スピリチュアル 2.0

2021-06-22 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

普通の心と心の本性を一緒くたにしているのが今までのスピリチュアル1.0です。
それらが分かれているのがスピリチュアル2.0です。

これは(少なくとも今のところ)個人的な定義で、一般的な定義ではありません。

世の中にあるスピリチュアルは、願望実現だとか現実を引き寄せるだとか言っていますけど、それらは普通の心の願望を叶えるのですからスピリチュアル1.0のお話です。

オーラの法則とかいうお話も普通の心と心の本性を一緒にしておりますのでスピリチュアル1.0です。

普通の心による集中状態と観察状態というお話で瞑想が理解されるのが1.0です。
それらと合わせて心の本性が現れた覚醒状態(リクパ)が分かれて理解されているのが2.0です。

ハイヤーセルフとかのお話は割とスピリチュアル2.0の先駆けではありますけどハイヤーセルフが自分の心の本性のお話ならば2.0ですけど実際はチャネリングのような自分とは分かれた別の存在として解釈されていることも多いですので割と昔ながらのスピリチュアル1.0に巻き込まれてしまっているように思います。

自分の思考する心が満足するために行う精神的な行いが昔ながらのスピリチュアル1.0です。
お祈りをしたり祈願をしたりマントラを唱えたり体を動かして心を鎮めたりするのは1.0のやり方です。道徳的なお話も1.0です。

心の本性が現れている状態である覚醒状態(リクパ)で行う祈りや祈願やマントラは姿形としては1.0に似ていたとしてもまた違った様相になります。

スピリチュアル1.0の愛というのはお腹のあたり(マニプラ)の愛だったりハート(アナハタ)の愛だったりします。
スピリチュアル2.0の愛というのはそれらを超えていて、その両者であるとも言えなくもないですけどそれを超えた心の本性の働き(リクパの覚醒)による愛になります。

世間でスピリチュアルで活躍されている方はだいたいマニプラかアナハタに分類されて、わかりやすいイメージで言いますと、マニプラの愛はお稲荷さんとかの狐とかが強く現れる夜の世界のホステス的な愛で、お金儲けとか願望実現が得意です。アナハタになりますとまだお金儲けとか願望実現は別の形になりますけどまだ存在しています。これもまたスピリチュアル1.0の姿です。

ですけど、スピリチュアル2.0になりますと願望実現とかのような個人としてのお話は段々と消えてゆくのです。

もはや、自分も他人も一緒なのですから、あまり自分の願望実現というものを気にしなくなります。

自分の心の本性が現れた状態(リクパの覚醒状態)は、言い換えれば「スピリットが自分を動かしている状態」であるとも言えます。そうであれば、自分の顕在意識というのはスピリットの道具なのですから、顕在意識における願望実現というものは全て消えてゆきます。ただ(自分の)スピリットがこうなりたいからそうする、という状態になります。(自分の)スピリットが望むものはそのようになる、ということを理解します。そうすれば、願望実現などしなくなります。これがスピリチュアル2.0です。

自分自身が聖なる道具であることを理解して自らのスピリットに委ね始めます。実際はここではもはや「自分」という感覚はなくてただスピリットなのですけど、読む人にわかりやすいように一応「自分」とつけていますけど、確かにそれは自分のスピリットではあるのですけど、スピリットの意識は偏在しておりますので、あまり自分とか他人とかいう区別はないのですよね。

ですから、自分の役割があればそれを行う、というだけのお話になります。ですから、他人を見て嫉妬したり区別したりということがなくなってゆきます。そういう嫉妬や区別は顕在意識において今まで通り存在していて、顕在意識が嫉妬や区別することもあるのですけど、スピリットが優勢になるとそのような顕在意識の動きを諌めるようになって、顕在意識の一時的な混乱は割とスムーズに自動的に解決されるようになりますこれがスピリチュアル2.0です。

道徳的なお話で自分を律する、というのはスピリチュアル1.0のお話です。
心の本性が現れてきて、リクパの覚醒状態にある時、それはスピリットが自分を操作するということでもあります。スピリットが自分を動かすようになれば道徳的なお話は単なる道徳ではなくてスピリットのあるべき姿なのだと理解します。それがスピリチュアル2.0です。

自我が抵抗していたり自我の欲望を叶えることを美しい言葉で覆い隠してお花畑で囲んであたかもそれが素晴らしいように見せるのもスピリチュアル1.0です。願望実現だとか引き寄せの法則みたいなものも、実際は単なるエゴの満足でしかないものを美しい言葉で着飾って自分を誤魔化している部分も多々ありますのでスピリチュアル1.0です。

スピリットが望むものは何であれスピリットが望むままになります、というのがスピリチュアル2.0です。

顕教を道徳的な枠組みで理解するのがスピリチュアル1.0です。
顕教をスピリットのあるがままの姿として理解するのがスピリチュアル2.0です。

チベット仏教のお話はこれらのお話を包括的に説明していて、お話のベースになり得ると思います。

新しいようでいて古いお話なわけです。