■「止」の瞑想
サンスクリット語:シャマタ
チベット語:シネー
■「観」の瞑想
サンスクリット語:ヴィパッサナ
チベット語:ラントン
意識集中による禅定は(中略)ある対象に意識を鋭く集中し、それから、その集中した注意をゆっくりとリラックスさせるような修行を、サンスクリット語でシャマタ、チベット語でシネー、すなわち「静寂の瞑想」(止)と呼ぶ。これに対して、思考の動きに取り組んでいく時には、サンスクリット語でヴィパシャナ、チベット語でラントンと呼ぶ。「チベット密教の瞑想法(ナムカイ・ノルブ著)」
同書を読むと、どうやらチベット密教的な分類からすると「観」のヴィパッサナーの状態も三昧(サマーディ)あるいは禅定として分類されていないようです。
これは、確かに、気がついてみれば理屈に合った分類だと今更ながら気付かされました。
今まで、止観のうち止は集中でサマーディではなく観の方がサマーディとして分類して捉えておりました。そして、観のサマーディのときに心の本性であるリクパが働く、という分類で捉えておりました。
しかしながら、この分類に当てはめてみると、「止」も「観」もどちらも禅定(あるいはサマーディ、三昧)ではなく、どちらも思考の動きに関する取り組み方を表現したに過ぎないことになります。
これは目に鱗で、(私のこの理解が間違っている可能性もありますけど、)上記のように分類し直すことでより状態がはっきりと見えるようになったような気が致します。
確かに、「観」としての取り組み方と心の本性(リクパ)は全く違うものですので、チベット密教のこの分類の方がスッキリするように思います。
■今まで
観察瞑想(ヴィパッサナー)はコンテキストによって意味合いが違って、手法としての観察瞑想(ヴィパッサナー)は実際は集中瞑想と同じで、ヴィパッサナーがサマーディを意味している時もある、という理解。
集中瞑想はシャマタやシネー及び観察瞑想(ヴィパッサナー)の手法が該当(もちろんこれはサマーディではない)
■チベット密教に基づく分類
観察瞑想は上記の通り思考の動きに取り組む瞑想のことでサマーディは含まない。
集中瞑想はシャマタやシネーが該当(もちろんこれはサマーディではない)。
のように分類するのがスッキリします。
確かに、世間で色々と説明されているお話の中で「観察瞑想」がサマーディと関連して説明されていますのでその理解に引っ張られていましたけど、サマーディが心の本性のリクパによるもので、それ以前の思考に取り組む瞑想が上記のものとするのがスッキリします。
■サマーディ以前
意識の集中(シャマタ、シネー)による瞑想。
思考の動きを観察(ヴィパッサナ、ラントン)する瞑想。
■サマーディ
心の本性であるリクパが動いている覚醒状態
流派によって色々と分類はあるとは思いますが、このように分類するのがスッキリするような気がしてまいりました。
ゾクチェン系の本でラントンのお話を何度も読んではいたのですがラントンに関する記述はいまいちピンとこなくて割と今まではスルー状態だったのです。それがここにきて、ラントンというものがはっきりと見えてきた気が致します。テーラワーダ系のヴィパッサナー(観)の解釈とチベット系からのラントン(観)の解釈が私の中で繋がってきました。
テーラワーダ仏教などヴィパッサナー系の説明では禅定(サマーディ、三昧に相当)がヴィパッサナーの説明と関連して出てきます。今まではそちらの説明に基づいて理解してまいりましたが、どうもそれは混乱が大きいような気がするのです。それよりは、このチベット系の分類の方が自分自身の感覚と一致します。
テーラワーダ仏教などヴィパッサナー瞑想系の分類ですと「悟り」(=阿羅漢の悟り)についてどうも曖昧で、都合よく解釈すればそうなれてしまうかのようなぼんやりとした定義のように思えてなりませんでした。(実際に修行されている方はごめんなさい。個人的な感想です。)テーラワーダ系の記述も今となってはどういうことなのか理解できますのでそれはそれで正しい記述とは思うのですが、テーラワーダなどヴィパッサナー系の流派の表現は解釈が困難で、私には誤解があったように思います。
一方、このチベット系の定義に基づきますと「悟り」と言う言葉は言いませんけど覚醒したサマーディの意識が心の本性であるリクパが働いている状態ということで、それはとても明白で、はっきりしたものです。
瞑想をして実際にその境地なるまでは何が正しいのかいまいち判断がつきませんでしたが、どうやらこのチベット系の記述が表現の仕方としてより正確で誤解が少なくてより正しい記述のように思えてまいりました。