日常生活とサマーディを掛け合わせてゆく

2021-06-07 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

シャルドルで静寂の境地への依存から離れたことにより、日常生活とサマーディの状態を次第に共存できるようになってきたような気が致します。

それまでは、基本的にはサマーディは静寂の境地を土台としており、静寂の境地とは瞑想で言えばシャマタ(止、あるいはチベット語でシネー)の状態でした。

心の声は無限に繰り返されますが、シャマタ(止)の状態では心の声と次の心の声との間が長くなります。完全にゼロにはなり得ませんけど、間隔が広がるわけです。そのことをシャマタ(止あるいはシネー)と呼びます。

これは瞑想の基礎であり、とても重要な基礎であるわけですけれども、テーラワーダ仏教などのヴィパッサナー系流派はこれをさほど重要視せず、「集中はある程度は必要だけれども基本的には観察さえしていれば良い」という立場を取ります。このことが私は今まで腑に落ちないでいたのですが、どうやら、これはそれなりに高い境地からの説明が瞑想の最初の初心者向けの説明とごちゃ混ぜになっているのだと気が付きました。

最近の、サマーディのシャルドルの状態であれば確かにその通りで、「集中はある程度は必要だけれども基本的には観察していれば良い」というのは文字通り正しくて、サマーディの力が発達しさえすればそれで良いのですけど、最初からそうするのは無理だと私は思うのです。

とは言いましてもこれは主観的なお話ですから、自分がさほど集中していないと思えばきっとそうでしょうし、集中しているつもりでもさほど集中していない、あるいは、集中していないと思っていてもとても集中している場合もあります。ですから、このような瞑想のお話の主観のお話はほどほどに聞いておくのが良くて、あまり真に受けない方がいいと個人的には思います。こんなこと言うと流派を真面目に修行している人に怒られてしまうかもしれませんけど、この種の精神修行は真面目過ぎない方がいい、と言うのが私のスタンスで、結局は自分がその境地に至れば理解できるのだから、説明としての理解はとりあえず横に置いておいて参考程度にするかあるいは確かめに使うくらいで良いと思っています。

そのように、ヴィパッサナーの流派では初心者に対して言っていますが私はそれは初心者向きの説明とは思っていなくて、ある程度のサマーディの力が育った人に対する説明なのだと思っています。まあ、その流派の人に言わせてみれば「それは違う」と言うことなのでしょうけど、まあ、いいのです。これは「混ぜ合わせ」しているのではなくて、単に「表現を借りてきた」だけのことです。

それと、私の守護霊の1人はチベットで修行して悟った修行僧なので系列としてはチベット系のお話と相性が良いのでチベット密教だとかゾクチェンおよび最近はヴェーダンタ等の理解も軸にしている感じです。

私は基本的に自分の瞑想体験を基本としていて、その説明のために流派それぞれの理屈及び説明を必要としているだけですから、流派を混ぜ合わせとかそう言うのはあまり関係ないのです。傍目には混ぜ合わせに見えるかもしれませんけど。どの流派にも近い流派との混合というのはそれなりに見られますしね。ですけど、根本というのは一緒ですから、塩水の味を知っていれば地中海の水も大西洋の水も太平洋の水もそれぞれ味や見た目はかなり違いますけど共通して塩辛いことが理解できるわけです。

まずはシャマタ(止)があって、その基礎の上にヴィパッサナーがあると言えなくもないですけどヴィパッサナーと言うと幅広い意味がありますので、それよりは、シャマタ(止)の後にサマーディ(三昧)があって、最初はシャマタ(止)による静寂の境地に依存したサマーディ(サヴィカルパ・サマーディ、チェルドル)から始まって、やがてサマーディが深まるにつれて静寂の境地に依存しないサマーディ(ニルヴィカルパ・サマーディ、シャルドル)に移行するわけです。

そして、このシャルドルの状態になると静寂の境地への依存から離れて、ヴィパッサナーの流派が言うところの「集中はある程度は必要だけれども基本的には観察していれば良い」と言う状態になって、それはヴィパッサナーの流派から言わせればヴィパッサナー状態なのかもしれませんけどそれよりはむしろ普通にサマーディ状態(ニルヴィカルパ・サマーディ、シャルドル)と言った方がわかりがいいわけです。

この状態になると、ゾクチェンが伝えるところの「サマーディと日常生活をセワ(混ぜる)」と言うことが重要になってくるような気が致します。

シャルドル以前では、これはなかなか難しかったように思います。いわゆるサヴィカルパ・サマーディの状態では自分自身の意識が多少は働いている状態でしかサマーディを保てず、サマーディ状態から落ちたらまた瞑想をして静寂の境地に戻ってからサマーディ状態に復帰していました。

ここにきて、サマーディの力がそれなりに強くなり、日常生活とサマーディを混ぜることができるようになったように思います。そうは言いましてもサマーディの力がまだ凄く強いわけではありませんので少しづつではありますけど、以前より随分と日常生活でサマーディ状態を保てるようになったように思います。

「セワ」は、チベット語で「まぜる」ことを意味している。自分の三昧の境地を、日常生活のすべての行動に溶け合わせていくのである。ゾクチェンにおいては、何か変えたりする必要などないし、特別な服を身につける必要もない。外側から見て、ゾクチェンの修行中だと思われるようなものは、何一つないのである。(中略)相対的な条件の中にあるすべてを修行に取りいれ、両者を1つのものにするのである。もちろん、そのためには三昧が確固たるものである必要がある。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」

相対的な条件、と言うのはまだ外側のものとして認識している日常生活の全てで、それら一つ一つを一元論のサマーディの境地に掛け合わせてゆくことがこの段階では必要になってくるように思います。

実際のところこれは瞑想に熟練したヨーガ行者でも同じようなことが言われており、ゾクチェンに特有のものではないとは思います。

ここ最近は基本的にはこのように日常生活でのサマーディを保つように心がけており、そうは言いましてもサマーディ状態から少しづつ落ちてきますので、時折、明晰な静寂の境地に一旦戻してリセットしてから再度日常生活でサマーディを保つようにする、というサイクルをしています。

それはもちろん静寂の境地が目的ではなくて目的としては「セワ」ですので、スタート地点としての静寂の境地(シャマタ、止、シネー)なわけです。