瞑想的な観点における自己認識の階梯(同テーマ&時系列の前記事)

観察のサマーディから意識のサマーディへ

2021-06-14
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

元々、長い間、心の本性であるいわゆるリクパが出てくるサマーディは「観察」として私は認識しておりました。

まず心を穏やかにして平らになった時、ふっ、と、リラックス状態及び静寂の境地が現れます。その静寂の境地においては集中は不要で、静寂の境地になるために眉間などに集中するという瞑想を行いますが静寂の境地になったら集中をやめて観察状態になります。その観察状態においては体の各所の感覚が皮膚だけでなく体が動いているという観察の微細な細かな状態として認識されておりました。

そして最近、同様に最初は集中瞑想をするのですがリラックス状態になった後に更にその静寂の境地を続けていると、そこからもう一段先があって、その状態においては「観察」ではなく「意思」としてのサマーディが存在しておりました。

瞑想はよく集中と観察の2面から語られ、その両者を一言で言うと止観と言うことになります。その両者の解釈は微妙なところでありますが基本的には集中は顕在意識の普通の考える心の集中として理解されます。ヨーガで言うところのブッディあるいはマナスと呼ばれるものによる意識の集中です。

この辺りで意思だとか意識だとかいう言葉がたくさん出てきますので混乱してしまうかも知れませんが、瞑想において普通に集中と言った時は顕在意識の普通の考える心としての意識を一点に集めて集中すると言う意味において使われます。同様に、観察と言う場合も同じ顕在意識の五感で感じることが基本で、それに加えて、観察という点においては更に微細な内的な感覚も加わってきます。

これが基本で、集中あるいは観察は顕在意識が基本となって観察だけは更に微細な感覚を伴って、サマーディにおいては自らの心の本性であるリクパが存在していてリクパが体を認識して観察している、という理解でいました。

しかしながら、ここにきて、そのリクパは観察するだけでなく、意識があって、その意識こそが体や思考など私の全てを動かしているのだと気づくようになりました。

これは段階があって、心が雑多な疲れた状態でいるとそのリクパの意識というものはそれほど感じられなくてやはり観察としてのリクパが主になるのですが、再度瞑想をして静寂の境地になると再度、観察だけでなく意思としてのリクパも出てくるようになりました。

これは瞑想の進み具合とも関連しているように思えて、以前は、静寂の境地になって初めて観察としてのリクパが出てきていたような状態でした。

最近は、観察としてのリクパは割と常に存在していて、それに加えて、静寂の境地になると意思としてのリクパが現れるようになったように思います。

この意思としてのリクパは割と継続性があって、観察としてのリクパが現れ始めた時は割と短い時間でその状態から落ちていたように思いますが、この意思としてのリクパはその時よりも長い間、継続しているように思います。それでもしばらくすると少しづつ状態が落ちてゆきますから、再度、瞑想をして静寂の境地になることで意思としてのリクパに戻ってゆきます。

この意思としてのリクパは言い換えればサマーディと言うことにもなりますが、具体的に言うと意識が体をダイレクトに動かしていると言う実感であり、私のありようの基本的な変化です。

ですから、それ単体でどうこうというわけではなく、自らの基礎としての変化であるわけです。

ここで変化と言いましたけど、実感としては変化、と言うことになります。

ただし、聖典が伝えるところには、これは変化ではなく、元々備わっている性質でただ隠れていただけだと言います。

そうは言いましても、瞑想において私と言う個人が認識するところにおいては変化として認識されるわけです。聖典の知識においてそれは変化ではなく元々あったものが現れただけだ、と説明できるわけですけど、そうして聖典としての説明をする時と実感としての実践的な面で説明をする時とで説明が違ってきたりもしますけど、実際には同じことを言っています。

そのように、心の本性であるリクパが出てくると最初は観察の働きとしてそれは現れてきて、やがて、それは意識として現れてくるようです。

これをスピリチュアル的に言うのであれば、心の本性であるリクパはスピリットあるいは魂とも言うことができて、比喩的に言うのであれば「スピリットに自らを委ねる」と言うことになるかと思います。

スピリチュアル的に言うと「委ねる」と言いますけど実際にはそのスピリットであるリクパあるいは魂と呼ばれるものが本体で、自分の顕在意識で生きていると思っていたのはそれは幻想であったとこの前後の段階で気付くわけです。ですから、「委ねる」とか言っているのは今まで自分だと思っていた顕在意識の心が「委ねる」と思っているだけで、実際には、最初からスピリットが自分の本体でスピリットが自分を動かしていたのに、顕在意識が顕在意識自身のことを私だと思い込んでいただけだったのですね。

書物を読むと、このスピリットとしての自分が動いている状態が目覚めの状態で、そうではなく顕在意識が私を制御している状態のことを「無知」と言うようです。

ですから、「無知」と言うとあたかも知識のことかと思ってしまうかもしれませんけど、実際にはここで言っている「無知」とは知識のことではなく、このような自己認識のことを意味しているわけです。

この辺りは流派によって理解が異なっていて、しっかり勉強すれば理解によって無知は取り払われる、としている流派もあります。そのような流派にも更に色々あって、理解によって実際に無知を取り払うことで心の本性であるいわゆるリクパあるいはスピリットあるいは他にも言い方があるでしょうがそのようなサマーディあるいはモクシャ(自由)を達成しようとしている流派もありますし、その一方で、文字通り捉えてしっかり理解すればそれだけでいいと言っている流派もあったりします。

私からすれば、ただ単に理解するだけでは十分ではなく、本当に「無知」の状態からスピリットが自分である状態に遷移することこそが重要であると思うのです。

流派によっては聖典の(ヴェーダンタの)知識は無知を取り払うための道具だと言っているところもあって、確かに、知識そのものが重要と言うよりは知識と理解によって無知の状態から脱却してスピリットの自分として生きるようになることこそが重要だと思うわけです。

そのように聖典も無知の状態から脱却する助けになりますし、もちろん瞑想も基礎として重要になってくるわけですが、瞑想それ自体にしても聖典であっても手段であって、結局のところ、結果として無知が取り払われて心の本性であるいわゆるリクパが現れてきたサマーディの状態になることでスピリットとして生きるようになるのが大切なのかな、と思うわけです。



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