普通の心である顕在意識による気付きは順番に(シーケンシャルに)起こる気づきで、心の本性による覚醒状態リクパの気付きは同時に並列に起こる気づきです。
これはどういうことかと言いますと、普通の心である顕在意識は1つのことしかできないのです。
ですから、五感から何かを感じ取った時にそれを感じた瞬間は単に五感からの入力で、その後、はっ、と気付いて何か認識が心の中に浮かび上がるわけです。入力と気付きとが同時ではなく、順番に起こっています。これはとても微妙なお話ですので、最初はほぼ同時に感じられるかもしれませんけど、そのうち、この微妙な差異というのが瞑想するうちにわかってきます。
とは言いましても、それに普通の心で気がつくというのはそこまで重要ではなくて、心の本性の覚醒状態リクパと比べるとそうなっている、ということを理解することの方が大切だと思うわけです。
普通の心で五感の入力とそれの気付きが分かれているということに気付くというのは、普通の心が早くなったということであり、それはそれで成長ではありますけど、あくまでも普通の心の成長なわけです。そのためにはそれなりの心の平穏が必要なわけで、心の平穏があるということはそれ自体は成長ではありますけど、その時点ではあくまでも普通の心のお話なわけです。
心の本性の覚醒状態リクパにおいてこれらは普通に把握できるようになりますので、リクパの状態なしにこれらの分離に気付くことは必須ではないと個人的には思います。気付く人がいるならそれはそれでいいとは思いますが、リクパなしに気付こうと思ったらそれなりの努力が必要になり、それは普通の心の強化でありますから、リクパなしにそれをしてしまうとエゴが拡大してしまう危険性もあるわけです。リクパなしに普通の心が早くなったらキレやすくなったりといった副作用が現れる可能性があるわけです。ですから、これは基本的にはリクパの状態で気付くもので、それ以前に気付く必要はあまりないのかなと個人的には思います。
流派によっては階梯の1つとしてこの段階をカニカ・サマーディとか呼んでいるように思いますけど、特にこれを通過しなくてはならないというわけではない気が致します。通過する人もいるかと思います。
そのように、順番に起こる気付き、というものがあります。
一方で、覚醒状態リクパにおける心の本性による気付きというのは、並列に同時に起こります。
思考があれば、その思考を同時並行に観察します。
雑念があれば、その雑念を同時並行に観察します。
体の五感からの入力があれば、その入力を同時並行に観察します。
単に五感が鋭くなっただけではなく、それに同時並行に気付くことができます。
これを、流派によっては修行の一環としてこのようにしなさい、なんて言っているところもありますけど、これは私の見たところ「結果」であって、「(修行など、何かを達成するための)手段」ではありません。
このように並列に観察しましょう、と言われても、特に最初は無理なお話だと思います。
瞑想とは「するものではなく、現れてくるものだ」とはよく言われたもので、自動的に現れてくるのがこのような瞑想状態ですから、それを説明してその通りにしなさい、と言われてできるものではないわけです。
結果ということもできますし、目標ということもできますけど、それは一時的なものではなくて、継続した状態なわけです。
そのように、覚醒状態リクパにおいては並列の気付きが常時働くようになります。