ヨーガやスピリチュアルではこれら3つのお話が度々出てきます。
最初の2つは割と自明ですけど、最後の「知ること(手段)」は、文献によっては「進行形(〜ing)」のことだったり「手段」として説明されていて、あまりはっきりとしません。
スピリチュアルでもこれが引用されていて、ヨーガの説明やヴェーダンタ的な解釈とはそれぞれ微妙に異なっていたりします。ですけど、概ね、以下の2つの解釈に分類できると思います。
■解釈1:普通の心を軸に説明したもの。ヨーガスートラ的解釈。スピリチュアルでたまに見る解釈
・普通の顕在意識の「私」が「知るもの(者)」
・物体や認識・知識の対象としての「知られるもの」
・「知ること(〜ing)」あるいは「知る手段」(としての行動を基にした)としての「(普通の)心の認識」
ヨーガスートラではこれら3つが1つになる時がサマーディ(三昧)という説明がされています。
それは確かにその通りかとは思うのですけど、これら3つ全てを観察するものとしてのアートマン(プルシャ、心の本性)が現れた状態がサマーディ、ということですので、1つになる、というのはわかりにくい表現かと思います。最初はアートマンとしての意識は出ていませんけど、アートマンの意識がこれら3つを観照する状態になることがサマーディということです。
このことが分かりにくければ、とりあえず、「知ること(〜ing)あるいは、知る手段」がいわゆるアートマン(プルシャ、心の本性)に置き換わる、と考えてもひとまずは良いかとは思います。この場合の解釈としては、アートマンが「私」としての「知るもの(者)」も「知られるもの」のどちらも含めて知っている状態(認識状態)になるのがサマーディということです。それは「観照」ということもできますけど、「知るもの(者)」も「知られるもの」の両方を観察している状態がサマーディということであり、それをヨーガスートラでは「これら3つが1つになる」と説明しているわけです。表現として難解ではありますけど、こういうことだと解釈すればすんなり理解できます。
この時、「知ること(〜ing)あるいは、知る手段」は物理的な行動のことだけでなく心の作用についても言及しているわけです。ですから、実際には「知るもの(者)」も「知られるもの」の2つだけでなく、「知ること(〜ing)あるいは、知る手段」としての普通の心の作用も含めてアートマンは観察しているわけです。ですから、本質で言えば3つ全てを観察しているのがアートマンということではあるのですけど、とりあえず、理解のためには2つだけをアートマンが観照するようになる、と理解しておいてもそう間違いではないと思います。
■解釈2:アートマン(プルシャ、あるいは心の本性)とそれ以外を説明したもの。ヴェーダンタ的解釈
・アートマンが「知るもの(者)」
・アートマン以外のこの世の全てが「知られるもの」
・認識対象を受け取る「手段」としての「心」(普通の心、顕在意識)
これはこれで明確なのですけど、この場合、3つのものが1つになるとかそういうことはなくて、単に3つの分類として説明されているだけです。
ですから、似たようなこの3つのお話が出てきた時、「知るもの(者)」が普通の心の顕在意識のことを意味しているのかあるいはアートマンのことを意味しているのかで解釈が大きく変わってきますので、スピリチュアルやヨーガおよびヴェーダンタの文献を読むときはそのコンテキストに注意が必要かと思います。