ハイヤーセルフはスピリチュアルで「普通の心」と「高次元の心(ハイヤーセルフ)」がいると言う文脈で語られますが、私が幽体離脱した認識ではハイヤーセルフというものは存在していなくて、それに該当するものはグループソウルかなと解釈しておりました。ですので、今まで、私はハイヤーセルフとグループソウルは割と同じものとして捉えていたわけです。魂あるいは霊魂の集合体あるいは個体として自分というものが存在していて、幽体離脱した時に自分というものを見るとハイヤーセルフらしきものはなくて自分は自分でしかなくて、又、顕在意識の自分からしてもハイヤーセルフとはグループソウルと同じに見えるのです。
しかしながら、そういう解釈ですとハイヤーセルフというものがどうも掴みにくい感じで、ちょっとぼやけた感じで認識しておりました。スピリチュアルの言うことですので、まあ、そう言う人もいるのかなと思って割と大雑把に捉えてスルーしていたわけですけれども、ここにきて心の本性(リクパ)が体をダイレクトに動かしている感覚が強くなってきました。
この、心の本性(リクパ)が現れた状態で改めてハイヤーセルフのことを解釈し直すと、この心の本性(リクパ)のことをハイヤーセルフと呼ぶのがスピリチュアル的には正しい気がして参りました。
これは割と元々の定義に戻った感じではありますけど、この混乱はおそらくスピリチュアルな人の表現方法にあるかもしれなくて、スピリチュアルではハイヤーセルフは元々の定義そのものよりも割と「自分とは分離した理想的な存在」として描かれていて、実際のところ人によってその表現方法は多様ですけれども、離れた自分ということであればグループソウルのことだと解釈していたわけです。あるいは、ハイヤーセルフをチャネリングの文脈に即して解釈している人もいます。ですから、スピリチュアルにおいては元々の定義から離れて割と自分とは分離した存在としてハイヤーセルフが解釈されてきたように思います。
しかしながら、私の最近の瞑想の実感に基けば、この自分自身の心の本性(リクパ)をハイヤーセルフと呼んでも良い気が致します。
ハイヤーセルフのことを言う時はよく「普通の心」と「高次元の心(ハイヤーセルフ)」がいると言う言い方をしますけど、そうであれば心の本性であるいわゆるリクパがそれに相当すると思います。ですけど、多くのスピリチュアルな方々はもっと神秘的にこのことを表現していて、あたかも自分の外側に天使や神様のような高次元の自分がいるかのような表現をしている時があります。比喩としてはそういう表現方法で概略を伝えると言うのはありなのかもしれませんけど、そのような煌びやかなイメージが今は先行してしまっていて、実際の姿が隠れてしまっているようにも思えてしまいます。
確かにこの心の本性リクパが現れてきた状態は自由で活気に溢れていて穏やかでいわばキラキラしているといえばそうとも言えますけど、それよりも、もっと基本としては割と地味なキラキラなわけです。地味とキラキラという相反することを言っていますけど実際にそうなので仕方がなくて、地味だと言うことが基本にあって、それでいて内面はキラキラしているわけです。
表現するならば、外から見ると地味だけれども自分の内面はキラキラしている、と言えば良いでしょうか。そうは言いましてもその内面のキラキラは滲み出ますので見る人が見れば全然違うわけですけれども、基本は地味なわけです。
まあ、そうは言っていますけど、同じことを、逆に捉える人もいるわけです。
スピリチュアルな人の中には、外見をキラキラで内面は静か、と表現している人もいます。実際、同じことです。
同じことなのに表現が逆なのは一体どう言うことかと思う方もいらっしゃるかと思いますけど、それは見る人の視点が違うだけで、実態は同じなわけです。
そのように、ここにきて、ようやくハイヤーセルフというものの実態が掴めてきました。
私が30年くらい前にハイヤーセルフという概念を知った時は元々の定義である「普通の心」と「高次元の心」があるというお話でしたけど、その後、瞑想をしたり社会生活を送ったり幽体離脱した中で見たものといえばハイヤーセルフというのは実際にはいなくて、ハイヤーセルフではなく私の魂の本体であるグループソウルのように見える存在がいただけでした。そのグループソウルのように見える存在というのは人の形をしていて、私が分霊として分かれた大元である魂です。ハイヤーセルフと言うとグループソウルが該当しているように幽体離脱からの経験からは思えました。
長らくその実体験に基づいて解釈してきたわけですけれども、ここにきて、最初の定義である「普通の心」と「高次元の心(あるいは心の本性リクパ)」と言う定義に戻した方がスッキリするように思えて参りました。
ぐるりと回って元に戻ってきた感じですね。
実際のところ、本当は本当は2つの心なんてなくてひとつづきの心があるだけですので、幽体離脱で見た解釈は正しいと今でも思えるわけですけれども、ハイヤーセルフと言う概念それ自体は霊魂の実態に関するものではなくて、顕在意識からハイヤーセルフというものが存在しているかのように錯覚する、と見なす方がスッキリします。
これは微妙なお話で、本当はスピリットとしての自分が本当の自分なわけでそれしか存在していないわけですけれども、顕在意識が誤って顕在意識自身のことを自分と思い込んでいるからハイヤーセルフという概念が必要になってくるわけです。
このことをヴェーダンタでは「ジーヴァ(顕在意識の自分)が無知によってジーヴァを自分だと勘違いしている」、みたいに言ったりします。ですから、ハイヤーセルフがいるというのは本当の実態ではなくて錯覚なわけです。
私はわざわざ本当の実態に即してハイヤーセルフを解釈しようとして、ハイヤーセルフに該当するものは幽体離脱中に見つけられなかったのでハイヤーセルフをグループソウルと同一のものとして解釈しようとしましたけど、そうする必要はなくて、単にハイヤーセルフはこのような錯覚のお話と心の本性(リクパ)のお話だと解釈するのがスッキリするように思えてきました。