心の動きを観察することが悟りへの鍵

2021-06-13 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

全ての修行はこのシンプルな働きに繋がっているのだと今はわかります。

心の制御をする修行、例えば心の動きを静止させようとする修行(シャマタ、止)ですとか心の動きを観察しようとする修行、例えばヴィパッサナー瞑想などは全てこのシンプルな心の観察の状態に至るための前段階であると言えます。

ここで、最初は「しようとする」という意図が入ってきています。これは普通の意図する心の動きで、それ自体は普通の心の働きです。

その先に、そのような意図なくして心の動きを観察できたり心それ自体が意図してくる段階があるわけです。

そして、そのような心の観察こそが悟りへの鍵であると今は感じます。

・・・これはとても誤解を生むお話ではあるのですが、この種の「観察」は実際にそうなった時にそれとわかるもので、それ以前は、この「観察」は現れておりませんので何のことかわかりません。最初はそれは一瞬の体験であるでしょうが、しばらく続けていくうちにその時間が増えてゆくわけです。

心を静止するにも心を観察するにも、土台となる本性ができていなければそれを達成することはできません。その本性が何なのかというと空(くう)であるわけですが、一般的な普通の心の奥底に眠っている空(くう)としての心の本性(いわゆるリクパ)が普通の心を観察することこそが悟りへの道なのだと今ははっきりとわかります。

ですから、最初は特に難しいのですが、ただ心の動きを観察することが悟りへの道であると思うわけです。

ただ、この道はとても落とし穴が多く、ハマってしまう方も大勢いられるように思います。

ですから、まずこのことを理解しておきつつも、最初はシャマタ(止、シネー)の瞑想から始められるのが段階としてはいいように思います。

普通の心を静止(シャマタ、シネー)してから、少しづつその静止を解いてゆくのです。そして、解いてゆく間、心の静寂さと心の気付きを保つようにするわけです。それは、いきなり心の動きを観察するよりずっと簡単です。

もちろん、できるのであれば普通の生活においていきなり心の動きを観察しても良いでしょう。しかしながら、瞑想に上達していない普通の人の場合はその心の動きに囚われてしまって幾度となる来る思考の波にずっと翻弄されることになります。一方、一旦心の動きを静止(シャマタ、シネー)してから少しづつ緩める、ということをすれば、心の動きの観察を自分ができる範囲で制御しながら行うことができます。それがコツです。

実際のところ、シャマタ(止、シネー)の瞑想はそれ自体で一応は完結していてその結果としては静寂の境地があります。それはそれで心が休まって安らかになる境地ではあるのですが一時的なもので、やがては普通の雑多な心に少しづつ戻っていってしまうものなのです。

それは一時的なものではあるのですが、その時、心の動きを観察できる余地が出てくるわけです。

日常生活においては激しすぎて難しい心の観察を、一時的に動きを鎮めて静止させた状態においてある程度の制御下に置きながら心の観察をするわけです。

やがて普通の状態に戻っていくでしょうが、それは無駄なことではないわけです。

このことを、一部の流派がことさらに「シャマタ(止、シネー)の瞑想は一時的なものに過ぎない」みたいにあげつらいますけど、実際のところ、瞑想とは手法であり、道具なのですから、ものは使いようなわけです。

最終的な状態は心の本性(いわゆるリクパ)が剥き出しになって常に日常生活において瞑想状態を保って観照を続けることですから、そのために、普通は難しいその観照を修行によって一時的に達成するのは無駄なことではないわけです。

その観照こそが目的でありますから、静寂の境地という一時的な状態にしがみついたりするのは間違いですから指摘する必要はありますけど、そうは言いましても、ものは使いような訳で、最初はしがみついていたとしても、それなりに自分で物事を考える行者であればやがて自分のしていることに気がついてゆくわけです。まあ、理解力のない方もいらっしゃるとは思いますけど、聖典を勉強していて常に疑問を持っていれば色々と気が付くことがあるはずなのです。何事も、他人に言われたままではなく自分で納得するまで考えるのが良いと思います。

ですから、聖者たちがどの段階について言っているのかを理解するのは重要で、特に、この種の観照のレベルを語っている聖者のお話を聞くことで凡人がシャマタの瞑想(心の静止の瞑想、シネー、止)との矛盾点を洗い出してシャマタ瞑想は意味がないとか言い出すわけです。実際には、どちらもそれなりの意味があって、段階が違えば違う視点が出てくるだけなのです。

特に最初はシャマタ(止、シネー)の集中瞑想から始めるのが基本です。

ですけど、ゴールとしてはそこではない、ということを抑えておけば十分かと思います。

実際、心の本性(リクパ)による観照の場合は、普通の心の動きの裏側で普通の心の動き全てを観察したり意図したりする働きのある意識として現れてきます。

ですから、普通の心が何かを考えていても心の本性(リクパ)による観照状態はありますし、普通の心が何も考えていない状態においても心の本性(リクパ)はその、何も考えていない普通の心というものを観察して意識しているのです。

ですから、本質を言ってしまえば普通の心の働きと心の本性(リクパ)の動きは別物ということもできて、普通の心が静止(シャマタ、シネー)していようが、あるいは普通の心が動いていようが、心の本性(リクパ)の動きには関係ないのですよね。

普通の心が動いていようが止まっていようがその全てを観察し続けるのが心の本性(リクパ)の動きなわけです。

ですけど、最初はそれは難しいですから、心の静止(シャマタ)の瞑想の修行から始めるのが基本なわけです。

本当はその普通の心と心の本性(リクパ)はひと続きなのですけど、修行としては、別々のものとして説明した方がわかりやすいですし、特に最初はそのような現れになっていて心の本性(リクパ)の動きはほぼないも同然ですから、それほど間違っているわけでもないわけです。