シャルドルで静寂の境地への依存から離れる

2021-06-06 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

それまでは、ある程度まで静寂の境地に頼っていました。

自己解脱するシャルドルの能力が育ち始めてから、静寂の境地への依存がかなり減ったように思います。

それまでも、観察すると雑念が消失するチェルドルにおいて静寂の境地から多少は離れることができていましたが、基本的には静寂の境地に頼っていました。

今は、心の動きとはそれなりに離れたところで想念が自己解脱する状態になっています。

特にヴィパッサナー系の瞑想の流派において「心の静止は必ずしも必要ではない」とか「集中力はある程度は必要だが集中によるシャマタ(止)は必ずしも必要ではない」などと言われていて、そこでは「静寂の境地は必ずしも必要ではない」みたいな文脈で物事が語られていますけど、それはこの段階においては確かにそうかなと思います。しかし、それ以前の段階においては静寂の境地は必要だったように思います。

確かに、理屈としてはヴィパッサナー系の流派のいう通りかなとは思うのですがそれはかなり困難で、特に現代のような雑多な世界においては特にそうで、今は特に段階を踏んで瞑想をする必要があるのかなと個人的には思います。昔のようにシンプルな社会においては特に集中をそれほどしなくてシャマタ(止)の静寂の瞑想をせずともいきなり観察状態のシャルドルにまで達することができたのかもしれませんけど、現代においてはそれは難しいのではないでしょうか。

ヴィパッサナーという言葉には手垢がついていて色々な解釈ができてしまいますけど、シャルドルという言い方からすれば意味は1つしかなくて明確な気が致します。

この段階に至れば、確かに、静寂の境地への依存から離れ始めたような気が致します。

かといって雑念だらけになるというわけでもなく、そこは自己解脱の能力がありますから、ありのままの状態を保つだけで雑念が自己解脱してサマーディの状態に保たれるわけです。