の各所を動かしていると言う実感が出てきました。

これは、話で聞いても「ふーん」と言う感じの種類のことかもしれませんし、話で聞いたところで「そりゃそうでしょ。何が特別なの?」とか「普通じゃないの?」と言われる種類のことかもしれません。意識あるいは心が人を動かしている、というお話は特に日本人にとっては普通の知識で、そう聞けば「ふーん。そうなんじゃないの?たぶん」みたいにスルーされてしまうお話かもしれません。

そのように、知識でなんとなく知っているのと、実際にそうなるのとでは全く違う状態であると言えます。

実際に意識が体を動かしていることを直接的に認識することは、言い換えれば心が体を動かしているということもできて、心というと意識や認識や感情や記憶など色々なものが入ってきますけどそれよりは意識と言った方がより適切で、意思のある意識が体を動かしているのです。

これは、意識がハート付近が特に濃厚にありますけどそこから体の全体にまで意識は広がっていて、意識が体の全体に満ちていて、その体に満ちている意識が体をダイレクトに動かしているのです。何かどこか遠くにところにある意識が体をリモコンのように離れて操縦しているのではなく、意識はまさに体に重なっていて、意識が体に重なった状態でダイレクトに体を動かしています。

このことが、以前は知覚できていませんでした。

論理的に考えれば昔もきっとそうだったからこそ体を意識で動かせていたのかなとは思いますが、論理的に推理してきっとそうだと結論付けられたとしても、以前は実際にそのことを今のようにありありと実感することはなかったように思います。

体の動きそのものに対してのダイレクトに操作しているという感覚は、視界がスローモーションで感じられるようになった時から少しづつ現れてきていて、その時ですらそれ以前と比べると随分と体の感覚を微細に感じられていると当時は思っていたように思いますが、今のこのダイレクト感と比べるとその時の感覚はまだまだ鈍かったように思います。

言葉で言い表すと割と似たようなものになってきてしまうこともあるかと思いますが、割とコマ割りで視界が見えるようになった時のダイレクト感と今のダイレクト感とでは数段階の違いがあるということです。昔は、視界がスローモーションで見えるとは言ってもハートに眠っているアートマンを識別できていませんでしたし、ただ単に五感が鋭くなっただけだったように思います。

今回は、五感も多少はそれから鋭くはなりましたけどそれよりも重要なのがハートの奥底にアートマン(真我)のような創造・破壊・維持の意識が出てきて、そのアートマンは今まではただ単に存在感として胸の奥にあるだけでしたけど、ここにきて、そのアートマンが「意識」として動き出したように思えるのです。

ヴェーダンタの知識でアートマンはサット・チット・アーナンダだと教えられて、よく言われているのがサットが存在でチットが意識でアーナンダが至福(満ちている)ということですけど、今まではただの熱感及びエネルギーとして認識されていただけでしたが、ここにきてチット(意識)が現れてきた、ということなのかなと思います。

その、アートマンのチット(意識)が体を動かしているという実感が現れてきたということなのかなと思います。

ヴェーダンタの人が言っている「貴方(自分)はアートマン(真我)である」ということの意味は、こういうことなのかなとも思います。

ただ、そうは言いましてもアートマンの要素はそれだけでなくサットとアーナンダがあって、サットとアーナンダはそれぞれ存在と至福という訳が一般的ですけどその本当の意味としてはサットは過去や未来という時にまたがって変わらずずっと存在しているもの、という意味ですので、まだ私のアートマンは意識的に時を超えられてはいないのかな、という気もいたします。夢とか瞑想の時に不意に時を超えることはあっても、意思を持って時空を超えられていない、ということはあるかと思います。そこはまだまだですね。これからもっと意識的に時を超えるようになる段階があるであろう、という推測があります。

それと、アーナンダは一般には至福と呼ばれていますがその本意としては「満ちている」ということですので、私の自分の体の個としての範疇においては「満ちている」という感覚が出ていますけど、まだ周囲の世界に対してそのような「満ちている」という感覚は出ていないので、そこもまだまだなのかなと思います。ヴェーダンタ的に言えば、自分自身としての個としての存在の段階はアートマンで、アートマンとは個としてのサット・チット・アーナンダであるわけですけど「全体」としてのサット・チット・アーナンダもあってそれはブラフマンと呼ばれていますけど、最初は自分はアートマンだと思っていたけれども実はアートマンとブラフマンが一緒だと気づくというのがヴェーダンタやヨーガで言われていますので、私はまだ個としてのアートマンに気付いただけの段階であると言えます。

よく人馬一体なんて言いますけどこの場合は人と馬ではなくて自分の心と人の体ですから心人一体あるいは身心一如とでも言える状態のように思います。

身心一如とは道元の言葉ですけど、少し調べても元々の道元の言った身心一如と言う言葉の意味は色々とあってこのような意味ではない気もしますが、言葉そのものの意味からすれば同じことを言っている可能性もあります。道元の言葉には真理が各所に現れていて、この言葉もそのうちの1つかもしれません。

こういうことを言っていると「どこかで聞いたお話をそれっぽく思っているだけだよ」「想像しただけだよ」「ファッションでそう言うとかっこいいとでも思っているだけだよ」みたいに言う人が一定数いるのですけど、実際のところ、この言葉はラマナ・マハルシが良く言う言葉ですのでとても有名で昔から知っていて、本もいくつか読んだことありますし、同じことはヴェーダンタでも言われているのでずっと前から知ってはいましたし、その当時から、特にそのことで自分がその気になって自分がアートマンだと思ってそれっぽく想像したりファッションでそう言ったりすることはありませんでした。記憶している限り、大抵は「ふうん」「まあ、そうなんだろうけど」「正しいとは思いますが、なぜにそこまで何度もしたり顔でそのことを繰り返して言うのだろう」と、どこか不思議な気持ちと冷ややかな態度で私は接していたように思います。

ですから、今更このことを持ち出してファッションっぽく感じたり想像でそれっぽく思い描いたり、ということはあり得ないのです。私にとってはとても古い知識で、あの有名なラマナ・マハリシがそういえばそんなこと言っていたなあ、というくらいの認識でしかなかったわけです。ヴェーダンタを学ぶ時にも同じお話は出てくるのですが、その時も「ふうん。まあ、そうなんでしょうけど」と言う感じで割とスルーしていました。

ですけど、自分が実際にその状態になってみると、まさにその言葉が適切でそのものズバリなわけです。「私はアートマンです」この言葉こそ現在の状態である意識と体とがダイレクトに繋がっている状態をよく示すものであると思うわけです。

これはもちろん、生まれながらにこのように生きている方もいらっしゃるでしょうし、当然のようにこのように生きている方も大勢いらっしゃると思います。その場合、とても当たり前だと思います。自分は自分のことしかわかりませんので、自分の当たり前の中で生きるわけで、自分が当たり前だと思っているこの状態が実際にその通りで当たり前なこともあれば、その一方で、自分では当たり前だと思っていても実際にはそうでない場合もあるわけです。その辺りが認識の難しいところで。

自分の頭で理解していることや知っていることと、実際にその状態になるのとはとても違うと言うことです。理解だけすれば悟れるとかそう言うことではなく、理解は基礎あるいは説明のための理屈でしかなくて、実際に意識であるアートマンが体とダイレクトに繋がると確信を持って「私はアートマンである」と言えるようになるわけです。