少し前までは、時間をかけて少しずつ思考・雑念が溶けて行く、という感じでした。
五感の感覚で言いますと、スローモーションの視界を感じて映画のように感じられたり日常生活を観察状態(ヴィパッサナーあるいはサマーディ)でそれなりに送るということをしてきましたが、その状態はそれほど長くは続かず、いつの間にか状態が落ちていたような感じでした。
そのようなサマーディ状態は多少の意識を必要とし、集中と言うほどでもないですけど多少の意識の気付きを意図することでそれらの状態を保っていました。一旦その観察状態になるとしばらくはそれほど意図せずとも状態が続いておりましたが、そのうち元に戻っていました。
しかし、今は、割と意識しなくてもその観察状態が継続しています。
この、サマーディに意図を必要とするかどうかの大きな境目としては意識が体をダイレクトに動かしていると実感し始めた時で、それ以前は多少の意図を明示的に行わなければサマーディになりにくかったように思います。それほど意図していなくても日によっては自然にサマーディになることもありましたが、基本的には多少の意図が必要だったように思います。
それが、その境目を超えてからは、明示的な意図がなくても割と普通にサマーディ状態になるようになりました。
とは言いましてもそれはそれほど強くはなく、ハイキングで尾根を歩いているようなものです。それほど大変ではないにせよ多少の注意を必要として、それでいて視界は良好な感じです。
これらのことは、チベット仏教的な解釈に基づけばおそらく以下の状態に該当するのではないかと思います。
1.チェルドル → 今まで。自己解脱の僅かな力。
2.シャルドル → 今の状態。
3.ランドル → まだ
シャルドルは中間的な能力であり、海に降ると同時に溶ける雪のイメージによって表現される。この場合、雪は感覚をつうじた対象との関係、すなわち煩悩を意味し、シャルドルは「生じると同時に解放する」ことを意味している。(中略)煩悩によって制約されることはなくなる。ゾクチェンにおいては、あらゆる煩悩や、カルマから生じるあらわれも、ただの飾りになると言われるのはこのためである。執着することなく、単にあるがままのものとして、すなわち自分のエネルギーのたわむれとして、それを楽しむのである。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」
まさにこの記述が私の最近の理解にぴったりで、本来ならばこういうのはラマに伺いを立てて自分の状態を確かめるべきなのでしょうけど、ひとまず、読む限りではこの状態のように思います。今までは、読むことで「そうなのかな?」と思ったりすることはありましたけど以前は理解するだけで確証はなく、今はもっとはっきりとこのことがわかって確信があります。
同署によればこの先に完全なる二元論の克服があるようで、この時点ではまだ完全に二元論を脱したわけではない、ということですが、そこの点においても私の感覚と一致します。この段階でようやく二元論を脱する手がかりを得て「全ては1つ」であることを体感し始めたものの、まだ完全にその境地に浸りきっているわけではありませんので、この記述がそのまま私に当てはまります。
この状態ですと基本的にはそのように自然に煩悩が自己解脱するのですが、それでもまだ二元論の幻想に包まれることがあり、特に朝の目覚めた後には煩悩やタマスな感覚が残ってしまっているように思いますのでそれらを取り払うためにまだ座った瞑想は必要なように感じています。