我思う、ゆえに我あり、の2つの側面

2021-06-03 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

デカルトが言ったというこの言葉は、おそらくは元々の意味としては顕在意識のことを言っていたのかなと思います。私は彼について詳しくはありませんが、自分や周囲の実在を疑った時に自分の自意識だけは存在していることを確信したようです。

それ自体は哲学のお話ですので異論はないのですが、この同じ言葉を使って2つの側面を説明できると思うのです。ここでは、デカルトが言った本来の意味としてではなく、言葉通りを解釈した時に現れる2つの側面について言っています。(デカルトも同じことを言っていたのかもしれませんがそれはさておき)

1つは、顕在意識としての「私」
もう1つは、心の本性(いわゆるリクパ)としての「私」

実際のところ、ヨーガやヴェーダンタでは顕在意識としての「私」は一時的に現れては消えてゆくもの、としています。それはサンスクリットでチッタ(心)とかブッディ(決定する能力、思考力)と言われています。それに加えて、ブッディが存在することによって本来は存在していない「私」という感覚「アハンカーラ(エゴイズム)」が現れる、と説明しています。

ここで実在しているのは以下のものです。

・心の本性(リクパ)
・顕在意識としてのチッタ(心)、及びブッディ(決定する能力)

そして、以下が存在しないものです。

・アハンカーラ(ブッディが存在することによって現れる「私」という錯覚)

ここで、デカルトがどれのことを言っていたのかはわかりませんが、言葉の意味としては以下の2つが考えられます。

・心の本性(リクパ)が意思を持つが故に私が存在している。
・顕在意識があるが故に私が存在している。顕在意識としてのチッタ(心)及びブッディ(決定する能力)が意思を持つが故に私が存在しているというアハンカーラ(という錯覚)が生じている。

実際のところ、それなりに瞑想をしたりあるいは一部の人でなければ心の本性(リクパ)が意思を持つことを認識できませんので、デカルトが瞑想なり熟考して同様の答えに達した可能性はあります。

あるいは、普通に考えられるのは、顕在意識としての私が存在するという結論に達した、という可能性ですね。

どちらにせよ可能性としてあるのは概ね2つで、心の本性のリクパが意思を持つことに気づいた可能性と、あるいは、普通に顕在意識が私だという結論に哲学的に達したという可能性です。

実際のところ私は哲学にはそれほど興味はないのですけど、こうして、所々にヨーガやヴェーダンタのお話とクロスするところが出てきて時々興味深く感じたりもします。