スピリチュアルにおける鏡と心

2021-06-07 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

スピリチュアルにおいて鏡は心を説明する比喩として使われることがあり、心とは周囲を映し出す鏡のようなものだ、とよく言われます。

実際のところ、この比喩は様々な文脈で用いられますので、何度となく読んだり聞いたりしたように思いますが、大体はその説明に具体性がなくて、個人的にはそのほとんどを「ふうん」という感じで「だから何?」と思って割とスルーしていました。

例えばスピリチュアルでは「他人は自分を映す鏡」という比喩を使います。まあ、「そうかな」という感じで割とスルーです。この文脈の意味としては、「他人に感じる感情は実はあなた自身の内にあるのです」みたいな意味合いですけど、それはそうなのですけど、まあ、私はそれだけでは満足しないのです。ありきたりすぎてスルーしてしまいます。これを知ったところで問題は解決しないのです。仏教の顕教の道徳みたいなお話ですよね。これを言われたところで人はそうそう変われません。実際には変わらなくてはいけないような自己なんてないのですけど、そういった本質にすらこれでは気付けません。

又、ヨーガ系においては心は鏡、という比喩が使われます。これは、上記のようなスピリチュアルな解釈も含んでいて他人なども心に映すのですがそれよりも「真の自分(ヨーガ的にはプルシャ)」を映すための鏡としての心があります。

このヨーガ的な解釈はスピリチュアルや仏教の顕教の解釈よりも一歩進んでいて、心の鏡が他人を映すだけでなく本当の自分(プルシャ、あるいは真我・アートマン)を映す鏡として存在していることを説明しています。ヨーガが説くところによると、自分自身の心に色(汚れ)がついているので真の自分(プルシャ)を見ることができない、と言います。よって浄化を進めれば心によって自分自身の本性(プルシャ、あるいはアートマン)を心によって確かに純粋に見ることができる、と言います。

これはこれで真実ではあるのですが、まだまだ外側からアートマンを見ている状態です。この浄化された状態ではアートマンそのものを捉えたわけではなく、心に映った純粋なアートマンを見ている状態です。ですから、この視点では心の本性(プルシャ、アートマン、リクパ)そのものをまだ捉えられてはいません。

あるいはヴェーダンタでは同様に心と鏡の比喩を説明し、同様に浄化のお話もします。そして、浄化のためにヴェーダンタの教えを道具として使って曇りを取り払う、ということを言ったりします。あるいは、真実を映すための鏡としてヴェーダンタがある、と言っている流派もあるようです。

それはそれで比喩としてはどれも正しいとは思いますが、どれも私を満足させません。

私を唯一満足させる鏡の比喩としては、ゾクチェンのものです。

ゾクチェンは「鏡そのものであること」が二元論的な視点を突破する鍵だとして鏡の比喩を用いています。

・鏡そのものである状態は、心の本性リクパが働いていて一元論のサマーディ状態にある
・鏡を覗き込んでいる状態は、普通の心が動いていて二元論的な状態に留まっている。

鏡が曇っている場合は普通の心ははっきりと対象を映し出さず、浄化されて心が綺麗になれば他人や自己(プルシャ、アートマン)を綺麗に映し出すが、それは外側から見ているに過ぎないわけです。

鏡そのものであるということと、鏡のなかをのぞきこんでいるというのは、まったくちがう。もしも自分が鏡そのものであれば、二元論的な顕現は存在しない。(中略)鏡の状態に入っていれば、どんな像が映し出されても、何も問題ない。(中略)それが自然解脱だ。何も変化させたり、修正したりしない。ただ自己の本質にとどまりつづけるのである。「叡智の鏡(ナムカイ・ノルブ著)」

これは、一部のニューエイジやスピリチュアルによって語られていたことでもあります。

しかし、実際にこの状態になるのと、理屈で理解するのとでは全く違いますので、実際にこの状態にならなければ理解できないものであると思います。

個人的には、このゾクチェンの鏡の比喩が理解できるようになったのは自己解脱するシャルドルという能力が育ってからのことです。それまでは、わかるようでいてよくわからない状態でした。ここにきて、はっきりとこの比喩が正しいということがわかります。