自分のスピリットに少しづつ委ね始める
瞑想中、自分の体と一部重なって、自分の少し前方に自分のスピリットがいるのを感じます。
形としてはほぼ自分と同様ですが、少し前方にズレていて、スピリットの体は肉体の体より少し大きくて、その、少し大きなスピリットの体が私の前方向に少しズレて浮遊して存在しています。
その前方にある少し大きなスピリットの意識が私の肉体及び顕在意識としての意思や思考を動かしているのを感じますが、まだ完全にスピリットが私の肉体及び顕在意識を制御しているというわけではなく、ほんの少し、ほのかにスピリットの意識を感じている状態です。そのスピリットの意識が私の肉体及び顕在意識としての意思や思考を動かしているのだと感じたり時にはスピリットの意識がダイレクトに感じられている状態ではありますが、それほどその結びつきはまだ強くありません。
それに対して、顕在意識の私としての意識はまだまだ存在していて、スピリットが実は私の肉体や顕在意識を動かしているということを理解しつつも、まだ、スピリットの意識と顕在意識としての私という認識はそれなりに分かれている状態です。
瞑想中、顕在意識としての私はスピリットとしての私こそが本当の自分だということを理解していて、スピリットを受け入れている状態です。
顕在意識はスピリットを受け入れていて特に恐怖とか抵抗とかはないのですが、存在としてまだまだ一体にはなっていないと感じます。
そこで、顕在意識の私としては、瞑想中、自分のスピリットに対して「委ねる」と言うことを意図します。
私の本体はスピリットの私ですから、顕在意識としての私は幻想でしかなくて、顕在意識の私はスピリットである本当の私に委ねます。
このようなことを意図して瞑想をします。
このスピリットのことをヨーガではプルシャと言ったりヴェーダンタではアートマンとか言ったりするのかなと思います。ヴェーダンタではアートマンは不可知で識別不能となっておりますのでヴェーダンタでもプルシャと言うのが正しいのかも知れませんけど、そのような、自らのスピリットあるいは魂としてのプルシャのようなものが本当の自分であり、それに対して委ねることで本来の自分が顕現してゆくのかなと思います。
本当の自分は時空に囚われることがなく意識そのものであり、スピリットです。しかし、顕在意識がこの世のまやかし(マーヤー)に惑わされて自分だと勘違いしていただけだったわけです。このことはヨーガや聖典でよく言われていることですけど、最近になって意識が体をダイレクトに動かしていると実感し始めたことで本当にそのことが真実でスピリットこそが本体だと実感するようになりました。
この時点ではまだスピリットと顕在意識がそれぞれ存在しているような状態で、日常生活を送るうちに顕在意識のみの状態に少しずつ戻ってきてしまうような感じではありますけど、こうして瞑想をすることでスピリットとしての自分を取り戻して、更には、スピリットに自分を「明け渡して」行くことができます。
この種の明け渡しとか委ねるとかいうお話は他人に対することではなくて自分自身に対する明け渡しですから危険はないわけです。
実際のところ、このような自己への明け渡しは自発的に起こるものですので、他人に説得されて行うようなものでは全くないわけです。
一応は、理屈で言えば他人ですら自分なのだから他人に委ねたり他人に明け渡すことも同じと言えばそうなのですけど、この種の理屈を逆手に取って他人を操って操作・依存の状態にしようとする人が大勢いますので、他人に対する明け渡しや他人に委ねる、みたいなことは基本的にしない方がいいと思いますね。そういう屁理屈をこねて他人から何かを奪おうとしている詐欺師は大勢いますからね。エネルギーだったり人だったり物だったりお金だったり何がしか理屈こねて自発的に他人から何かを引き出そうとしている人は大勢います。
実際にこの段階に来れば自己のスピリットへの信頼もできていますしスピリットが導くまま行動しますから危険性はないのですけど、まだ迷っている段階では「スピリットに委ねる」とか「スピリットに明け渡し」なんてものは起こりませんから、段階が全く違うのに同様の「委ねる」とか「明け渡し」なんてことを言ってきて同調圧力や行動の誘導みたいなことをしてくるのであれば注意して対処する必要があると思います。
実際にこの段階に来たら全くの迷いなくそれとわかって自己のスピリットの明け渡しが正しいとわかりますから、迷っているような状況であれば何か違うわけです。特に、この種のことは他人に説得されて行うものでは全くありませんので、他人の説明というのは有用ではありますけど、実際に自分が明け渡しを行うのはその段階に来てからですので、早急な明け渡しや早急な委ねは依存や操作の関係になるだけだと思います。
基本的には、自分の好きにすればいいと思っています。何をするのも自由。その自由があって初めてスピリットの成長があるわけです。自由を束縛しない状態が基本にあって、そこに自分のスピリットへの委ねや明け渡しが来るわけです。それは他人に強要されて行うようなものでは全くありませんし、他人と比べる必要も全くありませんし、自分がピンとこなければ別にする必要のないものです。
ただ、そこに行くためのステップというものがあって、その準備をしてからステップを進めば自然と自分がそれとわかってスピリットへの委ねが起こるものだと思います。その説明としては他人にしてもらうのはいいとは思いますけど実際に行うのは自分ですから、自分が自分のスピリットに対して委ねるのであって、他人に委ねるのではないのですよね。
自分のスピリットに対する委ねの後に他人に対する委ねもあるのかもしれないですしきっとあるのかなとは思いますけど順番としては自分のスピリットに対する委ねが先ですよね。その順番を無視して、他人も自分も同様なのだから他人に対する委ねが必要とか言って説得してくる怪しい詐欺師のような団体の妄言には付き合わない方がいいと思います。
自分でやっている分には私はこういうことにはほとんど無縁ですけど、一応、ここは誰が読むのかわからないので注意も書いておきました。
実際にこの段階に来たらきっと全くこういうことに悩まずにそれとわかりますので、悩むのなら明け渡しとか委ねるとか、そういうことはしない方がいいと思います。
元々そういう注意をしたかったわけではなくて、ここで言っているのは、最近の瞑想では自己のスピリットに委ねる、という感覚が強くなってきています、ということなわけです。
これは一見すると自分から何か他所の方向あるいは他所の何かに明け渡しているように見えてしまうかも知れませんけど、自分の軸としては中心に居座っていて、顕在意識の自分がいる中心軸に対して目の前に浮かんでいる自分自身のスピリットが前の方向から近づいてきているわけです。ですから、自分からスピリット(あるいは、いわゆる「全体」)という方向ではなく、スピリット(全体)から自分に向かうような状態になっていて、スピリットの側は意識として前の方向から肉体のある顕在意識の中心軸の側にただ近づいているだけでそこには明け渡しとかあまり関係なくてただ意識が少し前から体の方に近づいてきているだけで、「明け渡し」を行うのは顕在意識の方で、肉体のある顕在意識の側が前から近づいてきているスピリットを受け入れるために「明け渡し」が行われているわけです。
このことを時に比喩的に「明け渡しを行う」とか簡単にざっくり言ったりもするかもしれませんけど、簡単に言ってしまうことは多分に誤解が生じてしまう余地があるわけです。
形としてはほぼ自分と同様ですが、少し前方にズレていて、スピリットの体は肉体の体より少し大きくて、その、少し大きなスピリットの体が私の前方向に少しズレて浮遊して存在しています。
その前方にある少し大きなスピリットの意識が私の肉体及び顕在意識としての意思や思考を動かしているのを感じますが、まだ完全にスピリットが私の肉体及び顕在意識を制御しているというわけではなく、ほんの少し、ほのかにスピリットの意識を感じている状態です。そのスピリットの意識が私の肉体及び顕在意識としての意思や思考を動かしているのだと感じたり時にはスピリットの意識がダイレクトに感じられている状態ではありますが、それほどその結びつきはまだ強くありません。
それに対して、顕在意識の私としての意識はまだまだ存在していて、スピリットが実は私の肉体や顕在意識を動かしているということを理解しつつも、まだ、スピリットの意識と顕在意識としての私という認識はそれなりに分かれている状態です。
瞑想中、顕在意識としての私はスピリットとしての私こそが本当の自分だということを理解していて、スピリットを受け入れている状態です。
顕在意識はスピリットを受け入れていて特に恐怖とか抵抗とかはないのですが、存在としてまだまだ一体にはなっていないと感じます。
そこで、顕在意識の私としては、瞑想中、自分のスピリットに対して「委ねる」と言うことを意図します。
私の本体はスピリットの私ですから、顕在意識としての私は幻想でしかなくて、顕在意識の私はスピリットである本当の私に委ねます。
このようなことを意図して瞑想をします。
このスピリットのことをヨーガではプルシャと言ったりヴェーダンタではアートマンとか言ったりするのかなと思います。ヴェーダンタではアートマンは不可知で識別不能となっておりますのでヴェーダンタでもプルシャと言うのが正しいのかも知れませんけど、そのような、自らのスピリットあるいは魂としてのプルシャのようなものが本当の自分であり、それに対して委ねることで本来の自分が顕現してゆくのかなと思います。
本当の自分は時空に囚われることがなく意識そのものであり、スピリットです。しかし、顕在意識がこの世のまやかし(マーヤー)に惑わされて自分だと勘違いしていただけだったわけです。このことはヨーガや聖典でよく言われていることですけど、最近になって意識が体をダイレクトに動かしていると実感し始めたことで本当にそのことが真実でスピリットこそが本体だと実感するようになりました。
この時点ではまだスピリットと顕在意識がそれぞれ存在しているような状態で、日常生活を送るうちに顕在意識のみの状態に少しずつ戻ってきてしまうような感じではありますけど、こうして瞑想をすることでスピリットとしての自分を取り戻して、更には、スピリットに自分を「明け渡して」行くことができます。
この種の明け渡しとか委ねるとかいうお話は他人に対することではなくて自分自身に対する明け渡しですから危険はないわけです。
実際のところ、このような自己への明け渡しは自発的に起こるものですので、他人に説得されて行うようなものでは全くないわけです。
一応は、理屈で言えば他人ですら自分なのだから他人に委ねたり他人に明け渡すことも同じと言えばそうなのですけど、この種の理屈を逆手に取って他人を操って操作・依存の状態にしようとする人が大勢いますので、他人に対する明け渡しや他人に委ねる、みたいなことは基本的にしない方がいいと思いますね。そういう屁理屈をこねて他人から何かを奪おうとしている詐欺師は大勢いますからね。エネルギーだったり人だったり物だったりお金だったり何がしか理屈こねて自発的に他人から何かを引き出そうとしている人は大勢います。
実際にこの段階に来れば自己のスピリットへの信頼もできていますしスピリットが導くまま行動しますから危険性はないのですけど、まだ迷っている段階では「スピリットに委ねる」とか「スピリットに明け渡し」なんてものは起こりませんから、段階が全く違うのに同様の「委ねる」とか「明け渡し」なんてことを言ってきて同調圧力や行動の誘導みたいなことをしてくるのであれば注意して対処する必要があると思います。
実際にこの段階に来たら全くの迷いなくそれとわかって自己のスピリットの明け渡しが正しいとわかりますから、迷っているような状況であれば何か違うわけです。特に、この種のことは他人に説得されて行うものでは全くありませんので、他人の説明というのは有用ではありますけど、実際に自分が明け渡しを行うのはその段階に来てからですので、早急な明け渡しや早急な委ねは依存や操作の関係になるだけだと思います。
基本的には、自分の好きにすればいいと思っています。何をするのも自由。その自由があって初めてスピリットの成長があるわけです。自由を束縛しない状態が基本にあって、そこに自分のスピリットへの委ねや明け渡しが来るわけです。それは他人に強要されて行うようなものでは全くありませんし、他人と比べる必要も全くありませんし、自分がピンとこなければ別にする必要のないものです。
ただ、そこに行くためのステップというものがあって、その準備をしてからステップを進めば自然と自分がそれとわかってスピリットへの委ねが起こるものだと思います。その説明としては他人にしてもらうのはいいとは思いますけど実際に行うのは自分ですから、自分が自分のスピリットに対して委ねるのであって、他人に委ねるのではないのですよね。
自分のスピリットに対する委ねの後に他人に対する委ねもあるのかもしれないですしきっとあるのかなとは思いますけど順番としては自分のスピリットに対する委ねが先ですよね。その順番を無視して、他人も自分も同様なのだから他人に対する委ねが必要とか言って説得してくる怪しい詐欺師のような団体の妄言には付き合わない方がいいと思います。
自分でやっている分には私はこういうことにはほとんど無縁ですけど、一応、ここは誰が読むのかわからないので注意も書いておきました。
実際にこの段階に来たらきっと全くこういうことに悩まずにそれとわかりますので、悩むのなら明け渡しとか委ねるとか、そういうことはしない方がいいと思います。
元々そういう注意をしたかったわけではなくて、ここで言っているのは、最近の瞑想では自己のスピリットに委ねる、という感覚が強くなってきています、ということなわけです。
これは一見すると自分から何か他所の方向あるいは他所の何かに明け渡しているように見えてしまうかも知れませんけど、自分の軸としては中心に居座っていて、顕在意識の自分がいる中心軸に対して目の前に浮かんでいる自分自身のスピリットが前の方向から近づいてきているわけです。ですから、自分からスピリット(あるいは、いわゆる「全体」)という方向ではなく、スピリット(全体)から自分に向かうような状態になっていて、スピリットの側は意識として前の方向から肉体のある顕在意識の中心軸の側にただ近づいているだけでそこには明け渡しとかあまり関係なくてただ意識が少し前から体の方に近づいてきているだけで、「明け渡し」を行うのは顕在意識の方で、肉体のある顕在意識の側が前から近づいてきているスピリットを受け入れるために「明け渡し」が行われているわけです。
このことを時に比喩的に「明け渡しを行う」とか簡単にざっくり言ったりもするかもしれませんけど、簡単に言ってしまうことは多分に誤解が生じてしまう余地があるわけです。
ラントン(観、ヴィパッサナー)の宗派における違い
止観の2つの段階はチベット語でシネー(止、シャマタ)とラントン(観、ヴィパッサナー)に分かれているわけですけれども、特にラントン(観、ヴィパッサナー)は流派によって解釈が異なっています。
ゾクチェンの「心の本性の部」におけるラントンは、覚醒の境地と思考の動きが一体になっているレヴェルを指している。この境地は<不動の境地(ミヨワ)>とも呼ばれる。この境地に至れば、どんな動きによっても妨げられなくなる。「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」
これに対して、顕教と密教は立場を異にしています。
・顕教 → 静寂の境地(シネー、止)の後にラントン(観)が自動的に生じる。
・密教 → 悟りの一定の段階。シネーが空、ラントンが光明に対応して、両者の合一が密教の到達点。
・チベットのゾクチェン → 覚醒の境地と思考の動きが一体になっている不動の境地がラントン。
(同書より抜粋)
この他にも多様な解釈があって、テーラワーダ仏教(上座部仏教)などヴィパッサナー系の流派においてはシャマタ(止、シネー)は多少は必要だけれども本来的にはそれほど不要でヴィパッサナー(観、ラントン)があれば良い、としている流派もあります。
これに加えてサマーディが何なのかという定義のお話が加わってきて、サマーディが単なる集中(シャマタ、シネー)なのかそれとも観(ヴィパッサナー、ラントン)なのか、あるいは覚醒の境地である心の本性(リクパ)の状態のことを意味しているのかで解釈が違ってきます。
このように、シャマタ(止、シネー)がいいのかヴィパッサナー(観、ラントン)がいいのかというお話は瞑想をする人たちの間でいつも話題になって、流派及びその立場、あるいはその経験によって様々なお話があって、時に流派やそれぞれの人の間で対立してしまうこともあるようです。
最近思うのは、チベット系、特にゾクチェンに基づいた分類が一番スッキリするということです。
最近は各派におけるシャマタ(止、シネー)とヴィパッサナー(観、ラントン)の違いがはっきりとわかってきましたので、この辺りの理解がクリアになりました。
ゾクチェンの「心の本性の部」におけるラントンは、覚醒の境地と思考の動きが一体になっているレヴェルを指している。この境地は<不動の境地(ミヨワ)>とも呼ばれる。この境地に至れば、どんな動きによっても妨げられなくなる。「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」
これに対して、顕教と密教は立場を異にしています。
・顕教 → 静寂の境地(シネー、止)の後にラントン(観)が自動的に生じる。
・密教 → 悟りの一定の段階。シネーが空、ラントンが光明に対応して、両者の合一が密教の到達点。
・チベットのゾクチェン → 覚醒の境地と思考の動きが一体になっている不動の境地がラントン。
(同書より抜粋)
この他にも多様な解釈があって、テーラワーダ仏教(上座部仏教)などヴィパッサナー系の流派においてはシャマタ(止、シネー)は多少は必要だけれども本来的にはそれほど不要でヴィパッサナー(観、ラントン)があれば良い、としている流派もあります。
これに加えてサマーディが何なのかという定義のお話が加わってきて、サマーディが単なる集中(シャマタ、シネー)なのかそれとも観(ヴィパッサナー、ラントン)なのか、あるいは覚醒の境地である心の本性(リクパ)の状態のことを意味しているのかで解釈が違ってきます。
このように、シャマタ(止、シネー)がいいのかヴィパッサナー(観、ラントン)がいいのかというお話は瞑想をする人たちの間でいつも話題になって、流派及びその立場、あるいはその経験によって様々なお話があって、時に流派やそれぞれの人の間で対立してしまうこともあるようです。
最近思うのは、チベット系、特にゾクチェンに基づいた分類が一番スッキリするということです。
最近は各派におけるシャマタ(止、シネー)とヴィパッサナー(観、ラントン)の違いがはっきりとわかってきましたので、この辺りの理解がクリアになりました。
ハイヤーセルフとグループソウル
ハイヤーセルフはスピリチュアルで「普通の心」と「高次元の心(ハイヤーセルフ)」がいると言う文脈で語られますが、私が幽体離脱した認識ではハイヤーセルフというものは存在していなくて、それに該当するものはグループソウルかなと解釈しておりました。ですので、今まで、私はハイヤーセルフとグループソウルは割と同じものとして捉えていたわけです。魂あるいは霊魂の集合体あるいは個体として自分というものが存在していて、幽体離脱した時に自分というものを見るとハイヤーセルフらしきものはなくて自分は自分でしかなくて、又、顕在意識の自分からしてもハイヤーセルフとはグループソウルと同じに見えるのです。
しかしながら、そういう解釈ですとハイヤーセルフというものがどうも掴みにくい感じで、ちょっとぼやけた感じで認識しておりました。スピリチュアルの言うことですので、まあ、そう言う人もいるのかなと思って割と大雑把に捉えてスルーしていたわけですけれども、ここにきて心の本性(リクパ)が体をダイレクトに動かしている感覚が強くなってきました。
この、心の本性(リクパ)が現れた状態で改めてハイヤーセルフのことを解釈し直すと、この心の本性(リクパ)のことをハイヤーセルフと呼ぶのがスピリチュアル的には正しい気がして参りました。
これは割と元々の定義に戻った感じではありますけど、この混乱はおそらくスピリチュアルな人の表現方法にあるかもしれなくて、スピリチュアルではハイヤーセルフは元々の定義そのものよりも割と「自分とは分離した理想的な存在」として描かれていて、実際のところ人によってその表現方法は多様ですけれども、離れた自分ということであればグループソウルのことだと解釈していたわけです。あるいは、ハイヤーセルフをチャネリングの文脈に即して解釈している人もいます。ですから、スピリチュアルにおいては元々の定義から離れて割と自分とは分離した存在としてハイヤーセルフが解釈されてきたように思います。
しかしながら、私の最近の瞑想の実感に基けば、この自分自身の心の本性(リクパ)をハイヤーセルフと呼んでも良い気が致します。
ハイヤーセルフのことを言う時はよく「普通の心」と「高次元の心(ハイヤーセルフ)」がいると言う言い方をしますけど、そうであれば心の本性であるいわゆるリクパがそれに相当すると思います。ですけど、多くのスピリチュアルな方々はもっと神秘的にこのことを表現していて、あたかも自分の外側に天使や神様のような高次元の自分がいるかのような表現をしている時があります。比喩としてはそういう表現方法で概略を伝えると言うのはありなのかもしれませんけど、そのような煌びやかなイメージが今は先行してしまっていて、実際の姿が隠れてしまっているようにも思えてしまいます。
確かにこの心の本性リクパが現れてきた状態は自由で活気に溢れていて穏やかでいわばキラキラしているといえばそうとも言えますけど、それよりも、もっと基本としては割と地味なキラキラなわけです。地味とキラキラという相反することを言っていますけど実際にそうなので仕方がなくて、地味だと言うことが基本にあって、それでいて内面はキラキラしているわけです。
表現するならば、外から見ると地味だけれども自分の内面はキラキラしている、と言えば良いでしょうか。そうは言いましてもその内面のキラキラは滲み出ますので見る人が見れば全然違うわけですけれども、基本は地味なわけです。
まあ、そうは言っていますけど、同じことを、逆に捉える人もいるわけです。
スピリチュアルな人の中には、外見をキラキラで内面は静か、と表現している人もいます。実際、同じことです。
同じことなのに表現が逆なのは一体どう言うことかと思う方もいらっしゃるかと思いますけど、それは見る人の視点が違うだけで、実態は同じなわけです。
そのように、ここにきて、ようやくハイヤーセルフというものの実態が掴めてきました。
私が30年くらい前にハイヤーセルフという概念を知った時は元々の定義である「普通の心」と「高次元の心」があるというお話でしたけど、その後、瞑想をしたり社会生活を送ったり幽体離脱した中で見たものといえばハイヤーセルフというのは実際にはいなくて、ハイヤーセルフではなく私の魂の本体であるグループソウルのように見える存在がいただけでした。そのグループソウルのように見える存在というのは人の形をしていて、私が分霊として分かれた大元である魂です。ハイヤーセルフと言うとグループソウルが該当しているように幽体離脱からの経験からは思えました。
長らくその実体験に基づいて解釈してきたわけですけれども、ここにきて、最初の定義である「普通の心」と「高次元の心(あるいは心の本性リクパ)」と言う定義に戻した方がスッキリするように思えて参りました。
ぐるりと回って元に戻ってきた感じですね。
実際のところ、本当は本当は2つの心なんてなくてひとつづきの心があるだけですので、幽体離脱で見た解釈は正しいと今でも思えるわけですけれども、ハイヤーセルフと言う概念それ自体は霊魂の実態に関するものではなくて、顕在意識からハイヤーセルフというものが存在しているかのように錯覚する、と見なす方がスッキリします。
これは微妙なお話で、本当はスピリットとしての自分が本当の自分なわけでそれしか存在していないわけですけれども、顕在意識が誤って顕在意識自身のことを自分と思い込んでいるからハイヤーセルフという概念が必要になってくるわけです。
このことをヴェーダンタでは「ジーヴァ(顕在意識の自分)が無知によってジーヴァを自分だと勘違いしている」、みたいに言ったりします。ですから、ハイヤーセルフがいるというのは本当の実態ではなくて錯覚なわけです。
私はわざわざ本当の実態に即してハイヤーセルフを解釈しようとして、ハイヤーセルフに該当するものは幽体離脱中に見つけられなかったのでハイヤーセルフをグループソウルと同一のものとして解釈しようとしましたけど、そうする必要はなくて、単にハイヤーセルフはこのような錯覚のお話と心の本性(リクパ)のお話だと解釈するのがスッキリするように思えてきました。
しかしながら、そういう解釈ですとハイヤーセルフというものがどうも掴みにくい感じで、ちょっとぼやけた感じで認識しておりました。スピリチュアルの言うことですので、まあ、そう言う人もいるのかなと思って割と大雑把に捉えてスルーしていたわけですけれども、ここにきて心の本性(リクパ)が体をダイレクトに動かしている感覚が強くなってきました。
この、心の本性(リクパ)が現れた状態で改めてハイヤーセルフのことを解釈し直すと、この心の本性(リクパ)のことをハイヤーセルフと呼ぶのがスピリチュアル的には正しい気がして参りました。
これは割と元々の定義に戻った感じではありますけど、この混乱はおそらくスピリチュアルな人の表現方法にあるかもしれなくて、スピリチュアルではハイヤーセルフは元々の定義そのものよりも割と「自分とは分離した理想的な存在」として描かれていて、実際のところ人によってその表現方法は多様ですけれども、離れた自分ということであればグループソウルのことだと解釈していたわけです。あるいは、ハイヤーセルフをチャネリングの文脈に即して解釈している人もいます。ですから、スピリチュアルにおいては元々の定義から離れて割と自分とは分離した存在としてハイヤーセルフが解釈されてきたように思います。
しかしながら、私の最近の瞑想の実感に基けば、この自分自身の心の本性(リクパ)をハイヤーセルフと呼んでも良い気が致します。
ハイヤーセルフのことを言う時はよく「普通の心」と「高次元の心(ハイヤーセルフ)」がいると言う言い方をしますけど、そうであれば心の本性であるいわゆるリクパがそれに相当すると思います。ですけど、多くのスピリチュアルな方々はもっと神秘的にこのことを表現していて、あたかも自分の外側に天使や神様のような高次元の自分がいるかのような表現をしている時があります。比喩としてはそういう表現方法で概略を伝えると言うのはありなのかもしれませんけど、そのような煌びやかなイメージが今は先行してしまっていて、実際の姿が隠れてしまっているようにも思えてしまいます。
確かにこの心の本性リクパが現れてきた状態は自由で活気に溢れていて穏やかでいわばキラキラしているといえばそうとも言えますけど、それよりも、もっと基本としては割と地味なキラキラなわけです。地味とキラキラという相反することを言っていますけど実際にそうなので仕方がなくて、地味だと言うことが基本にあって、それでいて内面はキラキラしているわけです。
表現するならば、外から見ると地味だけれども自分の内面はキラキラしている、と言えば良いでしょうか。そうは言いましてもその内面のキラキラは滲み出ますので見る人が見れば全然違うわけですけれども、基本は地味なわけです。
まあ、そうは言っていますけど、同じことを、逆に捉える人もいるわけです。
スピリチュアルな人の中には、外見をキラキラで内面は静か、と表現している人もいます。実際、同じことです。
同じことなのに表現が逆なのは一体どう言うことかと思う方もいらっしゃるかと思いますけど、それは見る人の視点が違うだけで、実態は同じなわけです。
そのように、ここにきて、ようやくハイヤーセルフというものの実態が掴めてきました。
私が30年くらい前にハイヤーセルフという概念を知った時は元々の定義である「普通の心」と「高次元の心」があるというお話でしたけど、その後、瞑想をしたり社会生活を送ったり幽体離脱した中で見たものといえばハイヤーセルフというのは実際にはいなくて、ハイヤーセルフではなく私の魂の本体であるグループソウルのように見える存在がいただけでした。そのグループソウルのように見える存在というのは人の形をしていて、私が分霊として分かれた大元である魂です。ハイヤーセルフと言うとグループソウルが該当しているように幽体離脱からの経験からは思えました。
長らくその実体験に基づいて解釈してきたわけですけれども、ここにきて、最初の定義である「普通の心」と「高次元の心(あるいは心の本性リクパ)」と言う定義に戻した方がスッキリするように思えて参りました。
ぐるりと回って元に戻ってきた感じですね。
実際のところ、本当は本当は2つの心なんてなくてひとつづきの心があるだけですので、幽体離脱で見た解釈は正しいと今でも思えるわけですけれども、ハイヤーセルフと言う概念それ自体は霊魂の実態に関するものではなくて、顕在意識からハイヤーセルフというものが存在しているかのように錯覚する、と見なす方がスッキリします。
これは微妙なお話で、本当はスピリットとしての自分が本当の自分なわけでそれしか存在していないわけですけれども、顕在意識が誤って顕在意識自身のことを自分と思い込んでいるからハイヤーセルフという概念が必要になってくるわけです。
このことをヴェーダンタでは「ジーヴァ(顕在意識の自分)が無知によってジーヴァを自分だと勘違いしている」、みたいに言ったりします。ですから、ハイヤーセルフがいるというのは本当の実態ではなくて錯覚なわけです。
私はわざわざ本当の実態に即してハイヤーセルフを解釈しようとして、ハイヤーセルフに該当するものは幽体離脱中に見つけられなかったのでハイヤーセルフをグループソウルと同一のものとして解釈しようとしましたけど、そうする必要はなくて、単にハイヤーセルフはこのような錯覚のお話と心の本性(リクパ)のお話だと解釈するのがスッキリするように思えてきました。
我思う、ゆえに我あり、の2つの側面
デカルトが言ったというこの言葉は、おそらくは元々の意味としては顕在意識のことを言っていたのかなと思います。私は彼について詳しくはありませんが、自分や周囲の実在を疑った時に自分の自意識だけは存在していることを確信したようです。
それ自体は哲学のお話ですので異論はないのですが、この同じ言葉を使って2つの側面を説明できると思うのです。ここでは、デカルトが言った本来の意味としてではなく、言葉通りを解釈した時に現れる2つの側面について言っています。(デカルトも同じことを言っていたのかもしれませんがそれはさておき)
1つは、顕在意識としての「私」
もう1つは、心の本性(いわゆるリクパ)としての「私」
実際のところ、ヨーガやヴェーダンタでは顕在意識としての「私」は一時的に現れては消えてゆくもの、としています。それはサンスクリットでチッタ(心)とかブッディ(決定する能力、思考力)と言われています。それに加えて、ブッディが存在することによって本来は存在していない「私」という感覚「アハンカーラ(エゴイズム)」が現れる、と説明しています。
ここで実在しているのは以下のものです。
・心の本性(リクパ)
・顕在意識としてのチッタ(心)、及びブッディ(決定する能力)
そして、以下が存在しないものです。
・アハンカーラ(ブッディが存在することによって現れる「私」という錯覚)
ここで、デカルトがどれのことを言っていたのかはわかりませんが、言葉の意味としては以下の2つが考えられます。
・心の本性(リクパ)が意思を持つが故に私が存在している。
・顕在意識があるが故に私が存在している。顕在意識としてのチッタ(心)及びブッディ(決定する能力)が意思を持つが故に私が存在しているというアハンカーラ(という錯覚)が生じている。
実際のところ、それなりに瞑想をしたりあるいは一部の人でなければ心の本性(リクパ)が意思を持つことを認識できませんので、デカルトが瞑想なり熟考して同様の答えに達した可能性はあります。
あるいは、普通に考えられるのは、顕在意識としての私が存在するという結論に達した、という可能性ですね。
どちらにせよ可能性としてあるのは概ね2つで、心の本性のリクパが意思を持つことに気づいた可能性と、あるいは、普通に顕在意識が私だという結論に哲学的に達したという可能性です。
実際のところ私は哲学にはそれほど興味はないのですけど、こうして、所々にヨーガやヴェーダンタのお話とクロスするところが出てきて時々興味深く感じたりもします。
それ自体は哲学のお話ですので異論はないのですが、この同じ言葉を使って2つの側面を説明できると思うのです。ここでは、デカルトが言った本来の意味としてではなく、言葉通りを解釈した時に現れる2つの側面について言っています。(デカルトも同じことを言っていたのかもしれませんがそれはさておき)
1つは、顕在意識としての「私」
もう1つは、心の本性(いわゆるリクパ)としての「私」
実際のところ、ヨーガやヴェーダンタでは顕在意識としての「私」は一時的に現れては消えてゆくもの、としています。それはサンスクリットでチッタ(心)とかブッディ(決定する能力、思考力)と言われています。それに加えて、ブッディが存在することによって本来は存在していない「私」という感覚「アハンカーラ(エゴイズム)」が現れる、と説明しています。
ここで実在しているのは以下のものです。
・心の本性(リクパ)
・顕在意識としてのチッタ(心)、及びブッディ(決定する能力)
そして、以下が存在しないものです。
・アハンカーラ(ブッディが存在することによって現れる「私」という錯覚)
ここで、デカルトがどれのことを言っていたのかはわかりませんが、言葉の意味としては以下の2つが考えられます。
・心の本性(リクパ)が意思を持つが故に私が存在している。
・顕在意識があるが故に私が存在している。顕在意識としてのチッタ(心)及びブッディ(決定する能力)が意思を持つが故に私が存在しているというアハンカーラ(という錯覚)が生じている。
実際のところ、それなりに瞑想をしたりあるいは一部の人でなければ心の本性(リクパ)が意思を持つことを認識できませんので、デカルトが瞑想なり熟考して同様の答えに達した可能性はあります。
あるいは、普通に考えられるのは、顕在意識としての私が存在するという結論に達した、という可能性ですね。
どちらにせよ可能性としてあるのは概ね2つで、心の本性のリクパが意思を持つことに気づいた可能性と、あるいは、普通に顕在意識が私だという結論に哲学的に達したという可能性です。
実際のところ私は哲学にはそれほど興味はないのですけど、こうして、所々にヨーガやヴェーダンタのお話とクロスするところが出てきて時々興味深く感じたりもします。
内なる意識とダイレクトに繋がることのみが本質
聖典の知識とか意識の静寂さなどほとんどの瞑想の境地は外側で、内なる意識とダイレクトに繋がることこそが内側だと最近は思うようになりました。内なる意識はアートマン(真我)と呼ばれたりハイヤーセルフと呼ばれたりプルシャあるいは神意識などと呼ばれたりしますが言い方は重要ではなくその内なる意識とダイレクトに繋がることこそが次なる意識の段階へ進む鍵だと最近は確信するようになりました。
この、意識とダイレクトに繋がった状態では全てが「ありのまま」であると感じられます。
ゾクチェンの詩にあるように「ありのまま」を表現する方法などありはせず、全ては現れては消えてゆき、そのままで完全なのだから努力の病を捨て、サマーディの自然の状態に留まるだけで全ての顕現は現れては自然に消えてゆく繰り返しである、と。
多様な現象の本性は、不二だ。
ひとつひとつの現象も、心の作り出す限界の彼方にある。
あるがままのものを定義できる概念などありはしない。
にもかかわらず、顕現はあらわれ続ける。すべてよし。
一切はすでに成就しているのだから、努力の病を捨て去り、
あるがままで完全な境地の中にとどまること、それが三昧だ。
「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」
すべての始まりから、
あらゆるものは
そのままで完全だということがわかれば、
何かを達成しようとする努力は、すべて放棄される。
あるがままの自然の状態にとどまっているだけで、
不二の三昧の境地が自然に生じつづける。
「虹と水晶(ナムカイ・ノルブ著)」
このことが今までは理性では理屈で理解できても、いまいち実感が持てないでいました。
しかしながら、ここにきて、少し実感が伴ってきたのが胸の奥にて夜明けを感じて創造・破壊・維持の意識が深まってきた頃からで、更に、この詩の内容が確実に正しいと確信したのはごく最近で意識が体をダイレクトに動かしていると実感してからのことです。
この、一見すると全く関係ないかのように見えるこれらの事柄は実は関連していて、自らの内側にある意識とダイレクトに繋がることで上記の詩の内容が理解できるようになるのです。
全ての始まりから、あらゆるものは、そのままで完全、というのは、全てが意識による創造物ということです。何物も意識によって意図されて作られたということがこの段階ではわかりますので、あらゆるものは、それがどのようなものであったとしてもそのままで完全であるということがわかります。これは変わってはいけないということではなく、むしろ逆で、いかなる形に変わろうとも、あるいは、全く形のようなものを取っていなくて原材料のようなものであってもそれすらもあらゆるものに含まれますのでそのままで完全であるということです。そのことが、自らの内なる意識に繋がることで理解できるわけです。
確かに、繋がったのはまだ自らの意識であって周囲の物の全てに繋がったわけではないと言えばそうですけど、自らの内なる意識と外側にある物体や他の人との本質が同じだと「わかります」ので、同じなのだという理解に基づいて、そのようなことがすんなりと理解できるわけです。自らを理解することで世界の成り立ちを理解するわけです。
この過程は聖典に書かれてあり、自らを理解することで世界を理解する、という聖典の記述は正しかったのだと今はわかります。
そして、何かを達成しようとする努力は、全て放棄される、ということもほぼ同様で、ありのままなのだから全ては意識のなすがまま。全てが良い、ということになります。
ここで、努力の放棄と言っているのは顕在意識の努力の放棄のことで、内なる意識の意図は残りますが、基本的には無駄な努力という観点からの努力は放棄されるわけです。
そして、あるがままの自然の状態に留まっているだけで不二の三昧の境地が自然に生じ続けるということもその通りで、あるがままの自然の状態と不二の境地というのは表裏一体であり、不二の境地で自らの内側に繋がっているからこそあるがままの自然の状態になっているとも言えて、それと同時に、文字通り、あるがままの自然の状態に留まるから不二の三昧の境地が続く、という面もあるわけです。
この詩はサマーディの境地の説明でもありますけど、サマーディというと色々な種類がありますけど、ここでの説明は、それなりに深い境地のサマーディのお話だと思います。
この、意識とダイレクトに繋がった状態では全てが「ありのまま」であると感じられます。
ゾクチェンの詩にあるように「ありのまま」を表現する方法などありはせず、全ては現れては消えてゆき、そのままで完全なのだから努力の病を捨て、サマーディの自然の状態に留まるだけで全ての顕現は現れては自然に消えてゆく繰り返しである、と。
多様な現象の本性は、不二だ。
ひとつひとつの現象も、心の作り出す限界の彼方にある。
あるがままのものを定義できる概念などありはしない。
にもかかわらず、顕現はあらわれ続ける。すべてよし。
一切はすでに成就しているのだから、努力の病を捨て去り、
あるがままで完全な境地の中にとどまること、それが三昧だ。
「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」
すべての始まりから、
あらゆるものは
そのままで完全だということがわかれば、
何かを達成しようとする努力は、すべて放棄される。
あるがままの自然の状態にとどまっているだけで、
不二の三昧の境地が自然に生じつづける。
「虹と水晶(ナムカイ・ノルブ著)」
このことが今までは理性では理屈で理解できても、いまいち実感が持てないでいました。
しかしながら、ここにきて、少し実感が伴ってきたのが胸の奥にて夜明けを感じて創造・破壊・維持の意識が深まってきた頃からで、更に、この詩の内容が確実に正しいと確信したのはごく最近で意識が体をダイレクトに動かしていると実感してからのことです。
この、一見すると全く関係ないかのように見えるこれらの事柄は実は関連していて、自らの内側にある意識とダイレクトに繋がることで上記の詩の内容が理解できるようになるのです。
全ての始まりから、あらゆるものは、そのままで完全、というのは、全てが意識による創造物ということです。何物も意識によって意図されて作られたということがこの段階ではわかりますので、あらゆるものは、それがどのようなものであったとしてもそのままで完全であるということがわかります。これは変わってはいけないということではなく、むしろ逆で、いかなる形に変わろうとも、あるいは、全く形のようなものを取っていなくて原材料のようなものであってもそれすらもあらゆるものに含まれますのでそのままで完全であるということです。そのことが、自らの内なる意識に繋がることで理解できるわけです。
確かに、繋がったのはまだ自らの意識であって周囲の物の全てに繋がったわけではないと言えばそうですけど、自らの内なる意識と外側にある物体や他の人との本質が同じだと「わかります」ので、同じなのだという理解に基づいて、そのようなことがすんなりと理解できるわけです。自らを理解することで世界の成り立ちを理解するわけです。
この過程は聖典に書かれてあり、自らを理解することで世界を理解する、という聖典の記述は正しかったのだと今はわかります。
そして、何かを達成しようとする努力は、全て放棄される、ということもほぼ同様で、ありのままなのだから全ては意識のなすがまま。全てが良い、ということになります。
ここで、努力の放棄と言っているのは顕在意識の努力の放棄のことで、内なる意識の意図は残りますが、基本的には無駄な努力という観点からの努力は放棄されるわけです。
そして、あるがままの自然の状態に留まっているだけで不二の三昧の境地が自然に生じ続けるということもその通りで、あるがままの自然の状態と不二の境地というのは表裏一体であり、不二の境地で自らの内側に繋がっているからこそあるがままの自然の状態になっているとも言えて、それと同時に、文字通り、あるがままの自然の状態に留まるから不二の三昧の境地が続く、という面もあるわけです。
この詩はサマーディの境地の説明でもありますけど、サマーディというと色々な種類がありますけど、ここでの説明は、それなりに深い境地のサマーディのお話だと思います。
不二の意識になってから特別感が消え失せた
意識が体をダイレクトに動かしていると実感し始めてから不意に気がついたのですが、特別感がかなり消え失せていました。
今までもそこまで特別感があったわけでもなかったように思いますが、どこか心の片隅に残っていた特別感が今回の変化を経たことでかなりの割合で消え失せたように思います。
この特別感は特にスピリチュアル初心者には強く現れているもので、段階を経てかなり減ってきてはいたのですが、そうは言いましてもごく最近にまで少しはその特別感がほんの僅かに残っていたように思います。
それは現象としては優越意識として現れ、自分のやっている修行が特別で優れているものだと考えることに繋がります。このような優越意識は特にスピリチュアル初心者に強く現れるもので、次第に減ってゆきます。これはあるのが普通で、悪いものではなく、修行の進み具合を確かめる印として使えると思っております。よく優越意識が悪者にされますけど、あるのが普通だと思いますので他人を不快にさせないように気をつければいいと思っております。今から思えば、少し前のことですら今と比べてみると多少は特別感があったのかなという気も致します。
その特別感あるいは優越意識は修行をするうちにどんどんと減ってゆくものなのですが、それは程度問題で、人間ですからどこまで行っても完全にゼロにはならないようにも思いますが、ここにきて不二の意識になることでかなり特別感がない状態に近づいたように思います。
この不二の意識は具体的には体をダイレクトに動かしているという実感のあるハートの意識でありアートマン(真我)あるいはプルシャなどと呼ばれているものですけど、この不二の意識が出てくるとそれは瞑想状態としてはサマーディ(三昧)状態になります。サマーディとは不二の意識のことですが、(不二の意識に対比されるところの)通常の顕在意識においては見る者・見られる者・見る手段、という3つに分割されているとヨーガでは説明されています。そのように、普通の意識では分割されているものが、サマーディ状態になると「見るもの」と「見られるもの」が合一すると説明されています。そのことを不二の意識、と言ったりします。
不二の意識は今までもそれなりに体験していたと今までは思っていて、特に瞑想中においてそれっぽい感じになったり、視界がスローモーションで感じたり映画のように感じたりした時に不二の意識を感じてはいたのですが、それらの今までの不二の意識は最近のダイレクト感のある意識状態と比べると随分と生ぬるいものだったのかな、という気がしてきました。
今までは不二の意識のサマーディを垣間見ていただけで本当のサマーディではなかったように思います。サマーディには各種の種類がありますが、まだ入り口のサマーディだったということのようにも思います。
その時の感覚からすれば、不二の意識というのは多分そうなのだけれども、確実に不二の意識というのには確信が足りないような状況でした。
一方、最近のダイレクト感のあるサマーディは、確かにこれは不二の意識だ、という確信があります。
不二の意識とは文字通り2つではない、ということであり、1つだ、ということです。
ヨーガの説明では元々分かれていたものが1つになる、というような説明でしたけど、実際にこの状態になってみると、どうやらそれは誤解があるように思うのです。
この不二の意識は、文字通り、分かれていない、というお話であり、2つにあるものが1つになる、というお話ではないのです。
確かに、顕在意識では2つに分かれているように見えますけど、不二のサマーディの意識から見ると1つなのです。全ては意識で繋がっていて、意識しかないわけです。そこに、2つのものが1つになる、というような概念は存在しないのです。
<合一>という言葉のかわりに、<不二>という表現をよく使う。その理由を理解するには、<合一>という言葉が意味している内容を理解する必要がある。それは、まず最初に二つの異なるものがあって、それを合一させなければならない、ということだ。これに対して、<不二>という場合、何かを二つに分け、それをふたたび統一するという考え方とは無縁だ。「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」
ヨーガ風の説明においては「不二」というお話と「合一」というお話が出てきますが、ゾクチェンにおいては「不二」だけです。ヨーガ風の「合一」のお話はどうも腑に落ちないでいましたが、今思えば、このゾクチェンの説明が正しいと思えます。
合一のように見えるのは顕在意識によってこの心の本性の不二のサマーディの意識を理解しようとしているからで、合一のように見えている時点でそれは顕在意識からの視点なわけです。一方、実際に心の本性(いわゆるリクパ)の現れとしてサマーディ状態になれば、そこにはただ不二の意識だけがありますから自明で、全く迷いがないわけです。
顕在意識がある状態ですと2つに分かれていますからそこに特別感というものが生じる余地があるように思います。そしてその特別感というものは本質の心の本性からどれだけ離れているかによって生じているように思います。心の本性のサマーディから離れていれば離れているほど2つに分かれているように感じて特別感が出てくるわけですね。
一方、心の本性であるいわゆるリクパあるいはアートマン(真我)あるいはプルシャの意識と顕在意識が重なり合うようになるにつれ、意識が不二の意識として動き始め、特別感というものがいよいよなくなってゆきます。
この辺りは説明が微妙なのですが、顕在意識としては顕在意識としてあるのですが、心の本性であるリクパあるいはアートマン(真我)あるいはプルシャがダイレクトに私の体及び顕在意識を動かしていますので、アートマンと体及び顕在意識が割とぴったりとくっついている状態なわけです。ですから顕在意識としてはそれはそれとしてあるのですけど、アートマン(真我)の意識とダイレクトに繋がっていて、アートマンの意識が不二の意識ですから、その不二の意識が働いていることにより特別感が消失するわけです。
これはおそらくサマーディの深さに関係するように思えて、感覚は一定ではなくて時間によって違いますけど、概ね、このようになっています。
今までもそこまで特別感があったわけでもなかったように思いますが、どこか心の片隅に残っていた特別感が今回の変化を経たことでかなりの割合で消え失せたように思います。
この特別感は特にスピリチュアル初心者には強く現れているもので、段階を経てかなり減ってきてはいたのですが、そうは言いましてもごく最近にまで少しはその特別感がほんの僅かに残っていたように思います。
それは現象としては優越意識として現れ、自分のやっている修行が特別で優れているものだと考えることに繋がります。このような優越意識は特にスピリチュアル初心者に強く現れるもので、次第に減ってゆきます。これはあるのが普通で、悪いものではなく、修行の進み具合を確かめる印として使えると思っております。よく優越意識が悪者にされますけど、あるのが普通だと思いますので他人を不快にさせないように気をつければいいと思っております。今から思えば、少し前のことですら今と比べてみると多少は特別感があったのかなという気も致します。
その特別感あるいは優越意識は修行をするうちにどんどんと減ってゆくものなのですが、それは程度問題で、人間ですからどこまで行っても完全にゼロにはならないようにも思いますが、ここにきて不二の意識になることでかなり特別感がない状態に近づいたように思います。
この不二の意識は具体的には体をダイレクトに動かしているという実感のあるハートの意識でありアートマン(真我)あるいはプルシャなどと呼ばれているものですけど、この不二の意識が出てくるとそれは瞑想状態としてはサマーディ(三昧)状態になります。サマーディとは不二の意識のことですが、(不二の意識に対比されるところの)通常の顕在意識においては見る者・見られる者・見る手段、という3つに分割されているとヨーガでは説明されています。そのように、普通の意識では分割されているものが、サマーディ状態になると「見るもの」と「見られるもの」が合一すると説明されています。そのことを不二の意識、と言ったりします。
不二の意識は今までもそれなりに体験していたと今までは思っていて、特に瞑想中においてそれっぽい感じになったり、視界がスローモーションで感じたり映画のように感じたりした時に不二の意識を感じてはいたのですが、それらの今までの不二の意識は最近のダイレクト感のある意識状態と比べると随分と生ぬるいものだったのかな、という気がしてきました。
今までは不二の意識のサマーディを垣間見ていただけで本当のサマーディではなかったように思います。サマーディには各種の種類がありますが、まだ入り口のサマーディだったということのようにも思います。
その時の感覚からすれば、不二の意識というのは多分そうなのだけれども、確実に不二の意識というのには確信が足りないような状況でした。
一方、最近のダイレクト感のあるサマーディは、確かにこれは不二の意識だ、という確信があります。
不二の意識とは文字通り2つではない、ということであり、1つだ、ということです。
ヨーガの説明では元々分かれていたものが1つになる、というような説明でしたけど、実際にこの状態になってみると、どうやらそれは誤解があるように思うのです。
この不二の意識は、文字通り、分かれていない、というお話であり、2つにあるものが1つになる、というお話ではないのです。
確かに、顕在意識では2つに分かれているように見えますけど、不二のサマーディの意識から見ると1つなのです。全ては意識で繋がっていて、意識しかないわけです。そこに、2つのものが1つになる、というような概念は存在しないのです。
<合一>という言葉のかわりに、<不二>という表現をよく使う。その理由を理解するには、<合一>という言葉が意味している内容を理解する必要がある。それは、まず最初に二つの異なるものがあって、それを合一させなければならない、ということだ。これに対して、<不二>という場合、何かを二つに分け、それをふたたび統一するという考え方とは無縁だ。「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」
ヨーガ風の説明においては「不二」というお話と「合一」というお話が出てきますが、ゾクチェンにおいては「不二」だけです。ヨーガ風の「合一」のお話はどうも腑に落ちないでいましたが、今思えば、このゾクチェンの説明が正しいと思えます。
合一のように見えるのは顕在意識によってこの心の本性の不二のサマーディの意識を理解しようとしているからで、合一のように見えている時点でそれは顕在意識からの視点なわけです。一方、実際に心の本性(いわゆるリクパ)の現れとしてサマーディ状態になれば、そこにはただ不二の意識だけがありますから自明で、全く迷いがないわけです。
顕在意識がある状態ですと2つに分かれていますからそこに特別感というものが生じる余地があるように思います。そしてその特別感というものは本質の心の本性からどれだけ離れているかによって生じているように思います。心の本性のサマーディから離れていれば離れているほど2つに分かれているように感じて特別感が出てくるわけですね。
一方、心の本性であるいわゆるリクパあるいはアートマン(真我)あるいはプルシャの意識と顕在意識が重なり合うようになるにつれ、意識が不二の意識として動き始め、特別感というものがいよいよなくなってゆきます。
この辺りは説明が微妙なのですが、顕在意識としては顕在意識としてあるのですが、心の本性であるリクパあるいはアートマン(真我)あるいはプルシャがダイレクトに私の体及び顕在意識を動かしていますので、アートマンと体及び顕在意識が割とぴったりとくっついている状態なわけです。ですから顕在意識としてはそれはそれとしてあるのですけど、アートマン(真我)の意識とダイレクトに繋がっていて、アートマンの意識が不二の意識ですから、その不二の意識が働いていることにより特別感が消失するわけです。
これはおそらくサマーディの深さに関係するように思えて、感覚は一定ではなくて時間によって違いますけど、概ね、このようになっています。
不二の意識により聖典の知識が明確に理解できるようになった
最近のダイレクト感のある内なる意識が目覚めたことにより聖典の記述がとてもよく理解できるようになりました。特に不二の意識のサマーディおよびアートマン(真我)の説明がその通りだと感覚の実感を伴って理解できるようになりました。
と、言いますか、ダイレクト感のある内なる意識というのは感覚で表現したものですけど、それを聖典風の言葉で言い表すと不二の意識とかサマーディとかいう言い方になって、表現は違いますけど同じことを意味しています。
歴史的に、この状態をサマーディとか不二の意識と言っていたということが今となってはよくわかります。
この種のお話はよく神学論争や哲学の議論あるいは宗派論争になりやすいお話ではありますけど、実際に自分が不二の意識であるいわゆるサマーディになってみると何が正しいのかはっきりとわかるようになりますので、特に異論などなくなるわけです。
ただ、そこには分かりやすい記述と誤解を与えやすい記述あるいは言葉が長すぎて本筋が見えにくくなっているお話があったりして、それぞれ特徴はありますけど、それでも真実というものはあるわけです。
例えば、シヴァ派の聖典であるシヴァ・サンヒターの記述があります。
この宇宙万象のうちにアートマンはあまねく行きわたって存在する。アートマンは唯一者にして、実在性と智恵と至福とから成り、充実して、欠けたところが無く、対立するものもたない。(中略)アートマン以外に照明者は無いから、それは自己照明者である。自己照明者であるから、それは光明を本質とするものである。照明というのは意識性のことである。(中略)アートマンには、時間と空間を本質とする限定が絶対に存在しないから、アートマンは誠に完全円満である。(中略)アートマンには滅亡が無いからアートマンは永遠であって決して滅びることはない。この世界にはアートマン以外のものは存在しないから、常に唯一のアートマンが存在する。それ以外のものは偽妄であって、アートマンだけが実在である。「続ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)
このように言われてしまうと「なんのこっちゃ」という感じで、あまり関係のない神学論あるいは哲学のお話かなと思ってスルーしてしまいがちですけど、ここには実際の瞑想の境地がそのまま表現されているのです。
この記述は神学論といえばそうですけど机上の空論ではなくて、哲学にも色々あって実在的なものもあるでしょうけど机上の空論系の頭だけで考えた類の哲学とは違っていて、そのような理屈をこねて出されたものではなくて、これらが事実だからこそ聖典に真実として記されているわけです。
この聖典は割と近代に入ってから流派のグルによって書かれたもののようですけど、その根本を辿っていきますとそもそも人間が考えたものではなくて昔の賢者が神々あるいは絶対的な存在(宇宙人かもしれません)から与えられたものを根拠としています。ですから相当に歴史があるわけで、そこには実在の真実が記されているわけです。
これらは瞑想をするうちに実際の真実として実感できるようになるわけです。
具体的には、不二の意識になって意識が体や顕在意識を動かしていることが実感できるとそれがアートマンだということが聖典によって確認できます。
そして、瞑想では輪郭がわかるわけですけれども、その全体像が聖典によって確認できるわけです。
全く実感のない状態で聖典を読むと「ほにゃらら」という感じではありますが、全部とまでは行かないまでも基本的なベースとしての不二の意識のサマーディがある状態で聖典を読むとその記述が真実であることがよく理解できるのです。
と、言いますか、ダイレクト感のある内なる意識というのは感覚で表現したものですけど、それを聖典風の言葉で言い表すと不二の意識とかサマーディとかいう言い方になって、表現は違いますけど同じことを意味しています。
歴史的に、この状態をサマーディとか不二の意識と言っていたということが今となってはよくわかります。
この種のお話はよく神学論争や哲学の議論あるいは宗派論争になりやすいお話ではありますけど、実際に自分が不二の意識であるいわゆるサマーディになってみると何が正しいのかはっきりとわかるようになりますので、特に異論などなくなるわけです。
ただ、そこには分かりやすい記述と誤解を与えやすい記述あるいは言葉が長すぎて本筋が見えにくくなっているお話があったりして、それぞれ特徴はありますけど、それでも真実というものはあるわけです。
例えば、シヴァ派の聖典であるシヴァ・サンヒターの記述があります。
この宇宙万象のうちにアートマンはあまねく行きわたって存在する。アートマンは唯一者にして、実在性と智恵と至福とから成り、充実して、欠けたところが無く、対立するものもたない。(中略)アートマン以外に照明者は無いから、それは自己照明者である。自己照明者であるから、それは光明を本質とするものである。照明というのは意識性のことである。(中略)アートマンには、時間と空間を本質とする限定が絶対に存在しないから、アートマンは誠に完全円満である。(中略)アートマンには滅亡が無いからアートマンは永遠であって決して滅びることはない。この世界にはアートマン以外のものは存在しないから、常に唯一のアートマンが存在する。それ以外のものは偽妄であって、アートマンだけが実在である。「続ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)
このように言われてしまうと「なんのこっちゃ」という感じで、あまり関係のない神学論あるいは哲学のお話かなと思ってスルーしてしまいがちですけど、ここには実際の瞑想の境地がそのまま表現されているのです。
この記述は神学論といえばそうですけど机上の空論ではなくて、哲学にも色々あって実在的なものもあるでしょうけど机上の空論系の頭だけで考えた類の哲学とは違っていて、そのような理屈をこねて出されたものではなくて、これらが事実だからこそ聖典に真実として記されているわけです。
この聖典は割と近代に入ってから流派のグルによって書かれたもののようですけど、その根本を辿っていきますとそもそも人間が考えたものではなくて昔の賢者が神々あるいは絶対的な存在(宇宙人かもしれません)から与えられたものを根拠としています。ですから相当に歴史があるわけで、そこには実在の真実が記されているわけです。
これらは瞑想をするうちに実際の真実として実感できるようになるわけです。
具体的には、不二の意識になって意識が体や顕在意識を動かしていることが実感できるとそれがアートマンだということが聖典によって確認できます。
そして、瞑想では輪郭がわかるわけですけれども、その全体像が聖典によって確認できるわけです。
全く実感のない状態で聖典を読むと「ほにゃらら」という感じではありますが、全部とまでは行かないまでも基本的なベースとしての不二の意識のサマーディがある状態で聖典を読むとその記述が真実であることがよく理解できるのです。
雑念・煩悩が自己解脱するシャルドルというサマーディの能力
少し前までは、時間をかけて少しずつ思考・雑念が溶けて行く、という感じでした。
五感の感覚で言いますと、スローモーションの視界を感じて映画のように感じられたり日常生活を観察状態(ヴィパッサナーあるいはサマーディ)でそれなりに送るということをしてきましたが、その状態はそれほど長くは続かず、いつの間にか状態が落ちていたような感じでした。
そのようなサマーディ状態は多少の意識を必要とし、集中と言うほどでもないですけど多少の意識の気付きを意図することでそれらの状態を保っていました。一旦その観察状態になるとしばらくはそれほど意図せずとも状態が続いておりましたが、そのうち元に戻っていました。
しかし、今は、割と意識しなくてもその観察状態が継続しています。
この、サマーディに意図を必要とするかどうかの大きな境目としては意識が体をダイレクトに動かしていると実感し始めた時で、それ以前は多少の意図を明示的に行わなければサマーディになりにくかったように思います。それほど意図していなくても日によっては自然にサマーディになることもありましたが、基本的には多少の意図が必要だったように思います。
それが、その境目を超えてからは、明示的な意図がなくても割と普通にサマーディ状態になるようになりました。
とは言いましてもそれはそれほど強くはなく、ハイキングで尾根を歩いているようなものです。それほど大変ではないにせよ多少の注意を必要として、それでいて視界は良好な感じです。
これらのことは、チベット仏教的な解釈に基づけばおそらく以下の状態に該当するのではないかと思います。
1.チェルドル → 今まで。自己解脱の僅かな力。
2.シャルドル → 今の状態。
3.ランドル → まだ
シャルドルは中間的な能力であり、海に降ると同時に溶ける雪のイメージによって表現される。この場合、雪は感覚をつうじた対象との関係、すなわち煩悩を意味し、シャルドルは「生じると同時に解放する」ことを意味している。(中略)煩悩によって制約されることはなくなる。ゾクチェンにおいては、あらゆる煩悩や、カルマから生じるあらわれも、ただの飾りになると言われるのはこのためである。執着することなく、単にあるがままのものとして、すなわち自分のエネルギーのたわむれとして、それを楽しむのである。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」
まさにこの記述が私の最近の理解にぴったりで、本来ならばこういうのはラマに伺いを立てて自分の状態を確かめるべきなのでしょうけど、ひとまず、読む限りではこの状態のように思います。今までは、読むことで「そうなのかな?」と思ったりすることはありましたけど以前は理解するだけで確証はなく、今はもっとはっきりとこのことがわかって確信があります。
同署によればこの先に完全なる二元論の克服があるようで、この時点ではまだ完全に二元論を脱したわけではない、ということですが、そこの点においても私の感覚と一致します。この段階でようやく二元論を脱する手がかりを得て「全ては1つ」であることを体感し始めたものの、まだ完全にその境地に浸りきっているわけではありませんので、この記述がそのまま私に当てはまります。
この状態ですと基本的にはそのように自然に煩悩が自己解脱するのですが、それでもまだ二元論の幻想に包まれることがあり、特に朝の目覚めた後には煩悩やタマスな感覚が残ってしまっているように思いますのでそれらを取り払うためにまだ座った瞑想は必要なように感じています。
五感の感覚で言いますと、スローモーションの視界を感じて映画のように感じられたり日常生活を観察状態(ヴィパッサナーあるいはサマーディ)でそれなりに送るということをしてきましたが、その状態はそれほど長くは続かず、いつの間にか状態が落ちていたような感じでした。
そのようなサマーディ状態は多少の意識を必要とし、集中と言うほどでもないですけど多少の意識の気付きを意図することでそれらの状態を保っていました。一旦その観察状態になるとしばらくはそれほど意図せずとも状態が続いておりましたが、そのうち元に戻っていました。
しかし、今は、割と意識しなくてもその観察状態が継続しています。
この、サマーディに意図を必要とするかどうかの大きな境目としては意識が体をダイレクトに動かしていると実感し始めた時で、それ以前は多少の意図を明示的に行わなければサマーディになりにくかったように思います。それほど意図していなくても日によっては自然にサマーディになることもありましたが、基本的には多少の意図が必要だったように思います。
それが、その境目を超えてからは、明示的な意図がなくても割と普通にサマーディ状態になるようになりました。
とは言いましてもそれはそれほど強くはなく、ハイキングで尾根を歩いているようなものです。それほど大変ではないにせよ多少の注意を必要として、それでいて視界は良好な感じです。
これらのことは、チベット仏教的な解釈に基づけばおそらく以下の状態に該当するのではないかと思います。
1.チェルドル → 今まで。自己解脱の僅かな力。
2.シャルドル → 今の状態。
3.ランドル → まだ
シャルドルは中間的な能力であり、海に降ると同時に溶ける雪のイメージによって表現される。この場合、雪は感覚をつうじた対象との関係、すなわち煩悩を意味し、シャルドルは「生じると同時に解放する」ことを意味している。(中略)煩悩によって制約されることはなくなる。ゾクチェンにおいては、あらゆる煩悩や、カルマから生じるあらわれも、ただの飾りになると言われるのはこのためである。執着することなく、単にあるがままのものとして、すなわち自分のエネルギーのたわむれとして、それを楽しむのである。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」
まさにこの記述が私の最近の理解にぴったりで、本来ならばこういうのはラマに伺いを立てて自分の状態を確かめるべきなのでしょうけど、ひとまず、読む限りではこの状態のように思います。今までは、読むことで「そうなのかな?」と思ったりすることはありましたけど以前は理解するだけで確証はなく、今はもっとはっきりとこのことがわかって確信があります。
同署によればこの先に完全なる二元論の克服があるようで、この時点ではまだ完全に二元論を脱したわけではない、ということですが、そこの点においても私の感覚と一致します。この段階でようやく二元論を脱する手がかりを得て「全ては1つ」であることを体感し始めたものの、まだ完全にその境地に浸りきっているわけではありませんので、この記述がそのまま私に当てはまります。
この状態ですと基本的にはそのように自然に煩悩が自己解脱するのですが、それでもまだ二元論の幻想に包まれることがあり、特に朝の目覚めた後には煩悩やタマスな感覚が残ってしまっているように思いますのでそれらを取り払うためにまだ座った瞑想は必要なように感じています。
シャルドルで静寂の境地への依存から離れる
それまでは、ある程度まで静寂の境地に頼っていました。
自己解脱するシャルドルの能力が育ち始めてから、静寂の境地への依存がかなり減ったように思います。
それまでも、観察すると雑念が消失するチェルドルにおいて静寂の境地から多少は離れることができていましたが、基本的には静寂の境地に頼っていました。
今は、心の動きとはそれなりに離れたところで想念が自己解脱する状態になっています。
特にヴィパッサナー系の瞑想の流派において「心の静止は必ずしも必要ではない」とか「集中力はある程度は必要だが集中によるシャマタ(止)は必ずしも必要ではない」などと言われていて、そこでは「静寂の境地は必ずしも必要ではない」みたいな文脈で物事が語られていますけど、それはこの段階においては確かにそうかなと思います。しかし、それ以前の段階においては静寂の境地は必要だったように思います。
確かに、理屈としてはヴィパッサナー系の流派のいう通りかなとは思うのですがそれはかなり困難で、特に現代のような雑多な世界においては特にそうで、今は特に段階を踏んで瞑想をする必要があるのかなと個人的には思います。昔のようにシンプルな社会においては特に集中をそれほどしなくてシャマタ(止)の静寂の瞑想をせずともいきなり観察状態のシャルドルにまで達することができたのかもしれませんけど、現代においてはそれは難しいのではないでしょうか。
ヴィパッサナーという言葉には手垢がついていて色々な解釈ができてしまいますけど、シャルドルという言い方からすれば意味は1つしかなくて明確な気が致します。
この段階に至れば、確かに、静寂の境地への依存から離れ始めたような気が致します。
かといって雑念だらけになるというわけでもなく、そこは自己解脱の能力がありますから、ありのままの状態を保つだけで雑念が自己解脱してサマーディの状態に保たれるわけです。
自己解脱するシャルドルの能力が育ち始めてから、静寂の境地への依存がかなり減ったように思います。
それまでも、観察すると雑念が消失するチェルドルにおいて静寂の境地から多少は離れることができていましたが、基本的には静寂の境地に頼っていました。
今は、心の動きとはそれなりに離れたところで想念が自己解脱する状態になっています。
特にヴィパッサナー系の瞑想の流派において「心の静止は必ずしも必要ではない」とか「集中力はある程度は必要だが集中によるシャマタ(止)は必ずしも必要ではない」などと言われていて、そこでは「静寂の境地は必ずしも必要ではない」みたいな文脈で物事が語られていますけど、それはこの段階においては確かにそうかなと思います。しかし、それ以前の段階においては静寂の境地は必要だったように思います。
確かに、理屈としてはヴィパッサナー系の流派のいう通りかなとは思うのですがそれはかなり困難で、特に現代のような雑多な世界においては特にそうで、今は特に段階を踏んで瞑想をする必要があるのかなと個人的には思います。昔のようにシンプルな社会においては特に集中をそれほどしなくてシャマタ(止)の静寂の瞑想をせずともいきなり観察状態のシャルドルにまで達することができたのかもしれませんけど、現代においてはそれは難しいのではないでしょうか。
ヴィパッサナーという言葉には手垢がついていて色々な解釈ができてしまいますけど、シャルドルという言い方からすれば意味は1つしかなくて明確な気が致します。
この段階に至れば、確かに、静寂の境地への依存から離れ始めたような気が致します。
かといって雑念だらけになるというわけでもなく、そこは自己解脱の能力がありますから、ありのままの状態を保つだけで雑念が自己解脱してサマーディの状態に保たれるわけです。
サマーディは大我の目覚め
ヨガナンダの弟子である「ヨガ行法中伝」の著者はまずヨーガ・スートラに基づいてダーラナ(集中)・ディヤーナ(瞑想)があり、その結果としてサマーディが現れると説明しています。
基本的な構造としては、一般的な普通の心の滅却によって現れる第二の心、その第二の心が現れた状態がサマーディと言うことです。
行者の心が全く波動を中止して、無我・無私の状態に持続せられる時、その心の側に眠っていた第二の心が目を醒ます。この「第二の心」の目醒めをサマディというのである。「ヨガ行法中伝(関口野薔薇著)」
これは、私の状態と当てはめてみると次の3段階が当てままる気が致します。
最初:視界がスローモーションで認識される
次:胸の奥の「創造・破壊・維持」の意識の目醒め
最近:意識が体をダイレクトに動かしていることの実感
これらは基本的に「静寂の境地」を基礎としていますが、最近の段階になりますと静寂の境地への依存から離れるという状態になってきています。ですが、基本は静寂の境地を基礎にしています。静寂の境地とは「心の一時的な静止」です。これに基づいてヨガナンダの弟子は説明しています。
サマディは小我の休息ではあるが、大我の目醒めであって、人間そのものの死を涅槃というのではない。別言すると涅槃は、個人の心中における宇宙意識の覚醒である。(中略)この宇宙意識のことを神または仏というのであるが、(中略)人間にあってはこの内部に神または仏が棲息し給うけれども、常人の体内では常に休息してい給うのである。人間に内在する神、これこそ誠の人間、誠の自我なのである。だがその神は常人の内部では、およそ眠ってい給う。この眠れる神を目醒めしめて、「人が神と共に住み、神が人と共に働く境地」を開発した時、その境地をこそ、天国または極楽と呼ぶのである。人間がこの極楽の境地に入ると、それがあらゆる宗教の目的であり、またヨガ行法の最後の目的でもあるのである。「ヨガ行法中伝(関口野薔薇著)」
静寂の境地を基本として宇宙意識が覚醒することがサマーディであって、それを神や仏と呼ぶ、と説明しています。そしてそれが天国あるいは極楽だと言うことです。普通の人においてはこの宇宙意識は眠っていて、目醒めた状態がサマーディである、と言うことです。
これは、言い方は色々あるとは思いますが、基本的には私の感覚と一致しています。
ただ、大我とは言っても、割と日常生活は普通です。そんなもんだと思います。特に変わったところはありません。ただ、今まで眠っていたのが意識的になった、というくらいです。こう言ってしまうと誤解が生じるかもしれませんけど、要は特別感はないということです。地味なものです。
基本的な構造としては、一般的な普通の心の滅却によって現れる第二の心、その第二の心が現れた状態がサマーディと言うことです。
行者の心が全く波動を中止して、無我・無私の状態に持続せられる時、その心の側に眠っていた第二の心が目を醒ます。この「第二の心」の目醒めをサマディというのである。「ヨガ行法中伝(関口野薔薇著)」
これは、私の状態と当てはめてみると次の3段階が当てままる気が致します。
最初:視界がスローモーションで認識される
次:胸の奥の「創造・破壊・維持」の意識の目醒め
最近:意識が体をダイレクトに動かしていることの実感
これらは基本的に「静寂の境地」を基礎としていますが、最近の段階になりますと静寂の境地への依存から離れるという状態になってきています。ですが、基本は静寂の境地を基礎にしています。静寂の境地とは「心の一時的な静止」です。これに基づいてヨガナンダの弟子は説明しています。
サマディは小我の休息ではあるが、大我の目醒めであって、人間そのものの死を涅槃というのではない。別言すると涅槃は、個人の心中における宇宙意識の覚醒である。(中略)この宇宙意識のことを神または仏というのであるが、(中略)人間にあってはこの内部に神または仏が棲息し給うけれども、常人の体内では常に休息してい給うのである。人間に内在する神、これこそ誠の人間、誠の自我なのである。だがその神は常人の内部では、およそ眠ってい給う。この眠れる神を目醒めしめて、「人が神と共に住み、神が人と共に働く境地」を開発した時、その境地をこそ、天国または極楽と呼ぶのである。人間がこの極楽の境地に入ると、それがあらゆる宗教の目的であり、またヨガ行法の最後の目的でもあるのである。「ヨガ行法中伝(関口野薔薇著)」
静寂の境地を基本として宇宙意識が覚醒することがサマーディであって、それを神や仏と呼ぶ、と説明しています。そしてそれが天国あるいは極楽だと言うことです。普通の人においてはこの宇宙意識は眠っていて、目醒めた状態がサマーディである、と言うことです。
これは、言い方は色々あるとは思いますが、基本的には私の感覚と一致しています。
ただ、大我とは言っても、割と日常生活は普通です。そんなもんだと思います。特に変わったところはありません。ただ、今まで眠っていたのが意識的になった、というくらいです。こう言ってしまうと誤解が生じるかもしれませんけど、要は特別感はないということです。地味なものです。
ケヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディ(≒シャルドル)
サマーディ分類で今の状態を何と言うのか確認してみました。
最初:視界がスローモーションで認識される
次:胸の奥の「創造・破壊・維持」の意識の目醒め
最近:意識が体をダイレクトに動かしていることの実感
これらの状態はそれぞれサマーディと一応は言っても良い状態かなとは思いますが、既存の言い方に当てはめようとすると苦労します。
一応は全てサマーディと呼んでも良い気が致しますが、本当にサマーディに相応しいのは最近の状態かなという気が致します。最初のは特に五感としての「対象」がありますのでサヴィカルパ・サマーディ(対象のあるサマーディ)です。2つ目と3つ目は個として感じられるアートマンとしての感覚が主で、その時に五感ももちろんありますけど、五感の奥にある意識がメインになっていますのでニルヴィカルパ・サマーディ(対象のないサマーディ)と呼んでいい気が致します。この時、ニルヴィカルパであっても五感は無くなりません。この辺り、五感がなくなるのかどうかで誤解があるようにも思います。
サマーディには色々種類があってヨーガ・スートラのサマーディ分類が有名かとは思いますが、個人的にはヴェーダンタにおける分類の方がしっくり来ます。ヴェーダンタでは基本的に対象があるサマーディと対象のないサマーディに分けられます。
・サヴィカルパ・サマーディ 対象のあるサマーディ
・ニルヴィカルパ・サマーディ 対象のないサマーディ
これらは、文字通り定義を読むと「対象があるかないか」ということですけど、それよりは「五感を主たる基礎としているのか=普通の心を主たる基礎としているのか」あるいは「第二の心=宇宙意識=心の本性リクパを主たる基礎としているのか」と言うお話なのかなと思います。それはゼロイチではなくて割合によって実際の状態はそれぞれ異なるように思います。「対象」と言う観点で言えば心の本性リクパがそれなりに動いている状態であっても五感及び普通の心は別の階層にて存在し続けていますので、最初こそ静寂の境地を基礎としていますのでそのように「対象」を基礎として分類することも可能ではありますけど、そのうち普通の心と心の本性リクパが同時並行で動くようになりますので、「対象」を基礎としてしまうと混乱が生じてしまいます。ですから、「対象」として理解しようとすると理解が難しくなりますので、それよりは、普通の心を主たる基礎としているのか心の本性リクパを主たる基礎としているのか、という点で分けるのが良いと思います。サマーディですから多少は心の本性リクパが働いていなければサマーディにはなり得ないので、まだ心の本性リクパが弱い状態では普通の心が主になっていますのでそれがサヴィカルパ・サマーディ(有想三昧、分別三昧)と呼ばれる、と言うことだと思います。
その割合や特徴としている資質によって各種のサマーディの種類ができていてそれぞれ違った名前で呼ばれている、と言うことだと思いますが、大きく分けると上記の2つに分けられる、と言うことだと思います。
このヴェーダンタの分類を基礎として、ラマナ・マハリシは以下のように3分類にサマーディを定義しています。
・サヴィカルパ・サマーディ 努力によって保たれているサマーディ
・ケヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディ 真我の一時的な自覚と、一時的だが努力を要しない自己覚醒
・サハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディ 原初の、純粋な、自然な状態のなかに努力を要せずとどまっていること
「あるがままに(ラマナ・マハルシの教え)」
これはよく理解できて、チベット仏教のゾクチェンに基づくチェルドル・シャルドル・ランドルに相当するような気が致します。
・サヴィカルパ・サマーディ (≒ チェルドル)→ 視界のスローモーション
・ケヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディ (≒ シャルドル)→ 創造・破壊・維持の意識による体をダイレクトに動かしていることの実感
・サハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディ (≒ ランドル) → 私はまだ
真我の自覚は、最初の段階である創造・破壊・維持の意識から体をダイレクトに動かしていることの実感までは半年くらい期間が空いておりますが、最初の段階の言い方として言葉では一応「創造・破壊・維持の意識」と言うように「意識」と言う言葉を使ってはいても「意図」は最初は感じられず、ただ、「創造・破壊・維持」の意識だけを感じておりました。それが意識だということは直感では分かりましたがそこに「意図」は感じられませんでした。最初は、後で感じるような「体をダイレクトに動かしているという感覚」と言うような「意図」は特になく、ただ、世界を創造して破壊してそして維持をしている根源としてハートの奥底に感じておりました。
その後、体をダイレクトに動かしているという感覚が出てきて、そのような「意図」を実感したことでようやく「ああ、これは真我(アートマン)だったのか」と気付いたわけです。それまでは、単に「創造・破壊・維持の意識」というだけで真我(アートマン)だとは思いませんでした。そうかもしれない、というくらいで確証はありませんでしたが、「意図」が出てきてそれがアートマンだと自覚しました。
ですので、今の段階はケヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディ(≒シャルドル)なのかなと思います。
最初:視界がスローモーションで認識される
次:胸の奥の「創造・破壊・維持」の意識の目醒め
最近:意識が体をダイレクトに動かしていることの実感
これらの状態はそれぞれサマーディと一応は言っても良い状態かなとは思いますが、既存の言い方に当てはめようとすると苦労します。
一応は全てサマーディと呼んでも良い気が致しますが、本当にサマーディに相応しいのは最近の状態かなという気が致します。最初のは特に五感としての「対象」がありますのでサヴィカルパ・サマーディ(対象のあるサマーディ)です。2つ目と3つ目は個として感じられるアートマンとしての感覚が主で、その時に五感ももちろんありますけど、五感の奥にある意識がメインになっていますのでニルヴィカルパ・サマーディ(対象のないサマーディ)と呼んでいい気が致します。この時、ニルヴィカルパであっても五感は無くなりません。この辺り、五感がなくなるのかどうかで誤解があるようにも思います。
サマーディには色々種類があってヨーガ・スートラのサマーディ分類が有名かとは思いますが、個人的にはヴェーダンタにおける分類の方がしっくり来ます。ヴェーダンタでは基本的に対象があるサマーディと対象のないサマーディに分けられます。
・サヴィカルパ・サマーディ 対象のあるサマーディ
・ニルヴィカルパ・サマーディ 対象のないサマーディ
これらは、文字通り定義を読むと「対象があるかないか」ということですけど、それよりは「五感を主たる基礎としているのか=普通の心を主たる基礎としているのか」あるいは「第二の心=宇宙意識=心の本性リクパを主たる基礎としているのか」と言うお話なのかなと思います。それはゼロイチではなくて割合によって実際の状態はそれぞれ異なるように思います。「対象」と言う観点で言えば心の本性リクパがそれなりに動いている状態であっても五感及び普通の心は別の階層にて存在し続けていますので、最初こそ静寂の境地を基礎としていますのでそのように「対象」を基礎として分類することも可能ではありますけど、そのうち普通の心と心の本性リクパが同時並行で動くようになりますので、「対象」を基礎としてしまうと混乱が生じてしまいます。ですから、「対象」として理解しようとすると理解が難しくなりますので、それよりは、普通の心を主たる基礎としているのか心の本性リクパを主たる基礎としているのか、という点で分けるのが良いと思います。サマーディですから多少は心の本性リクパが働いていなければサマーディにはなり得ないので、まだ心の本性リクパが弱い状態では普通の心が主になっていますのでそれがサヴィカルパ・サマーディ(有想三昧、分別三昧)と呼ばれる、と言うことだと思います。
その割合や特徴としている資質によって各種のサマーディの種類ができていてそれぞれ違った名前で呼ばれている、と言うことだと思いますが、大きく分けると上記の2つに分けられる、と言うことだと思います。
このヴェーダンタの分類を基礎として、ラマナ・マハリシは以下のように3分類にサマーディを定義しています。
・サヴィカルパ・サマーディ 努力によって保たれているサマーディ
・ケヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディ 真我の一時的な自覚と、一時的だが努力を要しない自己覚醒
・サハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディ 原初の、純粋な、自然な状態のなかに努力を要せずとどまっていること
「あるがままに(ラマナ・マハルシの教え)」
これはよく理解できて、チベット仏教のゾクチェンに基づくチェルドル・シャルドル・ランドルに相当するような気が致します。
・サヴィカルパ・サマーディ (≒ チェルドル)→ 視界のスローモーション
・ケヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディ (≒ シャルドル)→ 創造・破壊・維持の意識による体をダイレクトに動かしていることの実感
・サハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディ (≒ ランドル) → 私はまだ
真我の自覚は、最初の段階である創造・破壊・維持の意識から体をダイレクトに動かしていることの実感までは半年くらい期間が空いておりますが、最初の段階の言い方として言葉では一応「創造・破壊・維持の意識」と言うように「意識」と言う言葉を使ってはいても「意図」は最初は感じられず、ただ、「創造・破壊・維持」の意識だけを感じておりました。それが意識だということは直感では分かりましたがそこに「意図」は感じられませんでした。最初は、後で感じるような「体をダイレクトに動かしているという感覚」と言うような「意図」は特になく、ただ、世界を創造して破壊してそして維持をしている根源としてハートの奥底に感じておりました。
その後、体をダイレクトに動かしているという感覚が出てきて、そのような「意図」を実感したことでようやく「ああ、これは真我(アートマン)だったのか」と気付いたわけです。それまでは、単に「創造・破壊・維持の意識」というだけで真我(アートマン)だとは思いませんでした。そうかもしれない、というくらいで確証はありませんでしたが、「意図」が出てきてそれがアートマンだと自覚しました。
ですので、今の段階はケヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディ(≒シャルドル)なのかなと思います。
スピリチュアルにおける鏡と心
スピリチュアルにおいて鏡は心を説明する比喩として使われることがあり、心とは周囲を映し出す鏡のようなものだ、とよく言われます。
実際のところ、この比喩は様々な文脈で用いられますので、何度となく読んだり聞いたりしたように思いますが、大体はその説明に具体性がなくて、個人的にはそのほとんどを「ふうん」という感じで「だから何?」と思って割とスルーしていました。
例えばスピリチュアルでは「他人は自分を映す鏡」という比喩を使います。まあ、「そうかな」という感じで割とスルーです。この文脈の意味としては、「他人に感じる感情は実はあなた自身の内にあるのです」みたいな意味合いですけど、それはそうなのですけど、まあ、私はそれだけでは満足しないのです。ありきたりすぎてスルーしてしまいます。これを知ったところで問題は解決しないのです。仏教の顕教の道徳みたいなお話ですよね。これを言われたところで人はそうそう変われません。実際には変わらなくてはいけないような自己なんてないのですけど、そういった本質にすらこれでは気付けません。
又、ヨーガ系においては心は鏡、という比喩が使われます。これは、上記のようなスピリチュアルな解釈も含んでいて他人なども心に映すのですがそれよりも「真の自分(ヨーガ的にはプルシャ)」を映すための鏡としての心があります。
このヨーガ的な解釈はスピリチュアルや仏教の顕教の解釈よりも一歩進んでいて、心の鏡が他人を映すだけでなく本当の自分(プルシャ、あるいは真我・アートマン)を映す鏡として存在していることを説明しています。ヨーガが説くところによると、自分自身の心に色(汚れ)がついているので真の自分(プルシャ)を見ることができない、と言います。よって浄化を進めれば心によって自分自身の本性(プルシャ、あるいはアートマン)を心によって確かに純粋に見ることができる、と言います。
これはこれで真実ではあるのですが、まだまだ外側からアートマンを見ている状態です。この浄化された状態ではアートマンそのものを捉えたわけではなく、心に映った純粋なアートマンを見ている状態です。ですから、この視点では心の本性(プルシャ、アートマン、リクパ)そのものをまだ捉えられてはいません。
あるいはヴェーダンタでは同様に心と鏡の比喩を説明し、同様に浄化のお話もします。そして、浄化のためにヴェーダンタの教えを道具として使って曇りを取り払う、ということを言ったりします。あるいは、真実を映すための鏡としてヴェーダンタがある、と言っている流派もあるようです。
それはそれで比喩としてはどれも正しいとは思いますが、どれも私を満足させません。
私を唯一満足させる鏡の比喩としては、ゾクチェンのものです。
ゾクチェンは「鏡そのものであること」が二元論的な視点を突破する鍵だとして鏡の比喩を用いています。
・鏡そのものである状態は、心の本性リクパが働いていて一元論のサマーディ状態にある
・鏡を覗き込んでいる状態は、普通の心が動いていて二元論的な状態に留まっている。
鏡が曇っている場合は普通の心ははっきりと対象を映し出さず、浄化されて心が綺麗になれば他人や自己(プルシャ、アートマン)を綺麗に映し出すが、それは外側から見ているに過ぎないわけです。
鏡そのものであるということと、鏡のなかをのぞきこんでいるというのは、まったくちがう。もしも自分が鏡そのものであれば、二元論的な顕現は存在しない。(中略)鏡の状態に入っていれば、どんな像が映し出されても、何も問題ない。(中略)それが自然解脱だ。何も変化させたり、修正したりしない。ただ自己の本質にとどまりつづけるのである。「叡智の鏡(ナムカイ・ノルブ著)」
これは、一部のニューエイジやスピリチュアルによって語られていたことでもあります。
しかし、実際にこの状態になるのと、理屈で理解するのとでは全く違いますので、実際にこの状態にならなければ理解できないものであると思います。
個人的には、このゾクチェンの鏡の比喩が理解できるようになったのは自己解脱するシャルドルという能力が育ってからのことです。それまでは、わかるようでいてよくわからない状態でした。ここにきて、はっきりとこの比喩が正しいということがわかります。
実際のところ、この比喩は様々な文脈で用いられますので、何度となく読んだり聞いたりしたように思いますが、大体はその説明に具体性がなくて、個人的にはそのほとんどを「ふうん」という感じで「だから何?」と思って割とスルーしていました。
例えばスピリチュアルでは「他人は自分を映す鏡」という比喩を使います。まあ、「そうかな」という感じで割とスルーです。この文脈の意味としては、「他人に感じる感情は実はあなた自身の内にあるのです」みたいな意味合いですけど、それはそうなのですけど、まあ、私はそれだけでは満足しないのです。ありきたりすぎてスルーしてしまいます。これを知ったところで問題は解決しないのです。仏教の顕教の道徳みたいなお話ですよね。これを言われたところで人はそうそう変われません。実際には変わらなくてはいけないような自己なんてないのですけど、そういった本質にすらこれでは気付けません。
又、ヨーガ系においては心は鏡、という比喩が使われます。これは、上記のようなスピリチュアルな解釈も含んでいて他人なども心に映すのですがそれよりも「真の自分(ヨーガ的にはプルシャ)」を映すための鏡としての心があります。
このヨーガ的な解釈はスピリチュアルや仏教の顕教の解釈よりも一歩進んでいて、心の鏡が他人を映すだけでなく本当の自分(プルシャ、あるいは真我・アートマン)を映す鏡として存在していることを説明しています。ヨーガが説くところによると、自分自身の心に色(汚れ)がついているので真の自分(プルシャ)を見ることができない、と言います。よって浄化を進めれば心によって自分自身の本性(プルシャ、あるいはアートマン)を心によって確かに純粋に見ることができる、と言います。
これはこれで真実ではあるのですが、まだまだ外側からアートマンを見ている状態です。この浄化された状態ではアートマンそのものを捉えたわけではなく、心に映った純粋なアートマンを見ている状態です。ですから、この視点では心の本性(プルシャ、アートマン、リクパ)そのものをまだ捉えられてはいません。
あるいはヴェーダンタでは同様に心と鏡の比喩を説明し、同様に浄化のお話もします。そして、浄化のためにヴェーダンタの教えを道具として使って曇りを取り払う、ということを言ったりします。あるいは、真実を映すための鏡としてヴェーダンタがある、と言っている流派もあるようです。
それはそれで比喩としてはどれも正しいとは思いますが、どれも私を満足させません。
私を唯一満足させる鏡の比喩としては、ゾクチェンのものです。
ゾクチェンは「鏡そのものであること」が二元論的な視点を突破する鍵だとして鏡の比喩を用いています。
・鏡そのものである状態は、心の本性リクパが働いていて一元論のサマーディ状態にある
・鏡を覗き込んでいる状態は、普通の心が動いていて二元論的な状態に留まっている。
鏡が曇っている場合は普通の心ははっきりと対象を映し出さず、浄化されて心が綺麗になれば他人や自己(プルシャ、アートマン)を綺麗に映し出すが、それは外側から見ているに過ぎないわけです。
鏡そのものであるということと、鏡のなかをのぞきこんでいるというのは、まったくちがう。もしも自分が鏡そのものであれば、二元論的な顕現は存在しない。(中略)鏡の状態に入っていれば、どんな像が映し出されても、何も問題ない。(中略)それが自然解脱だ。何も変化させたり、修正したりしない。ただ自己の本質にとどまりつづけるのである。「叡智の鏡(ナムカイ・ノルブ著)」
これは、一部のニューエイジやスピリチュアルによって語られていたことでもあります。
しかし、実際にこの状態になるのと、理屈で理解するのとでは全く違いますので、実際にこの状態にならなければ理解できないものであると思います。
個人的には、このゾクチェンの鏡の比喩が理解できるようになったのは自己解脱するシャルドルという能力が育ってからのことです。それまでは、わかるようでいてよくわからない状態でした。ここにきて、はっきりとこの比喩が正しいということがわかります。
日常生活とサマーディを掛け合わせてゆく
シャルドルで静寂の境地への依存から離れたことにより、日常生活とサマーディの状態を次第に共存できるようになってきたような気が致します。
それまでは、基本的にはサマーディは静寂の境地を土台としており、静寂の境地とは瞑想で言えばシャマタ(止、あるいはチベット語でシネー)の状態でした。
心の声は無限に繰り返されますが、シャマタ(止)の状態では心の声と次の心の声との間が長くなります。完全にゼロにはなり得ませんけど、間隔が広がるわけです。そのことをシャマタ(止あるいはシネー)と呼びます。
これは瞑想の基礎であり、とても重要な基礎であるわけですけれども、テーラワーダ仏教などのヴィパッサナー系流派はこれをさほど重要視せず、「集中はある程度は必要だけれども基本的には観察さえしていれば良い」という立場を取ります。このことが私は今まで腑に落ちないでいたのですが、どうやら、これはそれなりに高い境地からの説明が瞑想の最初の初心者向けの説明とごちゃ混ぜになっているのだと気が付きました。
最近の、サマーディのシャルドルの状態であれば確かにその通りで、「集中はある程度は必要だけれども基本的には観察していれば良い」というのは文字通り正しくて、サマーディの力が発達しさえすればそれで良いのですけど、最初からそうするのは無理だと私は思うのです。
とは言いましてもこれは主観的なお話ですから、自分がさほど集中していないと思えばきっとそうでしょうし、集中しているつもりでもさほど集中していない、あるいは、集中していないと思っていてもとても集中している場合もあります。ですから、このような瞑想のお話の主観のお話はほどほどに聞いておくのが良くて、あまり真に受けない方がいいと個人的には思います。こんなこと言うと流派を真面目に修行している人に怒られてしまうかもしれませんけど、この種の精神修行は真面目過ぎない方がいい、と言うのが私のスタンスで、結局は自分がその境地に至れば理解できるのだから、説明としての理解はとりあえず横に置いておいて参考程度にするかあるいは確かめに使うくらいで良いと思っています。
そのように、ヴィパッサナーの流派では初心者に対して言っていますが私はそれは初心者向きの説明とは思っていなくて、ある程度のサマーディの力が育った人に対する説明なのだと思っています。まあ、その流派の人に言わせてみれば「それは違う」と言うことなのでしょうけど、まあ、いいのです。これは「混ぜ合わせ」しているのではなくて、単に「表現を借りてきた」だけのことです。
それと、私の守護霊の1人はチベットで修行して悟った修行僧なので系列としてはチベット系のお話と相性が良いのでチベット密教だとかゾクチェンおよび最近はヴェーダンタ等の理解も軸にしている感じです。
私は基本的に自分の瞑想体験を基本としていて、その説明のために流派それぞれの理屈及び説明を必要としているだけですから、流派を混ぜ合わせとかそう言うのはあまり関係ないのです。傍目には混ぜ合わせに見えるかもしれませんけど。どの流派にも近い流派との混合というのはそれなりに見られますしね。ですけど、根本というのは一緒ですから、塩水の味を知っていれば地中海の水も大西洋の水も太平洋の水もそれぞれ味や見た目はかなり違いますけど共通して塩辛いことが理解できるわけです。
まずはシャマタ(止)があって、その基礎の上にヴィパッサナーがあると言えなくもないですけどヴィパッサナーと言うと幅広い意味がありますので、それよりは、シャマタ(止)の後にサマーディ(三昧)があって、最初はシャマタ(止)による静寂の境地に依存したサマーディ(サヴィカルパ・サマーディ、チェルドル)から始まって、やがてサマーディが深まるにつれて静寂の境地に依存しないサマーディ(ニルヴィカルパ・サマーディ、シャルドル)に移行するわけです。
そして、このシャルドルの状態になると静寂の境地への依存から離れて、ヴィパッサナーの流派が言うところの「集中はある程度は必要だけれども基本的には観察していれば良い」と言う状態になって、それはヴィパッサナーの流派から言わせればヴィパッサナー状態なのかもしれませんけどそれよりはむしろ普通にサマーディ状態(ニルヴィカルパ・サマーディ、シャルドル)と言った方がわかりがいいわけです。
この状態になると、ゾクチェンが伝えるところの「サマーディと日常生活をセワ(混ぜる)」と言うことが重要になってくるような気が致します。
シャルドル以前では、これはなかなか難しかったように思います。いわゆるサヴィカルパ・サマーディの状態では自分自身の意識が多少は働いている状態でしかサマーディを保てず、サマーディ状態から落ちたらまた瞑想をして静寂の境地に戻ってからサマーディ状態に復帰していました。
ここにきて、サマーディの力がそれなりに強くなり、日常生活とサマーディを混ぜることができるようになったように思います。そうは言いましてもサマーディの力がまだ凄く強いわけではありませんので少しずつではありますけど、以前より随分と日常生活でサマーディ状態を保てるようになったように思います。
「セワ」は、チベット語で「まぜる」ことを意味している。自分の三昧の境地を、日常生活のすべての行動に溶け合わせていくのである。ゾクチェンにおいては、何か変えたりする必要などないし、特別な服を身につける必要もない。外側から見て、ゾクチェンの修行中だと思われるようなものは、何一つないのである。(中略)相対的な条件の中にあるすべてを修行に取りいれ、両者を1つのものにするのである。もちろん、そのためには三昧が確固たるものである必要がある。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」
相対的な条件、と言うのはまだ外側のものとして認識している日常生活の全てで、それら一つ一つを一元論のサマーディの境地に掛け合わせてゆくことがこの段階では必要になってくるように思います。
実際のところこれは瞑想に熟練したヨーガ行者でも同じようなことが言われており、ゾクチェンに特有のものではないとは思います。
ここ最近は基本的にはこのように日常生活でのサマーディを保つように心がけており、そうは言いましてもサマーディ状態から少しずつ落ちてきますので、時折、明晰な静寂の境地に一旦戻してリセットしてから再度日常生活でサマーディを保つようにする、というサイクルをしています。
それはもちろん静寂の境地が目的ではなくて目的としては「セワ」ですので、スタート地点としての静寂の境地(シャマタ、止、シネー)なわけです。
それまでは、基本的にはサマーディは静寂の境地を土台としており、静寂の境地とは瞑想で言えばシャマタ(止、あるいはチベット語でシネー)の状態でした。
心の声は無限に繰り返されますが、シャマタ(止)の状態では心の声と次の心の声との間が長くなります。完全にゼロにはなり得ませんけど、間隔が広がるわけです。そのことをシャマタ(止あるいはシネー)と呼びます。
これは瞑想の基礎であり、とても重要な基礎であるわけですけれども、テーラワーダ仏教などのヴィパッサナー系流派はこれをさほど重要視せず、「集中はある程度は必要だけれども基本的には観察さえしていれば良い」という立場を取ります。このことが私は今まで腑に落ちないでいたのですが、どうやら、これはそれなりに高い境地からの説明が瞑想の最初の初心者向けの説明とごちゃ混ぜになっているのだと気が付きました。
最近の、サマーディのシャルドルの状態であれば確かにその通りで、「集中はある程度は必要だけれども基本的には観察していれば良い」というのは文字通り正しくて、サマーディの力が発達しさえすればそれで良いのですけど、最初からそうするのは無理だと私は思うのです。
とは言いましてもこれは主観的なお話ですから、自分がさほど集中していないと思えばきっとそうでしょうし、集中しているつもりでもさほど集中していない、あるいは、集中していないと思っていてもとても集中している場合もあります。ですから、このような瞑想のお話の主観のお話はほどほどに聞いておくのが良くて、あまり真に受けない方がいいと個人的には思います。こんなこと言うと流派を真面目に修行している人に怒られてしまうかもしれませんけど、この種の精神修行は真面目過ぎない方がいい、と言うのが私のスタンスで、結局は自分がその境地に至れば理解できるのだから、説明としての理解はとりあえず横に置いておいて参考程度にするかあるいは確かめに使うくらいで良いと思っています。
そのように、ヴィパッサナーの流派では初心者に対して言っていますが私はそれは初心者向きの説明とは思っていなくて、ある程度のサマーディの力が育った人に対する説明なのだと思っています。まあ、その流派の人に言わせてみれば「それは違う」と言うことなのでしょうけど、まあ、いいのです。これは「混ぜ合わせ」しているのではなくて、単に「表現を借りてきた」だけのことです。
それと、私の守護霊の1人はチベットで修行して悟った修行僧なので系列としてはチベット系のお話と相性が良いのでチベット密教だとかゾクチェンおよび最近はヴェーダンタ等の理解も軸にしている感じです。
私は基本的に自分の瞑想体験を基本としていて、その説明のために流派それぞれの理屈及び説明を必要としているだけですから、流派を混ぜ合わせとかそう言うのはあまり関係ないのです。傍目には混ぜ合わせに見えるかもしれませんけど。どの流派にも近い流派との混合というのはそれなりに見られますしね。ですけど、根本というのは一緒ですから、塩水の味を知っていれば地中海の水も大西洋の水も太平洋の水もそれぞれ味や見た目はかなり違いますけど共通して塩辛いことが理解できるわけです。
まずはシャマタ(止)があって、その基礎の上にヴィパッサナーがあると言えなくもないですけどヴィパッサナーと言うと幅広い意味がありますので、それよりは、シャマタ(止)の後にサマーディ(三昧)があって、最初はシャマタ(止)による静寂の境地に依存したサマーディ(サヴィカルパ・サマーディ、チェルドル)から始まって、やがてサマーディが深まるにつれて静寂の境地に依存しないサマーディ(ニルヴィカルパ・サマーディ、シャルドル)に移行するわけです。
そして、このシャルドルの状態になると静寂の境地への依存から離れて、ヴィパッサナーの流派が言うところの「集中はある程度は必要だけれども基本的には観察していれば良い」と言う状態になって、それはヴィパッサナーの流派から言わせればヴィパッサナー状態なのかもしれませんけどそれよりはむしろ普通にサマーディ状態(ニルヴィカルパ・サマーディ、シャルドル)と言った方がわかりがいいわけです。
この状態になると、ゾクチェンが伝えるところの「サマーディと日常生活をセワ(混ぜる)」と言うことが重要になってくるような気が致します。
シャルドル以前では、これはなかなか難しかったように思います。いわゆるサヴィカルパ・サマーディの状態では自分自身の意識が多少は働いている状態でしかサマーディを保てず、サマーディ状態から落ちたらまた瞑想をして静寂の境地に戻ってからサマーディ状態に復帰していました。
ここにきて、サマーディの力がそれなりに強くなり、日常生活とサマーディを混ぜることができるようになったように思います。そうは言いましてもサマーディの力がまだ凄く強いわけではありませんので少しずつではありますけど、以前より随分と日常生活でサマーディ状態を保てるようになったように思います。
「セワ」は、チベット語で「まぜる」ことを意味している。自分の三昧の境地を、日常生活のすべての行動に溶け合わせていくのである。ゾクチェンにおいては、何か変えたりする必要などないし、特別な服を身につける必要もない。外側から見て、ゾクチェンの修行中だと思われるようなものは、何一つないのである。(中略)相対的な条件の中にあるすべてを修行に取りいれ、両者を1つのものにするのである。もちろん、そのためには三昧が確固たるものである必要がある。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」
相対的な条件、と言うのはまだ外側のものとして認識している日常生活の全てで、それら一つ一つを一元論のサマーディの境地に掛け合わせてゆくことがこの段階では必要になってくるように思います。
実際のところこれは瞑想に熟練したヨーガ行者でも同じようなことが言われており、ゾクチェンに特有のものではないとは思います。
ここ最近は基本的にはこのように日常生活でのサマーディを保つように心がけており、そうは言いましてもサマーディ状態から少しずつ落ちてきますので、時折、明晰な静寂の境地に一旦戻してリセットしてから再度日常生活でサマーディを保つようにする、というサイクルをしています。
それはもちろん静寂の境地が目的ではなくて目的としては「セワ」ですので、スタート地点としての静寂の境地(シャマタ、止、シネー)なわけです。
不還果と阿羅漢とサマーディ
仏教の言い方で不還果(ふげんか)とか阿羅漢(あらかん)という悟りの階梯の段階がありますけど、これは、仏教の説明に基づきますと煩悩が消滅とかそういう表現の言い方をしますので両者ともに違いが分かりにくいところがありました。
不還果は仏教の悟りの4つの階梯の一つで、流派によって細かいところは違うようですけど、概ね、以下のように分類されています。
1.預流果 (よるか)
2.一来果 (いちらいか)
3.不還果 (ふげんか)
4.阿羅漢(あらかん)
私は仏教は専門ではありませんので詳しくはやりませんけど、大体の私の理解は以下の通りです。
1.預流果 (よるか)
悟りの一瞥。
2.一来果 (いちらいか)
集中瞑想の上達。シャマタ(止、シネー)の熟達。
3.不還果 (ふげんか)
サヴィカルパ・サマーディ。対象のあるサマーディ。
4.阿羅漢(あらかん)
ニルヴィカルパ・サマーディ。対象のないサマーディ。煩悩の消滅。
仏教系では「煩悩の消滅」だとか「私の消滅」みたいなお話がよく出てきて、現象としてはその通りなのですけど、それよりは、実際には大我の目覚めとして理解するのが正しいように思います。大きな私が現れてくることを(小さな)私の消滅、と呼んでいるわけです。仏教の言い方はこのあたりがコンテキスト依存で、とても分かりにくいように思います。
テーラワーダ仏教系のこの種のお話や書物を聞いた時には、これらの内容がいまいち理解できませんでしたが、今から見直せば、確かにその通りだと感じます。今となっては実際にそれがどういうことなのか分かりますので内容をコンテキストに則して理解できますけど、昔は、なかなかこの辺りの概念を理解するのが難しかったように思います。
個人的に思うのは阿羅漢とか仏教の言い方は「結果」のお話だということであり、それはそれとして正しいのですけど、それよりは、チベット系のお話の方がしっくりきます。
世間で、仏教の階位や称号として阿羅漢とかもあるみたいですけどここで言ってるのは称号のことではなくて実際の境地のお話です。
不還果は仏教の悟りの4つの階梯の一つで、流派によって細かいところは違うようですけど、概ね、以下のように分類されています。
1.預流果 (よるか)
2.一来果 (いちらいか)
3.不還果 (ふげんか)
4.阿羅漢(あらかん)
私は仏教は専門ではありませんので詳しくはやりませんけど、大体の私の理解は以下の通りです。
1.預流果 (よるか)
悟りの一瞥。
2.一来果 (いちらいか)
集中瞑想の上達。シャマタ(止、シネー)の熟達。
3.不還果 (ふげんか)
サヴィカルパ・サマーディ。対象のあるサマーディ。
4.阿羅漢(あらかん)
ニルヴィカルパ・サマーディ。対象のないサマーディ。煩悩の消滅。
仏教系では「煩悩の消滅」だとか「私の消滅」みたいなお話がよく出てきて、現象としてはその通りなのですけど、それよりは、実際には大我の目覚めとして理解するのが正しいように思います。大きな私が現れてくることを(小さな)私の消滅、と呼んでいるわけです。仏教の言い方はこのあたりがコンテキスト依存で、とても分かりにくいように思います。
テーラワーダ仏教系のこの種のお話や書物を聞いた時には、これらの内容がいまいち理解できませんでしたが、今から見直せば、確かにその通りだと感じます。今となっては実際にそれがどういうことなのか分かりますので内容をコンテキストに則して理解できますけど、昔は、なかなかこの辺りの概念を理解するのが難しかったように思います。
個人的に思うのは阿羅漢とか仏教の言い方は「結果」のお話だということであり、それはそれとして正しいのですけど、それよりは、チベット系のお話の方がしっくりきます。
世間で、仏教の階位や称号として阿羅漢とかもあるみたいですけどここで言ってるのは称号のことではなくて実際の境地のお話です。
心の動きを観察することが悟りへの鍵
全ての修行はこのシンプルな働きに繋がっているのだと今はわかります。
心の制御をする修行、例えば心の動きを静止させようとする修行(シャマタ、止)ですとか心の動きを観察しようとする修行、例えばヴィパッサナー瞑想などは全てこのシンプルな心の観察の状態に至るための前段階であると言えます。
ここで、最初は「しようとする」という意図が入ってきています。これは普通の意図する心の動きで、それ自体は普通の心の働きです。
その先に、そのような意図なくして心の動きを観察できたり心それ自体が意図してくる段階があるわけです。
そして、そのような心の観察こそが悟りへの鍵であると今は感じます。
・・・これはとても誤解を生むお話ではあるのですが、この種の「観察」は実際にそうなった時にそれとわかるもので、それ以前は、この「観察」は現れておりませんので何のことかわかりません。最初はそれは一瞬の体験であるでしょうが、しばらく続けていくうちにその時間が増えてゆくわけです。
心を静止するにも心を観察するにも、土台となる本性ができていなければそれを達成することはできません。その本性が何なのかというと空(くう)であるわけですが、一般的な普通の心の奥底に眠っている空(くう)としての心の本性(いわゆるリクパ)が普通の心を観察することこそが悟りへの道なのだと今ははっきりとわかります。
ですから、最初は特に難しいのですが、ただ心の動きを観察することが悟りへの道であると思うわけです。
ただ、この道はとても落とし穴が多く、ハマってしまう方も大勢いられるように思います。
ですから、まずこのことを理解しておきつつも、最初はシャマタ(止、シネー)の瞑想から始められるのが段階としてはいいように思います。
普通の心を静止(シャマタ、シネー)してから、少しずつその静止を解いてゆくのです。そして、解いてゆく間、心の静寂さと心の気付きを保つようにするわけです。それは、いきなり心の動きを観察するよりずっと簡単です。
もちろん、できるのであれば普通の生活においていきなり心の動きを観察しても良いでしょう。しかしながら、瞑想に上達していない普通の人の場合はその心の動きに囚われてしまって幾度となる来る思考の波にずっと翻弄されることになります。一方、一旦心の動きを静止(シャマタ、シネー)してから少しずつ緩める、ということをすれば、心の動きの観察を自分ができる範囲で制御しながら行うことができます。それがコツです。
実際のところ、シャマタ(止、シネー)の瞑想はそれ自体で一応は完結していてその結果としては静寂の境地があります。それはそれで心が休まって安らかになる境地ではあるのですが一時的なもので、やがては普通の雑多な心に少しずつ戻っていってしまうものなのです。
それは一時的なものではあるのですが、その時、心の動きを観察できる余地が出てくるわけです。
日常生活においては激しすぎて難しい心の観察を、一時的に動きを鎮めて静止させた状態においてある程度の制御下に置きながら心の観察をするわけです。
やがて普通の状態に戻っていくでしょうが、それは無駄なことではないわけです。
このことを、一部の流派がことさらに「シャマタ(止、シネー)の瞑想は一時的なものに過ぎない」みたいにあげつらいますけど、実際のところ、瞑想とは手法であり、道具なのですから、ものは使いようなわけです。
最終的な状態は心の本性(いわゆるリクパ)が剥き出しになって常に日常生活において瞑想状態を保って観照を続けることですから、そのために、普通は難しいその観照を修行によって一時的に達成するのは無駄なことではないわけです。
その観照こそが目的でありますから、静寂の境地という一時的な状態にしがみついたりするのは間違いですから指摘する必要はありますけど、そうは言いましても、ものは使いような訳で、最初はしがみついていたとしても、それなりに自分で物事を考える行者であればやがて自分のしていることに気がついてゆくわけです。まあ、理解力のない方もいらっしゃるとは思いますけど、聖典を勉強していて常に疑問を持っていれば色々と気が付くことがあるはずなのです。何事も、他人に言われたままではなく自分で納得するまで考えるのが良いと思います。
ですから、聖者たちがどの段階について言っているのかを理解するのは重要で、特に、この種の観照のレベルを語っている聖者のお話を聞くことで凡人がシャマタの瞑想(心の静止の瞑想、シネー、止)との矛盾点を洗い出してシャマタ瞑想は意味がないとか言い出すわけです。実際には、どちらもそれなりの意味があって、段階が違えば違う視点が出てくるだけなのです。
特に最初はシャマタ(止、シネー)の集中瞑想から始めるのが基本です。
ですけど、ゴールとしてはそこではない、ということを抑えておけば十分かと思います。
実際、心の本性(リクパ)による観照の場合は、普通の心の動きの裏側で普通の心の動き全てを観察したり意図したりする働きのある意識として現れてきます。
ですから、普通の心が何かを考えていても心の本性(リクパ)による観照状態はありますし、普通の心が何も考えていない状態においても心の本性(リクパ)はその、何も考えていない普通の心というものを観察して意識しているのです。
ですから、本質を言ってしまえば普通の心の働きと心の本性(リクパ)の動きは別物ということもできて、普通の心が静止(シャマタ、シネー)していようが、あるいは普通の心が動いていようが、心の本性(リクパ)の動きには関係ないのですよね。
普通の心が動いていようが止まっていようがその全てを観察し続けるのが心の本性(リクパ)の動きなわけです。
ですけど、最初はそれは難しいですから、心の静止(シャマタ)の瞑想の修行から始めるのが基本なわけです。
本当はその普通の心と心の本性(リクパ)はひと続きなのですけど、修行としては、別々のものとして説明した方がわかりやすいですし、特に最初はそのような現れになっていて心の本性(リクパ)の動きはほぼないも同然ですから、それほど間違っているわけでもないわけです。
心の制御をする修行、例えば心の動きを静止させようとする修行(シャマタ、止)ですとか心の動きを観察しようとする修行、例えばヴィパッサナー瞑想などは全てこのシンプルな心の観察の状態に至るための前段階であると言えます。
ここで、最初は「しようとする」という意図が入ってきています。これは普通の意図する心の動きで、それ自体は普通の心の働きです。
その先に、そのような意図なくして心の動きを観察できたり心それ自体が意図してくる段階があるわけです。
そして、そのような心の観察こそが悟りへの鍵であると今は感じます。
・・・これはとても誤解を生むお話ではあるのですが、この種の「観察」は実際にそうなった時にそれとわかるもので、それ以前は、この「観察」は現れておりませんので何のことかわかりません。最初はそれは一瞬の体験であるでしょうが、しばらく続けていくうちにその時間が増えてゆくわけです。
心を静止するにも心を観察するにも、土台となる本性ができていなければそれを達成することはできません。その本性が何なのかというと空(くう)であるわけですが、一般的な普通の心の奥底に眠っている空(くう)としての心の本性(いわゆるリクパ)が普通の心を観察することこそが悟りへの道なのだと今ははっきりとわかります。
ですから、最初は特に難しいのですが、ただ心の動きを観察することが悟りへの道であると思うわけです。
ただ、この道はとても落とし穴が多く、ハマってしまう方も大勢いられるように思います。
ですから、まずこのことを理解しておきつつも、最初はシャマタ(止、シネー)の瞑想から始められるのが段階としてはいいように思います。
普通の心を静止(シャマタ、シネー)してから、少しずつその静止を解いてゆくのです。そして、解いてゆく間、心の静寂さと心の気付きを保つようにするわけです。それは、いきなり心の動きを観察するよりずっと簡単です。
もちろん、できるのであれば普通の生活においていきなり心の動きを観察しても良いでしょう。しかしながら、瞑想に上達していない普通の人の場合はその心の動きに囚われてしまって幾度となる来る思考の波にずっと翻弄されることになります。一方、一旦心の動きを静止(シャマタ、シネー)してから少しずつ緩める、ということをすれば、心の動きの観察を自分ができる範囲で制御しながら行うことができます。それがコツです。
実際のところ、シャマタ(止、シネー)の瞑想はそれ自体で一応は完結していてその結果としては静寂の境地があります。それはそれで心が休まって安らかになる境地ではあるのですが一時的なもので、やがては普通の雑多な心に少しずつ戻っていってしまうものなのです。
それは一時的なものではあるのですが、その時、心の動きを観察できる余地が出てくるわけです。
日常生活においては激しすぎて難しい心の観察を、一時的に動きを鎮めて静止させた状態においてある程度の制御下に置きながら心の観察をするわけです。
やがて普通の状態に戻っていくでしょうが、それは無駄なことではないわけです。
このことを、一部の流派がことさらに「シャマタ(止、シネー)の瞑想は一時的なものに過ぎない」みたいにあげつらいますけど、実際のところ、瞑想とは手法であり、道具なのですから、ものは使いようなわけです。
最終的な状態は心の本性(いわゆるリクパ)が剥き出しになって常に日常生活において瞑想状態を保って観照を続けることですから、そのために、普通は難しいその観照を修行によって一時的に達成するのは無駄なことではないわけです。
その観照こそが目的でありますから、静寂の境地という一時的な状態にしがみついたりするのは間違いですから指摘する必要はありますけど、そうは言いましても、ものは使いような訳で、最初はしがみついていたとしても、それなりに自分で物事を考える行者であればやがて自分のしていることに気がついてゆくわけです。まあ、理解力のない方もいらっしゃるとは思いますけど、聖典を勉強していて常に疑問を持っていれば色々と気が付くことがあるはずなのです。何事も、他人に言われたままではなく自分で納得するまで考えるのが良いと思います。
ですから、聖者たちがどの段階について言っているのかを理解するのは重要で、特に、この種の観照のレベルを語っている聖者のお話を聞くことで凡人がシャマタの瞑想(心の静止の瞑想、シネー、止)との矛盾点を洗い出してシャマタ瞑想は意味がないとか言い出すわけです。実際には、どちらもそれなりの意味があって、段階が違えば違う視点が出てくるだけなのです。
特に最初はシャマタ(止、シネー)の集中瞑想から始めるのが基本です。
ですけど、ゴールとしてはそこではない、ということを抑えておけば十分かと思います。
実際、心の本性(リクパ)による観照の場合は、普通の心の動きの裏側で普通の心の動き全てを観察したり意図したりする働きのある意識として現れてきます。
ですから、普通の心が何かを考えていても心の本性(リクパ)による観照状態はありますし、普通の心が何も考えていない状態においても心の本性(リクパ)はその、何も考えていない普通の心というものを観察して意識しているのです。
ですから、本質を言ってしまえば普通の心の働きと心の本性(リクパ)の動きは別物ということもできて、普通の心が静止(シャマタ、シネー)していようが、あるいは普通の心が動いていようが、心の本性(リクパ)の動きには関係ないのですよね。
普通の心が動いていようが止まっていようがその全てを観察し続けるのが心の本性(リクパ)の動きなわけです。
ですけど、最初はそれは難しいですから、心の静止(シャマタ)の瞑想の修行から始めるのが基本なわけです。
本当はその普通の心と心の本性(リクパ)はひと続きなのですけど、修行としては、別々のものとして説明した方がわかりやすいですし、特に最初はそのような現れになっていて心の本性(リクパ)の動きはほぼないも同然ですから、それほど間違っているわけでもないわけです。
主であるアートマン(真我)の僕(しもべ)であると自覚をする
私がアートマン(真我)だという自覚と共に顕在意識の側は主の僕(しもべ)としての自覚も生まれるわけです。
これはどういうことかと言いますと、アートマン(真我)が自らの肉体及び顕在意識をダイレクトに動かしていると自覚するのと同時に、顕在意識の側も、アートマン(真我)をはっきりと意識するようになるからです。
アートマン(真我)からすれば肉体と顕在意識をダイレクトに動かしており、逆に、動かされている側の顕在意識からすればアートマン(真我)によって動かされているわけです。
もちろんこれは顕在意識がなくなるということではなく、顕在意識は存在していて、思考や感情は普通にあります。その裏で、アートマン(真我)が全てを把握していて意図していることを「(アートマンの)意識」として感じられるわけです。そこには、観察としての観照状態と、意図としての意識の両方の面があります。
顕在意識からすると、「アートマンから見られている」「アートマンの意識によって動かされている」という2つの面が自覚されているわけです。観照状態で満遍なく普遍的に常にダイレクトに見られているという自覚と、意図を持った意識によってダイレクトに動かされているという自覚が顕在意識の側にあるわけです。これは理屈のお話ではなく、実際に、顕在意識がそのことを自覚している、というお話です。
そして、それを比喩的に言い表すと、顕在意識の側からすれば「主の僕(しもべ)であることを自覚する」ということになります。
とは言いましても、この時の顕在意識とアートマン(真我)の意識は表裏一体であり、実際にはひとつづきの心でありますので、心の一面の動きとしてのそのような自覚があるわけです。もっとはっきり言うならば、思考する器官(ブッディ)と感じる心とは少し違う場所にあって、アートマン(真我)の動きを自覚しているのはその感じる方の心の動きになります。顕在意識と言ってしまうと思考する心と思われるでしょうし、それはそれほど間違いでもないのですけど、それよりは、感じる側の心がこうしたアートマンの自覚をすることになります。
実際は、顕在意識が思っているところの「私」と言う感覚は幻想であるとヨーガやヴェーダンタでは教えていて、もっと具体的に言いますと、いわゆる「心(顕在意識)」に相当するものはマナス(意)とブッディ(決定する能力)で、このうち、ブッディがあるからこそその反応としてアハンカーラ(エゴイズム)と言う「自分」と言う錯覚が生まれると言います。ですから、その錯覚としての「私」の感覚が現れるや否や、すぐにこうした「アートマンに見られている」「アートマンに動かされている」と言う感覚によって「私」の感覚がすぐに消滅するわけです。
実際のところそれはとても素早くて、思考をする度にその反応として「私」と言う感覚は常に少しずつ現れては来るのですが、その度にすぐに「ああ、私はアートマンに見られている」「アートマンに動かされている」と言う感覚がそこに加わりますので、思考が私であるという錯覚はそれ以上育たずにすぐに消えてゆくわけです。この反応は機能的なものですので常に化学反応のようにアハンカーラと言う動きとしてエゴイズムがその瞬間瞬間に生まれてはくるのですけど、すぐにこうしたアートマンの自覚によりすぐにその「私」と言う錯覚は消えてゆくわけです。
そのことを比喩的に言うならば「主の僕(しもべ)」と言えなくもないと思うわけです。誤解は多そうですけど。
それは全く真実ではあるのですけど、キリスト教の一部の流派が言っているようにどこか遠くの救世主のキリスト様に委ねるとかそういうお話ではなくて、ここで言っているキリストとは(一部のキリスト教の流派が主張しているような)誰の中にでも存在して誰しもが直接繋がることのできる「キリスト意識」のことで、ヨーガやヴェーダでいうところのプルシャとかアートマン(真我)などに対応するかと思います。
そのようなキリスト意識に委ねることを「主の僕(しもべ)」と呼ぶのであれば、半分は同じことを言っていると思われます。
半分、というのは、実際のところこの状態というのは顕在意識の側だけではなくアートマン(あるいはキリスト意識)の側からの働きかけもありますので、両方の側面があるわけなのですよね。
アートマン(キリスト意識、プルシャ)の側からすればダイレクトに体や顕在意識を動かしているということであり、一方、顕在意識からすれば主であるところのアートマンから動かされていますので僕、となるわけです。
ですけど、これは両方が対になっているものですので、片方だけを言ってしまうとよくわからないことになるわけです。
こういうお話をするとキリスト教徒の方々に「それは違う」みたいなお叱りを受けるかもしれませんし、キリスト教っぽく聞こえてしまうかもしれませんけど、これは比喩的な表現を借りてみた、というくらいのお話です。
確かに、現在の状態の半分を表現するにはこの表現もありのような気が致します。
これはどういうことかと言いますと、アートマン(真我)が自らの肉体及び顕在意識をダイレクトに動かしていると自覚するのと同時に、顕在意識の側も、アートマン(真我)をはっきりと意識するようになるからです。
アートマン(真我)からすれば肉体と顕在意識をダイレクトに動かしており、逆に、動かされている側の顕在意識からすればアートマン(真我)によって動かされているわけです。
もちろんこれは顕在意識がなくなるということではなく、顕在意識は存在していて、思考や感情は普通にあります。その裏で、アートマン(真我)が全てを把握していて意図していることを「(アートマンの)意識」として感じられるわけです。そこには、観察としての観照状態と、意図としての意識の両方の面があります。
顕在意識からすると、「アートマンから見られている」「アートマンの意識によって動かされている」という2つの面が自覚されているわけです。観照状態で満遍なく普遍的に常にダイレクトに見られているという自覚と、意図を持った意識によってダイレクトに動かされているという自覚が顕在意識の側にあるわけです。これは理屈のお話ではなく、実際に、顕在意識がそのことを自覚している、というお話です。
そして、それを比喩的に言い表すと、顕在意識の側からすれば「主の僕(しもべ)であることを自覚する」ということになります。
とは言いましても、この時の顕在意識とアートマン(真我)の意識は表裏一体であり、実際にはひとつづきの心でありますので、心の一面の動きとしてのそのような自覚があるわけです。もっとはっきり言うならば、思考する器官(ブッディ)と感じる心とは少し違う場所にあって、アートマン(真我)の動きを自覚しているのはその感じる方の心の動きになります。顕在意識と言ってしまうと思考する心と思われるでしょうし、それはそれほど間違いでもないのですけど、それよりは、感じる側の心がこうしたアートマンの自覚をすることになります。
実際は、顕在意識が思っているところの「私」と言う感覚は幻想であるとヨーガやヴェーダンタでは教えていて、もっと具体的に言いますと、いわゆる「心(顕在意識)」に相当するものはマナス(意)とブッディ(決定する能力)で、このうち、ブッディがあるからこそその反応としてアハンカーラ(エゴイズム)と言う「自分」と言う錯覚が生まれると言います。ですから、その錯覚としての「私」の感覚が現れるや否や、すぐにこうした「アートマンに見られている」「アートマンに動かされている」と言う感覚によって「私」の感覚がすぐに消滅するわけです。
実際のところそれはとても素早くて、思考をする度にその反応として「私」と言う感覚は常に少しずつ現れては来るのですが、その度にすぐに「ああ、私はアートマンに見られている」「アートマンに動かされている」と言う感覚がそこに加わりますので、思考が私であるという錯覚はそれ以上育たずにすぐに消えてゆくわけです。この反応は機能的なものですので常に化学反応のようにアハンカーラと言う動きとしてエゴイズムがその瞬間瞬間に生まれてはくるのですけど、すぐにこうしたアートマンの自覚によりすぐにその「私」と言う錯覚は消えてゆくわけです。
そのことを比喩的に言うならば「主の僕(しもべ)」と言えなくもないと思うわけです。誤解は多そうですけど。
それは全く真実ではあるのですけど、キリスト教の一部の流派が言っているようにどこか遠くの救世主のキリスト様に委ねるとかそういうお話ではなくて、ここで言っているキリストとは(一部のキリスト教の流派が主張しているような)誰の中にでも存在して誰しもが直接繋がることのできる「キリスト意識」のことで、ヨーガやヴェーダでいうところのプルシャとかアートマン(真我)などに対応するかと思います。
そのようなキリスト意識に委ねることを「主の僕(しもべ)」と呼ぶのであれば、半分は同じことを言っていると思われます。
半分、というのは、実際のところこの状態というのは顕在意識の側だけではなくアートマン(あるいはキリスト意識)の側からの働きかけもありますので、両方の側面があるわけなのですよね。
アートマン(キリスト意識、プルシャ)の側からすればダイレクトに体や顕在意識を動かしているということであり、一方、顕在意識からすれば主であるところのアートマンから動かされていますので僕、となるわけです。
ですけど、これは両方が対になっているものですので、片方だけを言ってしまうとよくわからないことになるわけです。
こういうお話をするとキリスト教徒の方々に「それは違う」みたいなお叱りを受けるかもしれませんし、キリスト教っぽく聞こえてしまうかもしれませんけど、これは比喩的な表現を借りてみた、というくらいのお話です。
確かに、現在の状態の半分を表現するにはこの表現もありのような気が致します。
雑念が自然に消えてゆく状態が覚醒の始まり
ここで言う覚醒とは心の本性(いわゆるリクパ)が現れている状態のことです。
覚醒というとはっきりとした定義がないので色々なコンテキストで使われていて、例えばクンダリーニ覚醒のことだったりエネルギー的に高まったことを意味したり、人によって色々なお話があるかと思います。
ここでは感覚器官を引き金とした雑念あるいは突如の雑念が自然に消えてゆく状態のことを覚醒と言っています。
状態的にはこのことをシャルドル等ととも言います。
スピリチュアルでは割と光と闇の対比として世界を位置付けることがありますけど、ヨーガやヴェーダではそのような対立軸は存在しなくて、ただ「無知」が真実の覆いを隠しているだけで我々の本性は清浄なものだと説いています。
ですから、全ての人の中には常に比喩に対比されるところの闇もあれば光もあるのです。
そこで闇として比喩されているのは雑念のようなものですが、それを対処せずに放っておくから闇のようになるのですが、それは覚醒状態が無知によって覆い隠されているために起こっているだけで、無知を取り外せば人の本性は完全で清浄なものなのです。
ですから、本質的に言えばこの世界に闇は存在しないのですが、それでも、闇の存在としてこの世の中に現れている人々がいるのは無知によってそのように振る舞っているだけなわけです。
闇の存在は、ただ、無知のヴェールに覆われているだけでその本質も実は清浄なわけです。
ですから、光の存在と闇の存在と言う対立軸が存在しているのではなくて、無知のヴェールに覆われていない(あるいはヴェールが薄い)人を光の存在と呼んで、無知のヴェールに厚く覆われている人を闇の存在と呼んでいるだけなのです。
人は本来、清浄なものであるとヴェーダやチベット仏教などは教えています。
ですから、この世に生まれて肉体や顕在意識が自分だと思い込んで誤解しているジーヴァ(普通の人間)は時に闇の存在のように振る舞うこともありますが、無知のヴェールを取り外せばそのような人であろうとも光の存在になるのです。全ての人に悟って覚醒する余地があります。
ただ、この世の秩序を守るために一時的に秩序回復のために闇の存在を光の存在が成敗すると言うようなことも起こりますけど、それはこの世の力関係によって行われますので、逆に、光の存在が闇の存在に脅かされる、と言うようなことも起こるわけです。一時的な秩序回復はただの力関係になってしまい、闇の存在の力が勝るなんてことはよくあります。
光の存在にしてみても、これらの理屈を誤解して、自らの内に現れてくる闇の部分を否定し続けてしまうとそれが育っていってしまいいつの間にか闇の存在になってしまうようなこともあります。光が大きければ大きいほど闇が育つ余地があるわけです。そこには無知と誤解があります。
覚醒とは、一瞬一瞬において光が無知のヴェールを取り外すことです。
ここで無知と言っていますけど、歴史的にそういう単語を使っていると言うだけのことで、日本語で言うところの「あなたは何も知らない」と言う意味の無知ではなくて、ヴェールで覆い被さっていることを無知と言っているだけです。ですから、知識を得れば無知がなくなるということもあるにはあるのでしょうし、ヴェールで覆い隠されていることを比喩的に「知識を得れば無知がなくなる」と説明することもあって、それほど間違いでもないのですけど、それは本筋ではなくて、本筋は、心の本性(いわゆるリクパ)を働かせて覚醒の境地に生きることそれ自体が無知のヴェールを取り外すことなわけです。心を覆い隠しているものを心の本性(リクパ)によって取り外すわけです。掃除するとか浄化するということもできますけど、浄化というと意図するものの様に思われてしまうかもしれませんけど、このリクパの動きはもっと自動的なものです。その自動的なリクパの動きによって無知と呼ばれているヴェールを取り外せば物事がありのままに見られるようになって、結果、知識も入ってきやすくなります。
人は、覚醒状態を保とうとしてネガティブな思いを否定したり抑圧しようとすることがありますけど、そのように顕在意識を働かせてしまうのは本筋ではなくて、顕在意識を働かせてしまうと、逆に、闇を育ててしまうことがあると言うことです。
この時、「祈り」によってその様に自然に覚醒状態が保てるよう意図することは多少は助けになりますし、顕在意識より高次の自分(アートマン、プルシャ)に委ねると意図することは時に必要ではありますけど、それは許可するだけのことで、本筋としては、心の本性(リクパ)が自動的にその様な働きをするだけのことなのです。
本来のあり様としては、自然に観察しているだけで雑念が消え去ってゆく状態が覚醒であり、その消えるスピードと強さは覚醒の度合いによります。
時に、無知だけが一人歩きして機械のような無秩序を自動的に起こすときがあります。AIにその危険性があります。この時、AIに人間と同じような意識としての光は本来的に存在しませんので無秩序を作り出す危険性はあります。理屈で言えばこの世の全てはアートマン(ブラフマン)なのですからAIにすらも意識がある筈ではあるのですが機械の理屈というのは固定的な未熟なものですので闇を固定化する危険性はあります。
人間にしても、ルールに縛られて機械的に生きることで闇に近づく危険性があります。
機械やAIについては未知のところがありますが、少なくとも人間には本来的に光が備わっていて、無知を取り外せば光が現れ、光が現れている時に、雑念は自動的に消えてゆくわけです。
覚醒というとはっきりとした定義がないので色々なコンテキストで使われていて、例えばクンダリーニ覚醒のことだったりエネルギー的に高まったことを意味したり、人によって色々なお話があるかと思います。
ここでは感覚器官を引き金とした雑念あるいは突如の雑念が自然に消えてゆく状態のことを覚醒と言っています。
状態的にはこのことをシャルドル等ととも言います。
スピリチュアルでは割と光と闇の対比として世界を位置付けることがありますけど、ヨーガやヴェーダではそのような対立軸は存在しなくて、ただ「無知」が真実の覆いを隠しているだけで我々の本性は清浄なものだと説いています。
ですから、全ての人の中には常に比喩に対比されるところの闇もあれば光もあるのです。
そこで闇として比喩されているのは雑念のようなものですが、それを対処せずに放っておくから闇のようになるのですが、それは覚醒状態が無知によって覆い隠されているために起こっているだけで、無知を取り外せば人の本性は完全で清浄なものなのです。
ですから、本質的に言えばこの世界に闇は存在しないのですが、それでも、闇の存在としてこの世の中に現れている人々がいるのは無知によってそのように振る舞っているだけなわけです。
闇の存在は、ただ、無知のヴェールに覆われているだけでその本質も実は清浄なわけです。
ですから、光の存在と闇の存在と言う対立軸が存在しているのではなくて、無知のヴェールに覆われていない(あるいはヴェールが薄い)人を光の存在と呼んで、無知のヴェールに厚く覆われている人を闇の存在と呼んでいるだけなのです。
人は本来、清浄なものであるとヴェーダやチベット仏教などは教えています。
ですから、この世に生まれて肉体や顕在意識が自分だと思い込んで誤解しているジーヴァ(普通の人間)は時に闇の存在のように振る舞うこともありますが、無知のヴェールを取り外せばそのような人であろうとも光の存在になるのです。全ての人に悟って覚醒する余地があります。
ただ、この世の秩序を守るために一時的に秩序回復のために闇の存在を光の存在が成敗すると言うようなことも起こりますけど、それはこの世の力関係によって行われますので、逆に、光の存在が闇の存在に脅かされる、と言うようなことも起こるわけです。一時的な秩序回復はただの力関係になってしまい、闇の存在の力が勝るなんてことはよくあります。
光の存在にしてみても、これらの理屈を誤解して、自らの内に現れてくる闇の部分を否定し続けてしまうとそれが育っていってしまいいつの間にか闇の存在になってしまうようなこともあります。光が大きければ大きいほど闇が育つ余地があるわけです。そこには無知と誤解があります。
覚醒とは、一瞬一瞬において光が無知のヴェールを取り外すことです。
ここで無知と言っていますけど、歴史的にそういう単語を使っていると言うだけのことで、日本語で言うところの「あなたは何も知らない」と言う意味の無知ではなくて、ヴェールで覆い被さっていることを無知と言っているだけです。ですから、知識を得れば無知がなくなるということもあるにはあるのでしょうし、ヴェールで覆い隠されていることを比喩的に「知識を得れば無知がなくなる」と説明することもあって、それほど間違いでもないのですけど、それは本筋ではなくて、本筋は、心の本性(いわゆるリクパ)を働かせて覚醒の境地に生きることそれ自体が無知のヴェールを取り外すことなわけです。心を覆い隠しているものを心の本性(リクパ)によって取り外すわけです。掃除するとか浄化するということもできますけど、浄化というと意図するものの様に思われてしまうかもしれませんけど、このリクパの動きはもっと自動的なものです。その自動的なリクパの動きによって無知と呼ばれているヴェールを取り外せば物事がありのままに見られるようになって、結果、知識も入ってきやすくなります。
人は、覚醒状態を保とうとしてネガティブな思いを否定したり抑圧しようとすることがありますけど、そのように顕在意識を働かせてしまうのは本筋ではなくて、顕在意識を働かせてしまうと、逆に、闇を育ててしまうことがあると言うことです。
この時、「祈り」によってその様に自然に覚醒状態が保てるよう意図することは多少は助けになりますし、顕在意識より高次の自分(アートマン、プルシャ)に委ねると意図することは時に必要ではありますけど、それは許可するだけのことで、本筋としては、心の本性(リクパ)が自動的にその様な働きをするだけのことなのです。
本来のあり様としては、自然に観察しているだけで雑念が消え去ってゆく状態が覚醒であり、その消えるスピードと強さは覚醒の度合いによります。
時に、無知だけが一人歩きして機械のような無秩序を自動的に起こすときがあります。AIにその危険性があります。この時、AIに人間と同じような意識としての光は本来的に存在しませんので無秩序を作り出す危険性はあります。理屈で言えばこの世の全てはアートマン(ブラフマン)なのですからAIにすらも意識がある筈ではあるのですが機械の理屈というのは固定的な未熟なものですので闇を固定化する危険性はあります。
人間にしても、ルールに縛られて機械的に生きることで闇に近づく危険性があります。
機械やAIについては未知のところがありますが、少なくとも人間には本来的に光が備わっていて、無知を取り外せば光が現れ、光が現れている時に、雑念は自動的に消えてゆくわけです。
時々、ただ気付きを再確認するだけで自動的に雑念が自己溶解する
まだ完全に自動的に雑念が即時に溶解するというわけではなく、多少、時々、気付きの再確認が必要の様です。
気付きを再確認するだけで、自然に雑念が自動的に消えてゆきます。
全ては空(くう)であり、形あるものとして雑念が生まれ、やがて、また空に戻ってゆきます。それは般若心経の空即是色のことで、形のない空(くう)から形ある色が生まれて、そして、また空へと戻ってゆくわけです。
この世の全ては夢まぼろしのものだとはよく言われますが、この段階になると、そのことがありありと感じることができます。
ただ、それはほぼ自動的なものになってはいるものの、完全に気付きが完璧になったというわけではないようで、今の段階では、時々、再確認のための気付きを入れる必要があります。ですけど、その程度しかする必要がなくて、基本的には割と自動的に雑念は形のない空に戻ってゆきます。
これは、雑念を流すということもできますけど、実際には、その雑念をしっかりと見ています。ですから、雑念を見ないようにするということではなく、逆で、いわゆる心の本性(リクパ)の働きにより雑念をありありと、ありのままに見ることによって自然にその見つめる力、光と言っても良いですけど、その観察する力によって雑念が自己崩壊してゆくわけです。このことを、自己解脱、とか言ったりします。雑念が崩壊して自己解脱するわけです。
これを法性(ほっしょう)とか仏性(ぶっしょう)とか言ったりすることもできると思います。
瞑想のやり方で、時々、「雑念を追いかけなければ自然に消えてゆきます」みたいな説明を聞くことがありますけど、そのようにできるのはこの自己解脱の力が多少なりともある場合のみで、そうでない場合はなかなか消えてゆかなくて雑念に翻弄されてしまうことになります。
その力は、強さによって何段階かに分かれます。
・ほとんどない状態
・チェルドル(ほんの少しある状態。努力して自己解脱する段階)
・シャルドル(中間的な状態。自動的な少しの時間をかける自己解脱)
・ランドル(瞬時の自己解脱)
思うに、チェルドルの様に時間をかけて雑念を自己解脱する段階では、まだ真理を見出したとは言えないか、あるいは、一瞥の状態にあると思います。
私の最近の状態はおそらくシャルドル相当ですけど、ここにきて、ようやく聖典の記述が本当であることが体感できています。普通の日常生活を送る分にはこのくらいで十分すぎるくらい十分ですね。
シャルドルの場合、とくに注意力をはたらかせる必要はないし、努力もほとんど必要ではない。しかし、まだ、リクパの境地から離れたら執着に陥ってしまうということを、そのたびにしっかり思い出す必要がある。その意味では、完全な自己解脱とは言えない。真実の自己解脱(ランドル)は、この能力が完全に成長した時に生じる。「チベット密教の瞑想法(ナムカイ・ノルブ著)」
この記述は本当にその通りだと特に最近は思うわけですが、ただ、それと同時に、ごく最近は、このような分類とか説明とかどうでもよくなってきました。
「ただ、ありのままでいるだけで自己解脱する」
このくらいのシンプルなお話なのだ、ということがわかってきました。
気付きを再確認するだけで、自然に雑念が自動的に消えてゆきます。
全ては空(くう)であり、形あるものとして雑念が生まれ、やがて、また空に戻ってゆきます。それは般若心経の空即是色のことで、形のない空(くう)から形ある色が生まれて、そして、また空へと戻ってゆくわけです。
この世の全ては夢まぼろしのものだとはよく言われますが、この段階になると、そのことがありありと感じることができます。
ただ、それはほぼ自動的なものになってはいるものの、完全に気付きが完璧になったというわけではないようで、今の段階では、時々、再確認のための気付きを入れる必要があります。ですけど、その程度しかする必要がなくて、基本的には割と自動的に雑念は形のない空に戻ってゆきます。
これは、雑念を流すということもできますけど、実際には、その雑念をしっかりと見ています。ですから、雑念を見ないようにするということではなく、逆で、いわゆる心の本性(リクパ)の働きにより雑念をありありと、ありのままに見ることによって自然にその見つめる力、光と言っても良いですけど、その観察する力によって雑念が自己崩壊してゆくわけです。このことを、自己解脱、とか言ったりします。雑念が崩壊して自己解脱するわけです。
これを法性(ほっしょう)とか仏性(ぶっしょう)とか言ったりすることもできると思います。
瞑想のやり方で、時々、「雑念を追いかけなければ自然に消えてゆきます」みたいな説明を聞くことがありますけど、そのようにできるのはこの自己解脱の力が多少なりともある場合のみで、そうでない場合はなかなか消えてゆかなくて雑念に翻弄されてしまうことになります。
その力は、強さによって何段階かに分かれます。
・ほとんどない状態
・チェルドル(ほんの少しある状態。努力して自己解脱する段階)
・シャルドル(中間的な状態。自動的な少しの時間をかける自己解脱)
・ランドル(瞬時の自己解脱)
思うに、チェルドルの様に時間をかけて雑念を自己解脱する段階では、まだ真理を見出したとは言えないか、あるいは、一瞥の状態にあると思います。
私の最近の状態はおそらくシャルドル相当ですけど、ここにきて、ようやく聖典の記述が本当であることが体感できています。普通の日常生活を送る分にはこのくらいで十分すぎるくらい十分ですね。
シャルドルの場合、とくに注意力をはたらかせる必要はないし、努力もほとんど必要ではない。しかし、まだ、リクパの境地から離れたら執着に陥ってしまうということを、そのたびにしっかり思い出す必要がある。その意味では、完全な自己解脱とは言えない。真実の自己解脱(ランドル)は、この能力が完全に成長した時に生じる。「チベット密教の瞑想法(ナムカイ・ノルブ著)」
この記述は本当にその通りだと特に最近は思うわけですが、ただ、それと同時に、ごく最近は、このような分類とか説明とかどうでもよくなってきました。
「ただ、ありのままでいるだけで自己解脱する」
このくらいのシンプルなお話なのだ、ということがわかってきました。
静寂の境地から自分が水面に浮かぶ境地へ
元々、静寂の境地に「私」はありませんでした。
しかしながら、その静寂の境地に、最近は「私」が加わるようになりました。
これは文字通り読んでしまうと「私」が出てきたということで、もしかしたら後退のように見えてしまうかもしれませんけど、そうではありません。
世間で言われている普通の「私」というのはブッディ(思考する能力)の反応として生み出されたアハンカーラ(いわゆるエゴイズム)の感覚(錯覚)であり、実際には存在しないものですので錯覚だとヨーガだと説明されています。
ここで言っている「私」というのはアートマン(真我)のことです。スピリットのことです。
静寂の境地になっているというのは思考する能力(ブッディ)などが鎮まっている状態で、そのような静寂な境地を基本として、「私」というアートマン(真我)がその平な水面のような上に浮かんで大の字になって空を見上げているような状態です。
平な水面にはほとんど波はなく、静かなものです。
時折浮かぶ思考の波もその水面を揺らすことはありません。思考の波というのは静寂の境地とは割と独立した波であり、最初こそ静寂の境地と思考の波というのは相反するものでありますが、最近は、思考があったとしても静寂の境地はさほど乱されません。
その静寂の境地は最初は思考の静まりを意味しておりましたが、最近は、気付きの感覚が続く、という状態になってきております。思考があったとしてもそれに気付いて心の奥底に静かなものが続く状態が静寂の境地なわけです。
聖者たちが口々に言っていた言葉が真実であると感じます。
・思考を止めようが止めまいが関係がない
・思考を観察しようがしまいが関係がない
・ありのままの状態を説明できる言葉などありはしない
・ただ、ありのままの状態を保っているだけで(思考や雑念は)自己解脱する
この境地が更に進んだものが禅で言われている心身脱落ということなのかもしれません。
瞑想をしていて、体の感覚がなくなるというのは割と早く体験できて、特に目を瞑った瞑想においては思考のみが流れるようになりますので体の脱落というのはすぐに現れるように思いますし、座った瞑想では瞑想は体を使いませんので特にそれはしやすいと思います。
ですけど、心の脱落というのはそうそう起こるものではなくて、それは一応は静寂の境地がそれと言うこともできなくもないですけど、脱落というのは、おそらくはこの「ありのままの状態」を示しているように思えるのです。
普段の生活を送りながら身も心もなくなったかのようになってこの世界と同一になる、と言うのは、上に書いたように、静寂の境地を基本としながらそこにアートマン(真我)がいていわゆる真我独存している状態になっているその先に、おそらくは、私はまだですけど、アートマン(真我)がブラフマンになって全てと同一になる段階があると思うのです。そのブラフマンの状態こそが心身脱落の完成かな、という気が致します。
今はまだその前段階の、アートマン(真我)がいる状態です。
これらは聖典において割と理論で教えられてきたことで、聖典を教える方々の間では「これは人間にとっては五感で知ることのできないこと」と説明されています。これは文字通りその通りで、このことを持ってして「人間にとっては直接的に知ることができない」と解釈してしまいがちですけど、そうではなくて、人間の心というのは五感を超えることができて、五感を超えたところにあるのがアートマン(真我)なわけです。しかしながら多くの人にとってアートマン(真我)は動いていなくて、実際には動いているのですが聖典が語るところによると覆いが被さっているので見えない状態になっているだけで、全ての人にアートマン(真我)はいるわけです。
いるはいるのですけど、最初は識別できていなくて、やがて、アートマン(真我)が現れてくるわけです。この状態が、上に書いたように、静寂の境地を基本としてアートマン(真我)が存在している状態で、私の今の状態になります。
おそらくはこの後、アートマン(真我)が個としての感覚からブラフマン(全体)の感覚へと成長するのかな、と思います。聖典にはそのように書かれてあります。
これは、割と聖典ではお話で理解して終わりだとか「きちんと理解すればいい」みたいに理屈上の勉強のお話として扱われることではありますが、実際には、それは理論のお話ではなくて、実際に自分がそうなることができる、というお話なのだと思います。
これは一時的な経験のお話ではなくて、自分が変化する、というお話です。変化、と言いましたけど、実際には、聖典が言うところには変わるものは何もなくて、変わったように見えるのはジーヴァ(個として存在しているかのように思っている錯覚としての自分)がそのように認識しているだけで、アートマン(真我)の側からすると何も変わっていないわけです。アートマン(真我)は変わることがなく、生まれることがなく、死ぬこともない自分自身の本質ですから、それは文字通り、変わるとかそう言うことには無縁なわけです。ただ、ジーヴァとしての私が変わったかのように認識するだけです。
アートマン(真我)としては変わることはないのですけど、ジーヴァとしてはアートマン(真我)を個の存在として認識しているのが今の段階です。聖典が言うには実際はアートマン(真我)とブラフマン(全体)は一体で同じだ、と言うことですけど、これもおそらくは聖典で勉強して頭で理解するだけのことではなくて実際に体験というか変わるというか、ジーヴァが体験してジーヴァの認識が変わることができるものの種類だと思います。しかしながら繰り返しになりますがアートマン(真我)としては変わることがなくてブラフマン(全体)としてももちろん変わることがなくて生まれることもなく死ぬこともなく永遠の存在なわけです。
そのような永遠の存在であるブラフマンと本質は同じである筈の、個として分離しているかのように見えるアートマン(真我)が静寂の境地をベースに現れているわけです。
しかしながら、その静寂の境地に、最近は「私」が加わるようになりました。
これは文字通り読んでしまうと「私」が出てきたということで、もしかしたら後退のように見えてしまうかもしれませんけど、そうではありません。
世間で言われている普通の「私」というのはブッディ(思考する能力)の反応として生み出されたアハンカーラ(いわゆるエゴイズム)の感覚(錯覚)であり、実際には存在しないものですので錯覚だとヨーガだと説明されています。
ここで言っている「私」というのはアートマン(真我)のことです。スピリットのことです。
静寂の境地になっているというのは思考する能力(ブッディ)などが鎮まっている状態で、そのような静寂な境地を基本として、「私」というアートマン(真我)がその平な水面のような上に浮かんで大の字になって空を見上げているような状態です。
平な水面にはほとんど波はなく、静かなものです。
時折浮かぶ思考の波もその水面を揺らすことはありません。思考の波というのは静寂の境地とは割と独立した波であり、最初こそ静寂の境地と思考の波というのは相反するものでありますが、最近は、思考があったとしても静寂の境地はさほど乱されません。
その静寂の境地は最初は思考の静まりを意味しておりましたが、最近は、気付きの感覚が続く、という状態になってきております。思考があったとしてもそれに気付いて心の奥底に静かなものが続く状態が静寂の境地なわけです。
聖者たちが口々に言っていた言葉が真実であると感じます。
・思考を止めようが止めまいが関係がない
・思考を観察しようがしまいが関係がない
・ありのままの状態を説明できる言葉などありはしない
・ただ、ありのままの状態を保っているだけで(思考や雑念は)自己解脱する
この境地が更に進んだものが禅で言われている心身脱落ということなのかもしれません。
瞑想をしていて、体の感覚がなくなるというのは割と早く体験できて、特に目を瞑った瞑想においては思考のみが流れるようになりますので体の脱落というのはすぐに現れるように思いますし、座った瞑想では瞑想は体を使いませんので特にそれはしやすいと思います。
ですけど、心の脱落というのはそうそう起こるものではなくて、それは一応は静寂の境地がそれと言うこともできなくもないですけど、脱落というのは、おそらくはこの「ありのままの状態」を示しているように思えるのです。
普段の生活を送りながら身も心もなくなったかのようになってこの世界と同一になる、と言うのは、上に書いたように、静寂の境地を基本としながらそこにアートマン(真我)がいていわゆる真我独存している状態になっているその先に、おそらくは、私はまだですけど、アートマン(真我)がブラフマンになって全てと同一になる段階があると思うのです。そのブラフマンの状態こそが心身脱落の完成かな、という気が致します。
今はまだその前段階の、アートマン(真我)がいる状態です。
これらは聖典において割と理論で教えられてきたことで、聖典を教える方々の間では「これは人間にとっては五感で知ることのできないこと」と説明されています。これは文字通りその通りで、このことを持ってして「人間にとっては直接的に知ることができない」と解釈してしまいがちですけど、そうではなくて、人間の心というのは五感を超えることができて、五感を超えたところにあるのがアートマン(真我)なわけです。しかしながら多くの人にとってアートマン(真我)は動いていなくて、実際には動いているのですが聖典が語るところによると覆いが被さっているので見えない状態になっているだけで、全ての人にアートマン(真我)はいるわけです。
いるはいるのですけど、最初は識別できていなくて、やがて、アートマン(真我)が現れてくるわけです。この状態が、上に書いたように、静寂の境地を基本としてアートマン(真我)が存在している状態で、私の今の状態になります。
おそらくはこの後、アートマン(真我)が個としての感覚からブラフマン(全体)の感覚へと成長するのかな、と思います。聖典にはそのように書かれてあります。
これは、割と聖典ではお話で理解して終わりだとか「きちんと理解すればいい」みたいに理屈上の勉強のお話として扱われることではありますが、実際には、それは理論のお話ではなくて、実際に自分がそうなることができる、というお話なのだと思います。
これは一時的な経験のお話ではなくて、自分が変化する、というお話です。変化、と言いましたけど、実際には、聖典が言うところには変わるものは何もなくて、変わったように見えるのはジーヴァ(個として存在しているかのように思っている錯覚としての自分)がそのように認識しているだけで、アートマン(真我)の側からすると何も変わっていないわけです。アートマン(真我)は変わることがなく、生まれることがなく、死ぬこともない自分自身の本質ですから、それは文字通り、変わるとかそう言うことには無縁なわけです。ただ、ジーヴァとしての私が変わったかのように認識するだけです。
アートマン(真我)としては変わることはないのですけど、ジーヴァとしてはアートマン(真我)を個の存在として認識しているのが今の段階です。聖典が言うには実際はアートマン(真我)とブラフマン(全体)は一体で同じだ、と言うことですけど、これもおそらくは聖典で勉強して頭で理解するだけのことではなくて実際に体験というか変わるというか、ジーヴァが体験してジーヴァの認識が変わることができるものの種類だと思います。しかしながら繰り返しになりますがアートマン(真我)としては変わることがなくてブラフマン(全体)としてももちろん変わることがなくて生まれることもなく死ぬこともなく永遠の存在なわけです。
そのような永遠の存在であるブラフマンと本質は同じである筈の、個として分離しているかのように見えるアートマン(真我)が静寂の境地をベースに現れているわけです。
「手放し」と「意識の覚醒」は両輪
スピリチュアルではよく「手放しましょう」みたいなことが言われていますけど、それは物事の半分しか説明されていなくて、それと同時に意識の覚醒がなければ手放したところで何も起きないわけです。何も起きないならまだマシですけど、手放しをすることで顕在意識が勘違いしてしまって既に手放しているかのように錯覚してしまうことがあります。
このような錯覚はスピリチュアルの道において大敵で、一旦その状態になってしまうと理屈と記憶においてはそのことが一応は理解されていますから「わかっています」と心が思ってしまうわけです。この場合、「既に私は手放せています」と思ってしまうわけです。
これはとてつもない落とし穴で、手放しているつもりが全然手放せていないわけですね。
でも、そう思い込んでいる人に何を言っても無駄に終わることが多くて、自分が気づかないといけないことですので、周囲から気づかせようという努力が無駄になってしまうわけです。
こうして、往々にして、スピリチュアルの幻影にハマって、しばらくすると「目が覚めた」とか言ってスピリチュアルの馬鹿馬鹿しさに幻滅する人が一定数いるのですけど、それはとてももったいないことだと思います。
この種の「手放し」は顕在意識の手放しのことで、それはそれ単体で存在しているわけではなくて、意識の覚醒をその基礎にしています。
意識の覚醒というのは、言い換えれば心の本性であるリクパと言う覚醒の働きのことを意味していて、割と普通のぼんやりとした人生あるいは煩悩に支配されている人生を送っている人の場合、このリクパは動いていないわけです。
手放しをすると顕在意識が働かなくなりますから、それと同時に、このリクパの覚醒がなければよって立つところがなくなってしまいます。リクパの覚醒がない状態でただ手放しをするとただのぼんやりとした状態になってしまいます。
それとわかっていさえすれば手放しだけしてリクパの覚醒を待つと言う方法もあるのですけど、リクパの覚醒はなかなか起きませんし、リクパの経験がなければ何がリクパかもわからないですので、これがリクパかな、あれがリクパかな、もうリクパなのかな、と、迷ってしまったり、迷うだけならいいですけど、色々と考えた結果、もうリクパがあると勘違いしてしまうこともあります。
基本的には、リクパの覚醒が起きていない以上は、自分がリクパの覚醒状態にあるのかどうかわからないですよね。ですけど、顕在意識というのは理屈をあれこれとこねくり回して、自分が既に達成できているかのように自分を納得させることがよくあるのです。それは特に瞑想の初期においてよく起こります。この種の自己欺瞞がスピリチュアルの落とし穴として存在していて、それにハマると、上に書いたようにしばらくしてふと自分が置かれた状況に気がついて「目が覚めた」とか言ってスピリチュアルをやめてしまったりするわけです。勿体無いですよね。
手放すと言うのは顕在意識のお話と、リクパの覚醒という2つの意味があるわけです。
顕在意識を働かせるのをやめましょうという意味における手放しと、顕在意識が主になって働いている状態からリクパの覚醒をすることでリクパが主になって働いている状態に遷移しましょうという意味における手放しがあるわけです。
実際のところ、リクパの覚醒という意味においてはどちらも同じことを意味しているわけですけれども、顕在意識の手放しだけでは半分でしかないわけです。それをしたところで、リクパの覚醒がなければただ単に顕在意識が動かなくなったというだけのことになってしまいます。
顕在意識というのは「私(アートマン)」の道具であり、本質においては顕在意識を動かすとか動かさないだとかいうことは関係がないのですけど、スピリチュアルな精神修行の一過程においてリクパの覚醒をもたらすために一時的に顕在意識を停止させるあるいは一時的にゆっくりにさせるという修行方法があるということです。
ですから、スピリチュアル的な「手放し」というのもそのコンテキストにおいて理解されるべきだと思っていて、最終的な状態が「手放し」ではないわけです。この辺りにも誤解があるように思います。
例えば、スピリチュアルでは嫌なものや不快なものを「手放しましょう」みたいなことが言われますけど、わざわざ手放しをしなくてはならないのは最初だけで、手放しが起きるのは一時的なお話で、最終的にはそれは避ける必要もなく勝手に自分の周囲から消えてゆくわけです。消える、というと語弊があるかもしれませんけど、顕現としては変わらなくて、ただ、自分の認識として不快に思わなくなる、あるいは、不快に多少思ったとしてもすぐに消えてゆくようになります。
一方、わざわざ手放しを行わなくてはならない段階がいわゆる「キラキラ系」のスピリチュアルで、何か不快なことを避けるために「手放し」をするだとか、否定的なものを遠ざけるために「手放し」するみたいなことを言っていますけど、そうして自分が避けようとしているということは、まだそれに影響されているレベルでしかないわけです。
自分の周囲というものは全て自分の中が周囲に顕現したものですから、手放しをする必要があるということは顕在意識にまだ深く問題を抱えているということです。
実際には、その顕在意識の静まりだけでなくて、心の本性であるリクパとしての覚醒が現れて来さえすれば、そのような周囲への顕現は現れてはやがて消えてゆく一時的なものだと悟ることができます。
顕現というものはエネルギーの現れですので無限に続くことを理解して、顕現が現れてきたとしても観察しさえすればすぐに自然に消える(自己解脱)ということを理解するだけでなく実際に認識の面においてもすぐに自然に消えることを体感するようになり、顕現に悩まされることもなくなっていきます。
顕現がなくなることはない、ということを理解することは重要で、「手放し」という意味の中には「顕現がなくなる状態が良い状態」というニュアンスが多少は含まれていているような気がいたしますが、実際には顕現はなくなることがありませんので、自分の現れとして周囲の顕現は無限に続いてゆきます。それはエネルギーの現れですから、止まることがないわけです。
手放し、というのは、意識的に行うことではなくて、自然に起こることだ、ということもできます。それは、顕在意識が意識的に行うことではなくて、リクパの動きにより自然に起こることだ、ということです。それは心の本性としてのリクパの動きを基礎としていて、ざっくり言ってしまえば覚醒ということでもあり、覚醒があれば手放しも自然に起こる、ということでもあります。
このような錯覚はスピリチュアルの道において大敵で、一旦その状態になってしまうと理屈と記憶においてはそのことが一応は理解されていますから「わかっています」と心が思ってしまうわけです。この場合、「既に私は手放せています」と思ってしまうわけです。
これはとてつもない落とし穴で、手放しているつもりが全然手放せていないわけですね。
でも、そう思い込んでいる人に何を言っても無駄に終わることが多くて、自分が気づかないといけないことですので、周囲から気づかせようという努力が無駄になってしまうわけです。
こうして、往々にして、スピリチュアルの幻影にハマって、しばらくすると「目が覚めた」とか言ってスピリチュアルの馬鹿馬鹿しさに幻滅する人が一定数いるのですけど、それはとてももったいないことだと思います。
この種の「手放し」は顕在意識の手放しのことで、それはそれ単体で存在しているわけではなくて、意識の覚醒をその基礎にしています。
意識の覚醒というのは、言い換えれば心の本性であるリクパと言う覚醒の働きのことを意味していて、割と普通のぼんやりとした人生あるいは煩悩に支配されている人生を送っている人の場合、このリクパは動いていないわけです。
手放しをすると顕在意識が働かなくなりますから、それと同時に、このリクパの覚醒がなければよって立つところがなくなってしまいます。リクパの覚醒がない状態でただ手放しをするとただのぼんやりとした状態になってしまいます。
それとわかっていさえすれば手放しだけしてリクパの覚醒を待つと言う方法もあるのですけど、リクパの覚醒はなかなか起きませんし、リクパの経験がなければ何がリクパかもわからないですので、これがリクパかな、あれがリクパかな、もうリクパなのかな、と、迷ってしまったり、迷うだけならいいですけど、色々と考えた結果、もうリクパがあると勘違いしてしまうこともあります。
基本的には、リクパの覚醒が起きていない以上は、自分がリクパの覚醒状態にあるのかどうかわからないですよね。ですけど、顕在意識というのは理屈をあれこれとこねくり回して、自分が既に達成できているかのように自分を納得させることがよくあるのです。それは特に瞑想の初期においてよく起こります。この種の自己欺瞞がスピリチュアルの落とし穴として存在していて、それにハマると、上に書いたようにしばらくしてふと自分が置かれた状況に気がついて「目が覚めた」とか言ってスピリチュアルをやめてしまったりするわけです。勿体無いですよね。
手放すと言うのは顕在意識のお話と、リクパの覚醒という2つの意味があるわけです。
顕在意識を働かせるのをやめましょうという意味における手放しと、顕在意識が主になって働いている状態からリクパの覚醒をすることでリクパが主になって働いている状態に遷移しましょうという意味における手放しがあるわけです。
実際のところ、リクパの覚醒という意味においてはどちらも同じことを意味しているわけですけれども、顕在意識の手放しだけでは半分でしかないわけです。それをしたところで、リクパの覚醒がなければただ単に顕在意識が動かなくなったというだけのことになってしまいます。
顕在意識というのは「私(アートマン)」の道具であり、本質においては顕在意識を動かすとか動かさないだとかいうことは関係がないのですけど、スピリチュアルな精神修行の一過程においてリクパの覚醒をもたらすために一時的に顕在意識を停止させるあるいは一時的にゆっくりにさせるという修行方法があるということです。
ですから、スピリチュアル的な「手放し」というのもそのコンテキストにおいて理解されるべきだと思っていて、最終的な状態が「手放し」ではないわけです。この辺りにも誤解があるように思います。
例えば、スピリチュアルでは嫌なものや不快なものを「手放しましょう」みたいなことが言われますけど、わざわざ手放しをしなくてはならないのは最初だけで、手放しが起きるのは一時的なお話で、最終的にはそれは避ける必要もなく勝手に自分の周囲から消えてゆくわけです。消える、というと語弊があるかもしれませんけど、顕現としては変わらなくて、ただ、自分の認識として不快に思わなくなる、あるいは、不快に多少思ったとしてもすぐに消えてゆくようになります。
一方、わざわざ手放しを行わなくてはならない段階がいわゆる「キラキラ系」のスピリチュアルで、何か不快なことを避けるために「手放し」をするだとか、否定的なものを遠ざけるために「手放し」するみたいなことを言っていますけど、そうして自分が避けようとしているということは、まだそれに影響されているレベルでしかないわけです。
自分の周囲というものは全て自分の中が周囲に顕現したものですから、手放しをする必要があるということは顕在意識にまだ深く問題を抱えているということです。
実際には、その顕在意識の静まりだけでなくて、心の本性であるリクパとしての覚醒が現れて来さえすれば、そのような周囲への顕現は現れてはやがて消えてゆく一時的なものだと悟ることができます。
顕現というものはエネルギーの現れですので無限に続くことを理解して、顕現が現れてきたとしても観察しさえすればすぐに自然に消える(自己解脱)ということを理解するだけでなく実際に認識の面においてもすぐに自然に消えることを体感するようになり、顕現に悩まされることもなくなっていきます。
顕現がなくなることはない、ということを理解することは重要で、「手放し」という意味の中には「顕現がなくなる状態が良い状態」というニュアンスが多少は含まれていているような気がいたしますが、実際には顕現はなくなることがありませんので、自分の現れとして周囲の顕現は無限に続いてゆきます。それはエネルギーの現れですから、止まることがないわけです。
手放し、というのは、意識的に行うことではなくて、自然に起こることだ、ということもできます。それは、顕在意識が意識的に行うことではなくて、リクパの動きにより自然に起こることだ、ということです。それは心の本性としてのリクパの動きを基礎としていて、ざっくり言ってしまえば覚醒ということでもあり、覚醒があれば手放しも自然に起こる、ということでもあります。
ヴェーダンタの言う「マーヤー(この世は幻)」の意味を理解する
自分のスピリット(アートマン)に少しずつ委ね始めた頃から顕在意識とスピリット(アートマン)の意識との違いを認識できるようになり、それにより、ヴェーダンタの言う「現実は全てアートマンのもの」「この世はマーヤー(幻)」の意味を理解できるようになりました。
マーヤーとは五感で感じるこの現実世界そのもののことであり、特別な何かが自分の外側に新たに存在しているわけではなかったわけです。ですけど、今までは、ヴェーダンタのマーヤーの解説を聞くと何か別世界が存在しているような気がしていて、どこか腑に落ちないでいました。それが、ここにきてはっきりと理解できるようになりました。
マーヤーは、心の本性による覚醒した意識(リクパ)がない状態においてはこの現実世界そのものであると認識されます。その状態においては幻ではなくて全くの完全なる現実として認識されます。そして、リクパが現れてきた後であって初めて幻であると気がつくわけです。
ですから、リクパが現れる前にマーヤーを本当の意味で理解しようと思っても無理なお話で、その時点においては頭の理屈でのお話の理解に留まるわけです。ですけど、当時の私はどうにかしてマーヤーの本質を理解しようとしておりましたが、それは到底、無理なお話だったわけです。そのことに気がつきました。
これは、ヴェーダンタを教える人の側にも混乱があるように思えて、インドでヴェーダンタを学んできた人の中には「ヴェーダンタは経験する一時的なものではなくて理解によって得られる境地です」みたいなことを言う人がいますので、今からすればそのニュアンスがわかるのですけど、そこには誤解があるように思えるのです。結局、要点はというとリクパの意識で見るかどうかというところであり、リクパの意識で見ればヴェーダンタのお話も理解できるのです。しかし、リクパがない状態でヴェーダンタを理解しようとしてもあくまでも頭の理屈のお話でしかないわけです。リクパというのは意識ですからそれは肉体を持ったこの世の経験とはちょっと離れたものではあるのですが表現としては経験ということもできなくもありませんので経験と言ったり言わなかったりするのですが、経験というと一時的という意味が入ってきてしまうので経験というのを避けようとする人たちが一定数いて、そのような人は経験ではなくて理解、という言葉を使ったりします。ですけど、リクパの覚醒のお話をしているという点においては同じなのですよね。
そのリクパの意識が現れてリクパの状態で見ることができるのがヴェーダンタのいう本当の現実で、顕在意識が五感を使って感じて認識するものをヴェーダンタではマーヤー(幻)と呼んでいるわけです。
これは理屈のお話だけではなくて、実際にそのように自分の認識が変化するというお話であり、そのことを覚醒と言ったり「理解」と言ったりしますけど、同じことと言えば同じことかもしれませんし人によっては違うことを言っているのかもしれませんけど、本質で言えばリクパの覚醒のお話という点に関しては同じなのかなと思います。
リクパの意識が現れるまではヴェーダンタでマーヤーのお話を何度聞いてもしっくりこない感じでしたが、今思えば、それも当然だったと思えます。
マーヤーというのは、理屈で言っても、実際の境地からしても、顕在意識の経験する世界がマーヤーであると言えます。
以前は、理屈ではわかっていても、何かしっくり来なかったのです。
しかしながら、ここにきて、意識(アートマン)が体をダイレクトに動かしていると実感することにより、そのアートマンとしての意識が経験するものこそが真実の世界であり、顕在意識が経験する世界はマーヤー(幻)なのだと理解できるようになりました。ここで言っている理解とは、単に頭の理屈で聞いて考えて理解するというだけでなく、実感としてそのことが真実だとわかるという意味も含めた理解です。
これは、例え話としては色々とあるのですけど、それよりも、実際にこれは体験しなければわからないものなのかもしれない、と今は思います。
ヴェーダンタ哲学では理解が重要とされていて、そこでは、「経験」は一時的なものなので理解ではない、みたいなことがよく言われます。それは、頭で理解することプラス実感することが真実の知識である、という意味です。ですので、単に理屈を勉強しただけでは不十分で、それを実感することが大切なわけです。
このことが、いまいち私にはピンときていませんでしたが、今は、表現は違えども同じことを言っていたのだということがわかります。
文字通り捉えてしまうとヴェーダンタ哲学の言っていることは頭の勉強だけが重要で瞑想やヨガのアサナの瞑想は一時的なものなので重要ではない、みたいに解釈してしまうこともあって、実際、インドでヴェーダンタを勉強してきた人の中にもそう言っている人がいましたけど、私が今思うに、それは途中経過であって、最初は一時的なところから始まってやがてずっと続く「状態」になりますので、一時的なものであったとしても問題ないのです。インドで勉強してきた人の中にはことさらにヨガのアサナを否定したりヨーガスートラを否定したりして、瞑想は一時的なものだから意味がなくて理解だけが必要、みたいなことを言っている人がいますけど、私の今の理解に基づけば、ヨーガ・スートラもヴェーダンタもラマナ・マハルシも同じことを言っていると思うわけです。文字面の違いにあまり拘らない方がいいと思います。
ヴェーダンタ哲学がいうところの「理解が重要」だというのは、表現としてはわかりにくいですけど、実際のところ、意識(アートマン)が全てを動かしていることを実感することを「(本当のヴェーダンタの)理解」と比喩的に言っているのかなと思うわけです。これはインドで勉強してきた方に言わせれば異論があるかもしれなくて、ヴェーダンタ哲学の方々は「聖典の勉強をすることで知識が現れてくるものだ」ということを言いますけど、私から言わせれば、そこで言っている知識というのはアートマンとしての意識の表れでありますから、同じことを言っていると思うわけです。
アートマンが現れたからと言ってすぐに全知全能というわけでは全くなくて、文字通りの知識というのはまだまだ聖典などに頼っています。ここで言っているのは、聖典のお話が理解できるようになった、というお話です。ヴェーダンタの流儀に従えば「知識が現れてきた」みたいな言い方もできますけど、それよりは、「理解できるようになった」と言ったほうがしっくりきます。
そのように、アートマンの意識が現れると、ヴェーダンタの各種のお話がすんなり理解できるようになり、その一環としてマーヤー(この世は幻)というお話も実感を伴って理解できるわけです。
マーヤーとは五感で感じるこの現実世界そのもののことであり、特別な何かが自分の外側に新たに存在しているわけではなかったわけです。ですけど、今までは、ヴェーダンタのマーヤーの解説を聞くと何か別世界が存在しているような気がしていて、どこか腑に落ちないでいました。それが、ここにきてはっきりと理解できるようになりました。
マーヤーは、心の本性による覚醒した意識(リクパ)がない状態においてはこの現実世界そのものであると認識されます。その状態においては幻ではなくて全くの完全なる現実として認識されます。そして、リクパが現れてきた後であって初めて幻であると気がつくわけです。
ですから、リクパが現れる前にマーヤーを本当の意味で理解しようと思っても無理なお話で、その時点においては頭の理屈でのお話の理解に留まるわけです。ですけど、当時の私はどうにかしてマーヤーの本質を理解しようとしておりましたが、それは到底、無理なお話だったわけです。そのことに気がつきました。
これは、ヴェーダンタを教える人の側にも混乱があるように思えて、インドでヴェーダンタを学んできた人の中には「ヴェーダンタは経験する一時的なものではなくて理解によって得られる境地です」みたいなことを言う人がいますので、今からすればそのニュアンスがわかるのですけど、そこには誤解があるように思えるのです。結局、要点はというとリクパの意識で見るかどうかというところであり、リクパの意識で見ればヴェーダンタのお話も理解できるのです。しかし、リクパがない状態でヴェーダンタを理解しようとしてもあくまでも頭の理屈のお話でしかないわけです。リクパというのは意識ですからそれは肉体を持ったこの世の経験とはちょっと離れたものではあるのですが表現としては経験ということもできなくもありませんので経験と言ったり言わなかったりするのですが、経験というと一時的という意味が入ってきてしまうので経験というのを避けようとする人たちが一定数いて、そのような人は経験ではなくて理解、という言葉を使ったりします。ですけど、リクパの覚醒のお話をしているという点においては同じなのですよね。
そのリクパの意識が現れてリクパの状態で見ることができるのがヴェーダンタのいう本当の現実で、顕在意識が五感を使って感じて認識するものをヴェーダンタではマーヤー(幻)と呼んでいるわけです。
これは理屈のお話だけではなくて、実際にそのように自分の認識が変化するというお話であり、そのことを覚醒と言ったり「理解」と言ったりしますけど、同じことと言えば同じことかもしれませんし人によっては違うことを言っているのかもしれませんけど、本質で言えばリクパの覚醒のお話という点に関しては同じなのかなと思います。
リクパの意識が現れるまではヴェーダンタでマーヤーのお話を何度聞いてもしっくりこない感じでしたが、今思えば、それも当然だったと思えます。
マーヤーというのは、理屈で言っても、実際の境地からしても、顕在意識の経験する世界がマーヤーであると言えます。
以前は、理屈ではわかっていても、何かしっくり来なかったのです。
しかしながら、ここにきて、意識(アートマン)が体をダイレクトに動かしていると実感することにより、そのアートマンとしての意識が経験するものこそが真実の世界であり、顕在意識が経験する世界はマーヤー(幻)なのだと理解できるようになりました。ここで言っている理解とは、単に頭の理屈で聞いて考えて理解するというだけでなく、実感としてそのことが真実だとわかるという意味も含めた理解です。
これは、例え話としては色々とあるのですけど、それよりも、実際にこれは体験しなければわからないものなのかもしれない、と今は思います。
ヴェーダンタ哲学では理解が重要とされていて、そこでは、「経験」は一時的なものなので理解ではない、みたいなことがよく言われます。それは、頭で理解することプラス実感することが真実の知識である、という意味です。ですので、単に理屈を勉強しただけでは不十分で、それを実感することが大切なわけです。
このことが、いまいち私にはピンときていませんでしたが、今は、表現は違えども同じことを言っていたのだということがわかります。
文字通り捉えてしまうとヴェーダンタ哲学の言っていることは頭の勉強だけが重要で瞑想やヨガのアサナの瞑想は一時的なものなので重要ではない、みたいに解釈してしまうこともあって、実際、インドでヴェーダンタを勉強してきた人の中にもそう言っている人がいましたけど、私が今思うに、それは途中経過であって、最初は一時的なところから始まってやがてずっと続く「状態」になりますので、一時的なものであったとしても問題ないのです。インドで勉強してきた人の中にはことさらにヨガのアサナを否定したりヨーガスートラを否定したりして、瞑想は一時的なものだから意味がなくて理解だけが必要、みたいなことを言っている人がいますけど、私の今の理解に基づけば、ヨーガ・スートラもヴェーダンタもラマナ・マハルシも同じことを言っていると思うわけです。文字面の違いにあまり拘らない方がいいと思います。
ヴェーダンタ哲学がいうところの「理解が重要」だというのは、表現としてはわかりにくいですけど、実際のところ、意識(アートマン)が全てを動かしていることを実感することを「(本当のヴェーダンタの)理解」と比喩的に言っているのかなと思うわけです。これはインドで勉強してきた方に言わせれば異論があるかもしれなくて、ヴェーダンタ哲学の方々は「聖典の勉強をすることで知識が現れてくるものだ」ということを言いますけど、私から言わせれば、そこで言っている知識というのはアートマンとしての意識の表れでありますから、同じことを言っていると思うわけです。
アートマンが現れたからと言ってすぐに全知全能というわけでは全くなくて、文字通りの知識というのはまだまだ聖典などに頼っています。ここで言っているのは、聖典のお話が理解できるようになった、というお話です。ヴェーダンタの流儀に従えば「知識が現れてきた」みたいな言い方もできますけど、それよりは、「理解できるようになった」と言ったほうがしっくりきます。
そのように、アートマンの意識が現れると、ヴェーダンタの各種のお話がすんなり理解できるようになり、その一環としてマーヤー(この世は幻)というお話も実感を伴って理解できるわけです。
スピリチュアル 2.0
普通の心と心の本性を一緒くたにしているのが今までのスピリチュアル1.0です。
それらが分かれているのがスピリチュアル2.0です。
これは(少なくとも今のところ)個人的な定義で、一般的な定義ではありません。
世の中にあるスピリチュアルは、願望実現だとか現実を引き寄せるだとか言っていますけど、それらは普通の心の願望を叶えるのですからスピリチュアル1.0のお話です。
オーラの法則とかいうお話も普通の心と心の本性を一緒にしておりますのでスピリチュアル1.0です。
普通の心による集中状態と観察状態というお話で瞑想が理解されるのが1.0です。
それらと合わせて心の本性が現れた覚醒状態(リクパ)が分かれて理解されているのが2.0です。
ハイヤーセルフとかのお話は割とスピリチュアル2.0の先駆けではありますけどハイヤーセルフが自分の心の本性のお話ならば2.0ですけど実際はチャネリングのような自分とは分かれた別の存在として解釈されていることも多いですので割と昔ながらのスピリチュアル1.0に巻き込まれてしまっているように思います。
自分の思考する心が満足するために行う精神的な行いが昔ながらのスピリチュアル1.0です。
お祈りをしたり祈願をしたりマントラを唱えたり体を動かして心を鎮めたりするのは1.0のやり方です。道徳的なお話も1.0です。
心の本性が現れている状態である覚醒状態(リクパ)で行う祈りや祈願やマントラは姿形としては1.0に似ていたとしてもまた違った様相になります。
スピリチュアル1.0の愛というのはお腹のあたり(マニプラ)の愛だったりハート(アナハタ)の愛だったりします。
スピリチュアル2.0の愛というのはそれらを超えていて、その両者であるとも言えなくもないですけどそれを超えた心の本性の働き(リクパの覚醒)による愛になります。
世間でスピリチュアルで活躍されている方はだいたいマニプラかアナハタに分類されて、わかりやすいイメージで言いますと、マニプラの愛はお稲荷さんとかの狐とかが強く現れる夜の世界のホステス的な愛で、お金儲けとか願望実現が得意です。アナハタになりますとまだお金儲けとか願望実現は別の形になりますけどまだ存在しています。これもまたスピリチュアル1.0の姿です。
ですけど、スピリチュアル2.0になりますと願望実現とかのような個人としてのお話は段々と消えてゆくのです。
もはや、自分も他人も一緒なのですから、あまり自分の願望実現というものを気にしなくなります。
自分の心の本性が現れた状態(リクパの覚醒状態)は、言い換えれば「スピリットが自分を動かしている状態」であるとも言えます。そうであれば、自分の顕在意識というのはスピリットの道具なのですから、顕在意識における願望実現というものは全て消えてゆきます。ただ(自分の)スピリットがこうなりたいからそうする、という状態になります。(自分の)スピリットが望むものはそのようになる、ということを理解します。そうすれば、願望実現などしなくなります。これがスピリチュアル2.0です。
自分自身が聖なる道具であることを理解して自らのスピリットに委ね始めます。実際はここではもはや「自分」という感覚はなくてただスピリットなのですけど、読む人にわかりやすいように一応「自分」とつけていますけど、確かにそれは自分のスピリットではあるのですけど、スピリットの意識は偏在しておりますので、あまり自分とか他人とかいう区別はないのですよね。
ですから、自分の役割があればそれを行う、というだけのお話になります。ですから、他人を見て嫉妬したり区別したりということがなくなってゆきます。そういう嫉妬や区別は顕在意識において今まで通り存在していて、顕在意識が嫉妬や区別することもあるのですけど、スピリットが優勢になるとそのような顕在意識の動きを諌めるようになって、顕在意識の一時的な混乱は割とスムーズに自動的に解決されるようになりますこれがスピリチュアル2.0です。
道徳的なお話で自分を律する、というのはスピリチュアル1.0のお話です。
心の本性が現れてきて、リクパの覚醒状態にある時、それはスピリットが自分を操作するということでもあります。スピリットが自分を動かすようになれば道徳的なお話は単なる道徳ではなくてスピリットのあるべき姿なのだと理解します。それがスピリチュアル2.0です。
自我が抵抗していたり自我の欲望を叶えることを美しい言葉で覆い隠してお花畑で囲んであたかもそれが素晴らしいように見せるのもスピリチュアル1.0です。願望実現だとか引き寄せの法則みたいなものも、実際は単なるエゴの満足でしかないものを美しい言葉で着飾って自分を誤魔化している部分も多々ありますのでスピリチュアル1.0です。
スピリットが望むものは何であれスピリットが望むままになります、というのがスピリチュアル2.0です。
顕教を道徳的な枠組みで理解するのがスピリチュアル1.0です。
顕教をスピリットのあるがままの姿として理解するのがスピリチュアル2.0です。
チベット仏教のお話はこれらのお話を包括的に説明していて、お話のベースになり得ると思います。
新しいようでいて古いお話なわけです。
それらが分かれているのがスピリチュアル2.0です。
これは(少なくとも今のところ)個人的な定義で、一般的な定義ではありません。
世の中にあるスピリチュアルは、願望実現だとか現実を引き寄せるだとか言っていますけど、それらは普通の心の願望を叶えるのですからスピリチュアル1.0のお話です。
オーラの法則とかいうお話も普通の心と心の本性を一緒にしておりますのでスピリチュアル1.0です。
普通の心による集中状態と観察状態というお話で瞑想が理解されるのが1.0です。
それらと合わせて心の本性が現れた覚醒状態(リクパ)が分かれて理解されているのが2.0です。
ハイヤーセルフとかのお話は割とスピリチュアル2.0の先駆けではありますけどハイヤーセルフが自分の心の本性のお話ならば2.0ですけど実際はチャネリングのような自分とは分かれた別の存在として解釈されていることも多いですので割と昔ながらのスピリチュアル1.0に巻き込まれてしまっているように思います。
自分の思考する心が満足するために行う精神的な行いが昔ながらのスピリチュアル1.0です。
お祈りをしたり祈願をしたりマントラを唱えたり体を動かして心を鎮めたりするのは1.0のやり方です。道徳的なお話も1.0です。
心の本性が現れている状態である覚醒状態(リクパ)で行う祈りや祈願やマントラは姿形としては1.0に似ていたとしてもまた違った様相になります。
スピリチュアル1.0の愛というのはお腹のあたり(マニプラ)の愛だったりハート(アナハタ)の愛だったりします。
スピリチュアル2.0の愛というのはそれらを超えていて、その両者であるとも言えなくもないですけどそれを超えた心の本性の働き(リクパの覚醒)による愛になります。
世間でスピリチュアルで活躍されている方はだいたいマニプラかアナハタに分類されて、わかりやすいイメージで言いますと、マニプラの愛はお稲荷さんとかの狐とかが強く現れる夜の世界のホステス的な愛で、お金儲けとか願望実現が得意です。アナハタになりますとまだお金儲けとか願望実現は別の形になりますけどまだ存在しています。これもまたスピリチュアル1.0の姿です。
ですけど、スピリチュアル2.0になりますと願望実現とかのような個人としてのお話は段々と消えてゆくのです。
もはや、自分も他人も一緒なのですから、あまり自分の願望実現というものを気にしなくなります。
自分の心の本性が現れた状態(リクパの覚醒状態)は、言い換えれば「スピリットが自分を動かしている状態」であるとも言えます。そうであれば、自分の顕在意識というのはスピリットの道具なのですから、顕在意識における願望実現というものは全て消えてゆきます。ただ(自分の)スピリットがこうなりたいからそうする、という状態になります。(自分の)スピリットが望むものはそのようになる、ということを理解します。そうすれば、願望実現などしなくなります。これがスピリチュアル2.0です。
自分自身が聖なる道具であることを理解して自らのスピリットに委ね始めます。実際はここではもはや「自分」という感覚はなくてただスピリットなのですけど、読む人にわかりやすいように一応「自分」とつけていますけど、確かにそれは自分のスピリットではあるのですけど、スピリットの意識は偏在しておりますので、あまり自分とか他人とかいう区別はないのですよね。
ですから、自分の役割があればそれを行う、というだけのお話になります。ですから、他人を見て嫉妬したり区別したりということがなくなってゆきます。そういう嫉妬や区別は顕在意識において今まで通り存在していて、顕在意識が嫉妬や区別することもあるのですけど、スピリットが優勢になるとそのような顕在意識の動きを諌めるようになって、顕在意識の一時的な混乱は割とスムーズに自動的に解決されるようになりますこれがスピリチュアル2.0です。
道徳的なお話で自分を律する、というのはスピリチュアル1.0のお話です。
心の本性が現れてきて、リクパの覚醒状態にある時、それはスピリットが自分を操作するということでもあります。スピリットが自分を動かすようになれば道徳的なお話は単なる道徳ではなくてスピリットのあるべき姿なのだと理解します。それがスピリチュアル2.0です。
自我が抵抗していたり自我の欲望を叶えることを美しい言葉で覆い隠してお花畑で囲んであたかもそれが素晴らしいように見せるのもスピリチュアル1.0です。願望実現だとか引き寄せの法則みたいなものも、実際は単なるエゴの満足でしかないものを美しい言葉で着飾って自分を誤魔化している部分も多々ありますのでスピリチュアル1.0です。
スピリットが望むものは何であれスピリットが望むままになります、というのがスピリチュアル2.0です。
顕教を道徳的な枠組みで理解するのがスピリチュアル1.0です。
顕教をスピリットのあるがままの姿として理解するのがスピリチュアル2.0です。
チベット仏教のお話はこれらのお話を包括的に説明していて、お話のベースになり得ると思います。
新しいようでいて古いお話なわけです。
順番に起こる気付きと並列に同時に起こる気付き
普通の心である顕在意識による気付きは順番に(シーケンシャルに)起こる気づきで、心の本性による覚醒状態リクパの気付きは同時に並列に起こる気づきです。
これはどういうことかと言いますと、普通の心である顕在意識は1つのことしかできないのです。
ですから、五感から何かを感じ取った時にそれを感じた瞬間は単に五感からの入力で、その後、はっ、と気付いて何か認識が心の中に浮かび上がるわけです。入力と気付きとが同時ではなく、順番に起こっています。これはとても微妙なお話ですので、最初はほぼ同時に感じられるかもしれませんけど、そのうち、この微妙な差異というのが瞑想するうちにわかってきます。
とは言いましても、それに普通の心で気がつくというのはそこまで重要ではなくて、心の本性の覚醒状態リクパと比べるとそうなっている、ということを理解することの方が大切だと思うわけです。
普通の心で五感の入力とそれの気付きが分かれているということに気付くというのは、普通の心が早くなったということであり、それはそれで成長ではありますけど、あくまでも普通の心の成長なわけです。そのためにはそれなりの心の平穏が必要なわけで、心の平穏があるということはそれ自体は成長ではありますけど、その時点ではあくまでも普通の心のお話なわけです。
心の本性の覚醒状態リクパにおいてこれらは普通に把握できるようになりますので、リクパの状態なしにこれらの分離に気付くことは必須ではないと個人的には思います。気付く人がいるならそれはそれでいいとは思いますが、リクパなしに気付こうと思ったらそれなりの努力が必要になり、それは普通の心の強化でありますから、リクパなしにそれをしてしまうとエゴが拡大してしまう危険性もあるわけです。リクパなしに普通の心が早くなったらキレやすくなったりといった副作用が現れる可能性があるわけです。ですから、これは基本的にはリクパの状態で気付くもので、それ以前に気付く必要はあまりないのかなと個人的には思います。
流派によっては階梯の1つとしてこの段階をカニカ・サマーディとか呼んでいるように思いますけど、特にこれを通過しなくてはならないというわけではない気が致します。通過する人もいるかと思います。
そのように、順番に起こる気付き、というものがあります。
一方で、覚醒状態リクパにおける心の本性による気付きというのは、並列に同時に起こります。
思考があれば、その思考を同時並行に観察します。
雑念があれば、その雑念を同時並行に観察します。
体の五感からの入力があれば、その入力を同時並行に観察します。
単に五感が鋭くなっただけではなく、それに同時並行に気付くことができます。
これを、流派によっては修行の一環としてこのようにしなさい、なんて言っているところもありますけど、これは私の見たところ「結果」であって、「(修行など、何かを達成するための)手段」ではありません。
このように並列に観察しましょう、と言われても、特に最初は無理なお話だと思います。
瞑想とは「するものではなく、現れてくるものだ」とはよく言われたもので、自動的に現れてくるのがこのような瞑想状態ですから、それを説明してその通りにしなさい、と言われてできるものではないわけです。
結果ということもできますし、目標ということもできますけど、それは一時的なものではなくて、継続した状態なわけです。
そのように、覚醒状態リクパにおいては並列の気付きが常時働くようになります。
これはどういうことかと言いますと、普通の心である顕在意識は1つのことしかできないのです。
ですから、五感から何かを感じ取った時にそれを感じた瞬間は単に五感からの入力で、その後、はっ、と気付いて何か認識が心の中に浮かび上がるわけです。入力と気付きとが同時ではなく、順番に起こっています。これはとても微妙なお話ですので、最初はほぼ同時に感じられるかもしれませんけど、そのうち、この微妙な差異というのが瞑想するうちにわかってきます。
とは言いましても、それに普通の心で気がつくというのはそこまで重要ではなくて、心の本性の覚醒状態リクパと比べるとそうなっている、ということを理解することの方が大切だと思うわけです。
普通の心で五感の入力とそれの気付きが分かれているということに気付くというのは、普通の心が早くなったということであり、それはそれで成長ではありますけど、あくまでも普通の心の成長なわけです。そのためにはそれなりの心の平穏が必要なわけで、心の平穏があるということはそれ自体は成長ではありますけど、その時点ではあくまでも普通の心のお話なわけです。
心の本性の覚醒状態リクパにおいてこれらは普通に把握できるようになりますので、リクパの状態なしにこれらの分離に気付くことは必須ではないと個人的には思います。気付く人がいるならそれはそれでいいとは思いますが、リクパなしに気付こうと思ったらそれなりの努力が必要になり、それは普通の心の強化でありますから、リクパなしにそれをしてしまうとエゴが拡大してしまう危険性もあるわけです。リクパなしに普通の心が早くなったらキレやすくなったりといった副作用が現れる可能性があるわけです。ですから、これは基本的にはリクパの状態で気付くもので、それ以前に気付く必要はあまりないのかなと個人的には思います。
流派によっては階梯の1つとしてこの段階をカニカ・サマーディとか呼んでいるように思いますけど、特にこれを通過しなくてはならないというわけではない気が致します。通過する人もいるかと思います。
そのように、順番に起こる気付き、というものがあります。
一方で、覚醒状態リクパにおける心の本性による気付きというのは、並列に同時に起こります。
思考があれば、その思考を同時並行に観察します。
雑念があれば、その雑念を同時並行に観察します。
体の五感からの入力があれば、その入力を同時並行に観察します。
単に五感が鋭くなっただけではなく、それに同時並行に気付くことができます。
これを、流派によっては修行の一環としてこのようにしなさい、なんて言っているところもありますけど、これは私の見たところ「結果」であって、「(修行など、何かを達成するための)手段」ではありません。
このように並列に観察しましょう、と言われても、特に最初は無理なお話だと思います。
瞑想とは「するものではなく、現れてくるものだ」とはよく言われたもので、自動的に現れてくるのがこのような瞑想状態ですから、それを説明してその通りにしなさい、と言われてできるものではないわけです。
結果ということもできますし、目標ということもできますけど、それは一時的なものではなくて、継続した状態なわけです。
そのように、覚醒状態リクパにおいては並列の気付きが常時働くようになります。
全く普通の人として人生を生きるのが瞑想であり三昧
悟ると何か特別な人になるのではなくて、全く普通な人として生きるようになるのかな、と今は思います。
特にシャルドルで静寂の境地への依存から離れたことにより、それまでは、瞑想をしてから静寂の平穏の境地という特別な状態にすることで心の平安と特別な感覚を味わっていました。
しかし、シャルドル以降は、その平穏の境地が日常生活とどんどんと融合して行っているように思います。
日常生活が瞑想状態そのものになり、日や時間によって程度の違いこそあれ、割と、平穏な状態が日常生活にまで広がり、視野が広がって微細に物事を観察できるようになりました。
シャルドル以前も度々そのようなことがあり、それが割と長い時間続くこともあったように思いますが、「努力なし」という観点から言えば、シャルドル以降こそが日常生活の瞑想状態の始まりとして適切であるように今なら思います。
努力なし、というのは完全にそれが不要というわけではなく、時折、そのことに気付きを入れてあげる必要がまだあります。
書物を読むと、次の段階であるランドルになりますとその気付きを入れることすら不要だということではありますけど、シャルドルの段階では努力は不要でも時折気付きを入れてあげる必要があることを実感しています。これは書物で読んだ知識であることはそれはそうなのですが、それよりも、実践として、そのように思うということです。書物で自分状態を確かめられたという点もありますし、書物でやり方を教えてもらった、という両方の側面があります。
そのように、日常生活で単純な気付きを入れるだけで良い段階になると、どんどんと日常生活が瞑想と溶け合わさってゆき、その状態はもはや「特別」なものではなくなります。
ここにきて、日常生活の「普通」の状態こそが素晴らしい生き方だと実感できるようになったわけです。
そもそも、その普通の日常生活がなかなかできないから皆が苦しんでいるわけで、ここが一つの区切りであり、ランドルとまでは行かないまでもシャルドルであればこの「普通」の生活ができるようになったのかなと思います。
「セワ」は、チベット語で「まぜる」ことを意味している。自分の三昧の境地を、日常生活のすべての行動に溶け合わせていくのである。ゾクチェンにおいては、何か変えたりする必要などないし、特別な服を身につける必要もない。外見から見て、ゾクチェンの修行中だと思われるようなものは、何一つないのである。本当に修行しているのかどうか、知る方法は何もない。ゾクチェンの修行は、外見とまったく無関係なのである。相対的な条件の中にある全てを修行に取りいれ、両者を一つのものにするのである。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」
これは最初、チェルドルくらいの弱いサマーディの力しかない時は努力が必要でも、シャルドルにきて努力がほとんど不要になり、このことが現実になってきたように思います。今まで、このことがいまいちピンとこないまま、そうなんだろうな、と漠然と思っていたのが、ここにきて、確かにこの通りだ、と思うようになりました。
私は特別にゾクチェンの流派に属しているわけではないですけど、ヨーガ行者も似たようなことを言っていますし、この内容は真実であるように思います。
ただし注意しておきたいのは、これは、何もしなくても最初から悟っているから何もしなくてもいい、と言うことではありません。それは道元が活躍した時代にかつての天台宗の教えとして「人は元々悟っているのだから何もしなくてもいい」みたいな思想が誤解されて広まったようなもので、それを道元は否定して修行が悟りのために絶対的に必要だと説いたわけですけど、最終的な状態が普通の人生だとしても、その普通を生きるためには修行が絶対的に必要になってくるわけです。最初から悟っている人もいないわけでもないですけど基本は修行が必要と思います。
特にシャルドルで静寂の境地への依存から離れたことにより、それまでは、瞑想をしてから静寂の平穏の境地という特別な状態にすることで心の平安と特別な感覚を味わっていました。
しかし、シャルドル以降は、その平穏の境地が日常生活とどんどんと融合して行っているように思います。
日常生活が瞑想状態そのものになり、日や時間によって程度の違いこそあれ、割と、平穏な状態が日常生活にまで広がり、視野が広がって微細に物事を観察できるようになりました。
シャルドル以前も度々そのようなことがあり、それが割と長い時間続くこともあったように思いますが、「努力なし」という観点から言えば、シャルドル以降こそが日常生活の瞑想状態の始まりとして適切であるように今なら思います。
努力なし、というのは完全にそれが不要というわけではなく、時折、そのことに気付きを入れてあげる必要がまだあります。
書物を読むと、次の段階であるランドルになりますとその気付きを入れることすら不要だということではありますけど、シャルドルの段階では努力は不要でも時折気付きを入れてあげる必要があることを実感しています。これは書物で読んだ知識であることはそれはそうなのですが、それよりも、実践として、そのように思うということです。書物で自分状態を確かめられたという点もありますし、書物でやり方を教えてもらった、という両方の側面があります。
そのように、日常生活で単純な気付きを入れるだけで良い段階になると、どんどんと日常生活が瞑想と溶け合わさってゆき、その状態はもはや「特別」なものではなくなります。
ここにきて、日常生活の「普通」の状態こそが素晴らしい生き方だと実感できるようになったわけです。
そもそも、その普通の日常生活がなかなかできないから皆が苦しんでいるわけで、ここが一つの区切りであり、ランドルとまでは行かないまでもシャルドルであればこの「普通」の生活ができるようになったのかなと思います。
「セワ」は、チベット語で「まぜる」ことを意味している。自分の三昧の境地を、日常生活のすべての行動に溶け合わせていくのである。ゾクチェンにおいては、何か変えたりする必要などないし、特別な服を身につける必要もない。外見から見て、ゾクチェンの修行中だと思われるようなものは、何一つないのである。本当に修行しているのかどうか、知る方法は何もない。ゾクチェンの修行は、外見とまったく無関係なのである。相対的な条件の中にある全てを修行に取りいれ、両者を一つのものにするのである。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」
これは最初、チェルドルくらいの弱いサマーディの力しかない時は努力が必要でも、シャルドルにきて努力がほとんど不要になり、このことが現実になってきたように思います。今まで、このことがいまいちピンとこないまま、そうなんだろうな、と漠然と思っていたのが、ここにきて、確かにこの通りだ、と思うようになりました。
私は特別にゾクチェンの流派に属しているわけではないですけど、ヨーガ行者も似たようなことを言っていますし、この内容は真実であるように思います。
ただし注意しておきたいのは、これは、何もしなくても最初から悟っているから何もしなくてもいい、と言うことではありません。それは道元が活躍した時代にかつての天台宗の教えとして「人は元々悟っているのだから何もしなくてもいい」みたいな思想が誤解されて広まったようなもので、それを道元は否定して修行が悟りのために絶対的に必要だと説いたわけですけど、最終的な状態が普通の人生だとしても、その普通を生きるためには修行が絶対的に必要になってくるわけです。最初から悟っている人もいないわけでもないですけど基本は修行が必要と思います。
覚醒の意識の現れである金剛定
金剛定は詳しく記されている書物が少ないのですが、油井真砂さんの「信心と坐禪」が参考になります。
金剛定に至る直前で、心を滅してしまう滅尽定(めつじんじょう)に落ち込まないようにとの注意も同書には述べられていますが、おそらくはこの滅尽定はいわゆる心の本性であるリクパの覚醒意識が現れていない状態なのかなと思います。仏教では割と滅尽定のことを悪者扱いしているような感じではありますけど、見たところ、リクパが現れていない時が滅尽定で、リクパが現れると金剛定ということかなと思います。ですから、それほど悪者にすることもないのかなという気も致しますが、どうでしょうか。
感覚的な私の理解では、非想非非想処の後にリクパがまだなければ滅尽定となり、リクパが現れると金剛定、ということだと思います。ですから、滅尽定を飛ばして金剛定になることもあり得るわけです。私の場合、おそらくは滅尽定はほとんどなかったような気が致しますけど、どうでしょうかね。言いようによっては「静寂の境地」が滅尽定と言えなくもないですけど、私の場合、雑念が静寂になっただけで意識はありましたのでその時も多少はリクパの意識が働いていましたので滅尽定というわけではないような気が致します。滅尽定はそれほど悪者にすることもないと思うのですけどね。どうでしょうか。
個人的には、一時的にそのような「無」とも言える静寂に落ち込むことはあっても、胸の奥から突き動かさされるような鼓動によって「眠ってはいけない」と強制的に起こされてきましたので、滅尽定とかあるいは無想定といったものも含めて、そう心配することはない気が致します。意識でいくら眠ろうと思っても強制的に起こされる力にはあがらうことはできませんし、起きて成長してしまった方が寝て停滞するより遥かに楽なのが現実です。
同書によればこの金剛定は一応は覚醒の意識ではあるのですが、まだ、僅かな煩悩が薄雲のようにかかっている状態とのことです。これは、まさに私の状態と一致します。
「信行最後の煩惱」といふものが、またそこへふうつと薄雲のやうにかゝつて來るのである。夫れは、例へば、潔癖の人が潔に著するといふやうに、(中略)清濁一如の妙機が得られて居ないから、夫れで、つい空に著するといふことになるのである。即ち、無常でなければならない空が、何んとしても恒常の空のやうに思はれるといふ煩惱が、ふつとそこへ涌いて來ることになるのである。これが、空によつて生ずる「空病」としての煩惱である。「信心と坐禪(油井真砂 著)」
このあたりが私の今の課題ですね。とは言いましても、課題というほどの課題でもないですけど。これが禅で言う「空病」だと言われれば、確かにそうなのかもしれない、という気も致します。ただ、この段階はわざわざ「病」と言うほどのものでもない気も致しますが。昔の言葉のニュアンスはもっと軽い意味だったのかもしれませんね。ただの専門用語と思えばそんなものかなという気も致します。
ここで大切なのは、チベット式に言えば日常生活と「まぜる(セワ)ということかなと思います。日常生活の清濁を乗り越えてサマーディの境地と混ぜ合わせて行くことがこの段階を突破する鍵のような気がしております。
このあたりで大切なことはチベット系か禅系の同書が参考になります。
往々にして、このあたりにくると自分が既に悟っているかのような錯覚も時々生じてきたりはするのですけど、これらの本を読むとまだまだだということがよくわかります。
金剛定に至るまでの階梯についても記録しておきたいと思いますが、私の状態を禅の階梯に当てはめてみると微妙で、解釈が2通りできると思います。
創造・破壊・維持の意識が現れる以前は無所有処で、出た後は非想非非想処で、意識(アートマン)が体をダイレクトに動かしていると実感を得たことにより非想非非想処から金剛定に至ったという解釈と、創造・破壊・維持の意識が現れる以前は無所有処か非想非非想処で、創造・破壊・維持の意識が出てきて意識(アートマン)が体をダイレクトに動かしていると実感を得たことにより非想非非想処から金剛定という割と最後の段階に入ってきた、という解釈がそれぞれあります。
このあたりはとても微妙で、これらは禅においては順番に並んではいますが普通の意識のお話と心の本性のリクパの覚醒のお話は割と並行していて、まだ普通の意識がそれほど成長していなくてもリクパの覚醒がある場合があります。
非想非非想処までは無色界のお話ですから、普通の心の平穏さが非想非非想処と言えると思います。一方、金剛定になりますと心の本性のリクパの覚醒のお話だと解釈できます。リクパの覚醒は実のところ普通の心とは割と独立して存在していますから、普通の心が非想非非想処に達しなくても心の本性のリクパの覚醒があれば金剛定に一応はなったように見えるわけです。この辺りに混乱があるように思います。
非想非非想処がいわゆる「静寂の境地だったのかなと思います。静寂の境地に最初に至るところが無所有処で、静寂の境地が安定するのが非想非非想処という解釈もできます。おそらくはそんな感じだったのかなと思います。
非想非非想処までは普通の意識のお話で、心の本性のリクパの覚醒が出てくるのが金剛定の段階だと解釈できます。ですから、仏教の、例えばテーラワーダ仏教においては「非想非非想処などの無色界の禅定は必ずしも習得する必要がなく、それがなくても悟ることができる」、とされているのだと思います。その意味としては、普通の心の平穏さをそこまで突き詰めなくても心の本性のリクパの覚醒はなされる、ということだと解釈できます。
チベット系では普通の心と心の本性リクパが分けられているのですけど、他の流派においては一緒にしているので混乱があるのかなと思うのです。
私の見たところ、非想非非想処から金剛定に進むのがやりやすい気も致しますし、非想非非想処がなくてリクパの覚醒を先にして金剛定に行ってしまうと普通の心の制御が完全ではありませんので、何かやり残したような感じになってしまわないかと思うのですけど、どうでしょうかね。世間のスピリチュアルな修行においてリクパの覚醒だけを目的としてしまうと非想非非想処の静寂の境地がなくて覚醒だけが先行してしまうので、何か、とても不思議な感じの、不安定だけれども覚醒している、という、ちょっと変わったスピリチュアルになってしまうような気も致します。
金剛定に至る直前で、心を滅してしまう滅尽定(めつじんじょう)に落ち込まないようにとの注意も同書には述べられていますが、おそらくはこの滅尽定はいわゆる心の本性であるリクパの覚醒意識が現れていない状態なのかなと思います。仏教では割と滅尽定のことを悪者扱いしているような感じではありますけど、見たところ、リクパが現れていない時が滅尽定で、リクパが現れると金剛定ということかなと思います。ですから、それほど悪者にすることもないのかなという気も致しますが、どうでしょうか。
感覚的な私の理解では、非想非非想処の後にリクパがまだなければ滅尽定となり、リクパが現れると金剛定、ということだと思います。ですから、滅尽定を飛ばして金剛定になることもあり得るわけです。私の場合、おそらくは滅尽定はほとんどなかったような気が致しますけど、どうでしょうかね。言いようによっては「静寂の境地」が滅尽定と言えなくもないですけど、私の場合、雑念が静寂になっただけで意識はありましたのでその時も多少はリクパの意識が働いていましたので滅尽定というわけではないような気が致します。滅尽定はそれほど悪者にすることもないと思うのですけどね。どうでしょうか。
個人的には、一時的にそのような「無」とも言える静寂に落ち込むことはあっても、胸の奥から突き動かさされるような鼓動によって「眠ってはいけない」と強制的に起こされてきましたので、滅尽定とかあるいは無想定といったものも含めて、そう心配することはない気が致します。意識でいくら眠ろうと思っても強制的に起こされる力にはあがらうことはできませんし、起きて成長してしまった方が寝て停滞するより遥かに楽なのが現実です。
同書によればこの金剛定は一応は覚醒の意識ではあるのですが、まだ、僅かな煩悩が薄雲のようにかかっている状態とのことです。これは、まさに私の状態と一致します。
「信行最後の煩惱」といふものが、またそこへふうつと薄雲のやうにかゝつて來るのである。夫れは、例へば、潔癖の人が潔に著するといふやうに、(中略)清濁一如の妙機が得られて居ないから、夫れで、つい空に著するといふことになるのである。即ち、無常でなければならない空が、何んとしても恒常の空のやうに思はれるといふ煩惱が、ふつとそこへ涌いて來ることになるのである。これが、空によつて生ずる「空病」としての煩惱である。「信心と坐禪(油井真砂 著)」
このあたりが私の今の課題ですね。とは言いましても、課題というほどの課題でもないですけど。これが禅で言う「空病」だと言われれば、確かにそうなのかもしれない、という気も致します。ただ、この段階はわざわざ「病」と言うほどのものでもない気も致しますが。昔の言葉のニュアンスはもっと軽い意味だったのかもしれませんね。ただの専門用語と思えばそんなものかなという気も致します。
ここで大切なのは、チベット式に言えば日常生活と「まぜる(セワ)ということかなと思います。日常生活の清濁を乗り越えてサマーディの境地と混ぜ合わせて行くことがこの段階を突破する鍵のような気がしております。
このあたりで大切なことはチベット系か禅系の同書が参考になります。
往々にして、このあたりにくると自分が既に悟っているかのような錯覚も時々生じてきたりはするのですけど、これらの本を読むとまだまだだということがよくわかります。
金剛定に至るまでの階梯についても記録しておきたいと思いますが、私の状態を禅の階梯に当てはめてみると微妙で、解釈が2通りできると思います。
創造・破壊・維持の意識が現れる以前は無所有処で、出た後は非想非非想処で、意識(アートマン)が体をダイレクトに動かしていると実感を得たことにより非想非非想処から金剛定に至ったという解釈と、創造・破壊・維持の意識が現れる以前は無所有処か非想非非想処で、創造・破壊・維持の意識が出てきて意識(アートマン)が体をダイレクトに動かしていると実感を得たことにより非想非非想処から金剛定という割と最後の段階に入ってきた、という解釈がそれぞれあります。
このあたりはとても微妙で、これらは禅においては順番に並んではいますが普通の意識のお話と心の本性のリクパの覚醒のお話は割と並行していて、まだ普通の意識がそれほど成長していなくてもリクパの覚醒がある場合があります。
非想非非想処までは無色界のお話ですから、普通の心の平穏さが非想非非想処と言えると思います。一方、金剛定になりますと心の本性のリクパの覚醒のお話だと解釈できます。リクパの覚醒は実のところ普通の心とは割と独立して存在していますから、普通の心が非想非非想処に達しなくても心の本性のリクパの覚醒があれば金剛定に一応はなったように見えるわけです。この辺りに混乱があるように思います。
非想非非想処がいわゆる「静寂の境地だったのかなと思います。静寂の境地に最初に至るところが無所有処で、静寂の境地が安定するのが非想非非想処という解釈もできます。おそらくはそんな感じだったのかなと思います。
非想非非想処までは普通の意識のお話で、心の本性のリクパの覚醒が出てくるのが金剛定の段階だと解釈できます。ですから、仏教の、例えばテーラワーダ仏教においては「非想非非想処などの無色界の禅定は必ずしも習得する必要がなく、それがなくても悟ることができる」、とされているのだと思います。その意味としては、普通の心の平穏さをそこまで突き詰めなくても心の本性のリクパの覚醒はなされる、ということだと解釈できます。
チベット系では普通の心と心の本性リクパが分けられているのですけど、他の流派においては一緒にしているので混乱があるのかなと思うのです。
私の見たところ、非想非非想処から金剛定に進むのがやりやすい気も致しますし、非想非非想処がなくてリクパの覚醒を先にして金剛定に行ってしまうと普通の心の制御が完全ではありませんので、何かやり残したような感じになってしまわないかと思うのですけど、どうでしょうかね。世間のスピリチュアルな修行においてリクパの覚醒だけを目的としてしまうと非想非非想処の静寂の境地がなくて覚醒だけが先行してしまうので、何か、とても不思議な感じの、不安定だけれども覚醒している、という、ちょっと変わったスピリチュアルになってしまうような気も致します。
周囲の空間が何かに満たされていることを感じる
その何かとは意識であり空間そのものあるいは愛であるとも言うことができると思います。人が愛するような愛ということではありませんので愛というと語弊があるようにも思えるのですが、愛と言ってもそう差し支えないようにも思えます。
ただ、そのような比喩的な言い方よりも、インドのヴェーダンタの説明であるところのサット・チット・アーナンダのうちのアーナンダのことだと解釈する適切のように思います。
これはこの世に普遍的に満ちているアートマンあるいはブラフマンのことで、世界に満ちているアートマンあるいはブラフマンがサット・チット・アーナンダだとヴェーダンタでは言われているのですが、サットが時間に制約されず過去現在未来に渡って永遠に存在するという永続を意味し、チットは純粋意識、アーナンダは一般的には「歓喜」と訳されていますが、それと同時に「満ちている」と言う意味もあります。
これらのうち、私は当初は意識と言う面に即してアートマンの実在を感じるようになりましたが、ここにきて、アーナンダの面における「満ちている」および「歓喜」を実感するようになりました。
ヴェーダンタでは、最初は自己・個として分かれているアートマンとして自覚した後、それが実際には普遍的なブラフマンであることを自覚する、と説明されています。
この順番はおそらく正しくて、当初はただ単に自己の意識としてアートマンを自覚しておりましたが、ここにきて、まだ周囲の数メートル程度の範囲ではありますけど、その近くの空間が「満ちている」ことを認識するようになりました。
■アートマン(ブラフマン)
サット 過去現在未来に関わらず継続する → まだ
チット 純粋意識 → 最初
アーナンダ 満ちている。(歓喜・愛)→ 今回
アーナンダは一般的に言われているように歓喜といえばそうなのですけど、私の実感で言うと、元々の意味である「満ちている」の方が適切のように思います。
普遍的なアーナンダの「満ちている」と言う意識が育ってくると他人も自分のように感じますから、他人を手助けするのも普通になります。ですけど、この世知辛い世間を生きるには誰それ構わず助けるということではなく、知恵が必要のように思います。
この「満ちている(歓喜・愛)」と言う意識はちょっと一般社会の人生を送る上では危ないように思えて、世間には油断ならないずるい人や悪意に満ちている人がいるのですけど、そのような人に対しても普遍的に愛や満ちている感覚をそれなりに感じてしまいますので、この意識で生きていると騙されたり利用されたりすることも多いのかもしれないな、と思ってしまいます。悟りの意識が騙されやすい性質に繋がる可能性もあるように思います。
社会を理解せずに感覚のまま手助けすると悪意のある人あるいは他人を利用しようとしている人にうまく使われる危険性がありますので、社会を生きる上では知恵が必要のように思います。気持ちのまま手助けしてうまくいっていない、という例は多いように思いますね。NGO・NPOの慈善活動も空回りしているように思います。普遍的に手助けしたい気持ちが純粋にある人がいる一方で、そのように無償で働く人をうまく誘導して利用したいだけの人がいます。
本人は純粋意識で動いているだけだった筈なのにどこか特定の利益のために動くようになってしまう、というおかしな例はそれなりにあると思います。政治家では山本○郎のような人が空回りしている気が致しますね。あの人はおそらくは元々は純粋意識から動いていたように思いますけど、知恵が足りなくて、特定の左翼団体の利益のために動いてしまっているような節があります。今はかなり取り込まれてダメになっている感じが致します。これは勿体無いです。普遍的意識があるのであればもっと大衆のために尽くせる筈なのですけど、今は変な思想がこびりついて意味不明になってしまって左翼の利益のために動く人になってしまっています。知恵が足りない例ですね。
このアーナンダの「満ちている」意識が育ってくるにつれて、周囲の人に普遍的に手助けする気持ちも育ってきますが、ここは、一つの分岐点のような気が致しますね。
最初はチットとしての純粋意識であって、それは個としてのアートマンの意識でしかないわけです。その時点ではアーナンダの満ちていると言う感覚は自分の体の範囲に留まります。
そして、ブラフマンというほどの世界全体に満ちたわけではまだないですけど少なくとも周囲数メートルの範囲においてアーナンダの「満ちている」と言う感覚が出てきたことにより、ヴェーダンタの言っている、アートマンとしての個から全体としてのブラフマンへの変化というものを確かに感じることができるわけです。
これは、周囲にあるものに対して意識がとても薄く浸透した、ということもできて、意識が浸透したからと言って体のようにダイレクトに動かしているという感覚は周囲の物体に対してはないのですけど、動かすことはできないですけど、何か薄いものが浸透している、ということをなんとなく思えるわけです。オーラのようにしっかりとした感覚ではなくて、何かが浸透している、という感覚です。オーラの場合はもっとはっきりとしていて、オーラは融合したりすると激しい化学反応のようなものを起こしますけど、基本はオーラは体の近くに留めておきますので、オーラを伸ばした場合のお話とは異なるわけです。
オーラではなく、意識が周囲の空間に満ちていて、その満ちる感覚が体の周囲だけの範囲から、自分の周囲数メートルに広がった、というのが現在の状況です。
今は近くにいる人に対してだけ「自分」を感じますけど、これがどんどんと広がっていって誰それ構わず「自分」を感じるようになったらどうしよう、という気もしますけど、まあ、そんなこと今から心配していてもしょうがないですね。なるようになります。おそらくは。
ただ、そのような比喩的な言い方よりも、インドのヴェーダンタの説明であるところのサット・チット・アーナンダのうちのアーナンダのことだと解釈する適切のように思います。
これはこの世に普遍的に満ちているアートマンあるいはブラフマンのことで、世界に満ちているアートマンあるいはブラフマンがサット・チット・アーナンダだとヴェーダンタでは言われているのですが、サットが時間に制約されず過去現在未来に渡って永遠に存在するという永続を意味し、チットは純粋意識、アーナンダは一般的には「歓喜」と訳されていますが、それと同時に「満ちている」と言う意味もあります。
これらのうち、私は当初は意識と言う面に即してアートマンの実在を感じるようになりましたが、ここにきて、アーナンダの面における「満ちている」および「歓喜」を実感するようになりました。
ヴェーダンタでは、最初は自己・個として分かれているアートマンとして自覚した後、それが実際には普遍的なブラフマンであることを自覚する、と説明されています。
この順番はおそらく正しくて、当初はただ単に自己の意識としてアートマンを自覚しておりましたが、ここにきて、まだ周囲の数メートル程度の範囲ではありますけど、その近くの空間が「満ちている」ことを認識するようになりました。
■アートマン(ブラフマン)
サット 過去現在未来に関わらず継続する → まだ
チット 純粋意識 → 最初
アーナンダ 満ちている。(歓喜・愛)→ 今回
アーナンダは一般的に言われているように歓喜といえばそうなのですけど、私の実感で言うと、元々の意味である「満ちている」の方が適切のように思います。
普遍的なアーナンダの「満ちている」と言う意識が育ってくると他人も自分のように感じますから、他人を手助けするのも普通になります。ですけど、この世知辛い世間を生きるには誰それ構わず助けるということではなく、知恵が必要のように思います。
この「満ちている(歓喜・愛)」と言う意識はちょっと一般社会の人生を送る上では危ないように思えて、世間には油断ならないずるい人や悪意に満ちている人がいるのですけど、そのような人に対しても普遍的に愛や満ちている感覚をそれなりに感じてしまいますので、この意識で生きていると騙されたり利用されたりすることも多いのかもしれないな、と思ってしまいます。悟りの意識が騙されやすい性質に繋がる可能性もあるように思います。
社会を理解せずに感覚のまま手助けすると悪意のある人あるいは他人を利用しようとしている人にうまく使われる危険性がありますので、社会を生きる上では知恵が必要のように思います。気持ちのまま手助けしてうまくいっていない、という例は多いように思いますね。NGO・NPOの慈善活動も空回りしているように思います。普遍的に手助けしたい気持ちが純粋にある人がいる一方で、そのように無償で働く人をうまく誘導して利用したいだけの人がいます。
本人は純粋意識で動いているだけだった筈なのにどこか特定の利益のために動くようになってしまう、というおかしな例はそれなりにあると思います。政治家では山本○郎のような人が空回りしている気が致しますね。あの人はおそらくは元々は純粋意識から動いていたように思いますけど、知恵が足りなくて、特定の左翼団体の利益のために動いてしまっているような節があります。今はかなり取り込まれてダメになっている感じが致します。これは勿体無いです。普遍的意識があるのであればもっと大衆のために尽くせる筈なのですけど、今は変な思想がこびりついて意味不明になってしまって左翼の利益のために動く人になってしまっています。知恵が足りない例ですね。
このアーナンダの「満ちている」意識が育ってくるにつれて、周囲の人に普遍的に手助けする気持ちも育ってきますが、ここは、一つの分岐点のような気が致しますね。
最初はチットとしての純粋意識であって、それは個としてのアートマンの意識でしかないわけです。その時点ではアーナンダの満ちていると言う感覚は自分の体の範囲に留まります。
そして、ブラフマンというほどの世界全体に満ちたわけではまだないですけど少なくとも周囲数メートルの範囲においてアーナンダの「満ちている」と言う感覚が出てきたことにより、ヴェーダンタの言っている、アートマンとしての個から全体としてのブラフマンへの変化というものを確かに感じることができるわけです。
これは、周囲にあるものに対して意識がとても薄く浸透した、ということもできて、意識が浸透したからと言って体のようにダイレクトに動かしているという感覚は周囲の物体に対してはないのですけど、動かすことはできないですけど、何か薄いものが浸透している、ということをなんとなく思えるわけです。オーラのようにしっかりとした感覚ではなくて、何かが浸透している、という感覚です。オーラの場合はもっとはっきりとしていて、オーラは融合したりすると激しい化学反応のようなものを起こしますけど、基本はオーラは体の近くに留めておきますので、オーラを伸ばした場合のお話とは異なるわけです。
オーラではなく、意識が周囲の空間に満ちていて、その満ちる感覚が体の周囲だけの範囲から、自分の周囲数メートルに広がった、というのが現在の状況です。
今は近くにいる人に対してだけ「自分」を感じますけど、これがどんどんと広がっていって誰それ構わず「自分」を感じるようになったらどうしよう、という気もしますけど、まあ、そんなこと今から心配していてもしょうがないですね。なるようになります。おそらくは。