アートマンの意識は自己の周囲にあまねく満ちている

2021-07-02 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

あまねく、とは言いましても今は自分の周囲数m程度の範囲ではありますが、意識が満ちていることが良く分かります。「満ちている」ということを別の言い方で言えば「ダイレクトに満遍なく繋がっている」ということもできますし、昔ながらの瞑想的な言い方であれば「観照」ということもできます。

これらは、対象があってどこかから見ている、という普通の目のお話ではなくて、満ちている意識それぞれが満遍なくそれぞれの場所にダイレクトに繋がっていて特に体であればその満ちている意識が体の隅々(とは言いましても濃淡は多少ありますが)まで広がっていて体それぞれの部署とそれぞれに満遍なく意識が繋がっているわけです。リモコンみたいに繋がっているわけではなくて、満ちている意識が体と重なっていて、というか体もその意識そのものであるかのように感じられて、意識と体、そして、意識と周囲の空間とがそれぞれ繋がっているわけです。

何もない空気だけの空間であっても同じで、そこにも意識が満ちています。

この意識のことをインドのヴェーダンタでは「アートマン(真我)」あるいは「ブラフマン」と言って、古来から、その実在性が聖典で伝えられてきました。

実際のところ、インドで伝わっているこの種のお話は基本的には勉強のお話ですが、ヨーガや瞑想などをすることによってこれらを勉強だけでなく実際に経験できて継続的にその状態になることができることを最近は実感しています。

瞑想で言えば「観察」ということもできますけど、顕在意識による観察ではなくて、アートマン(真我)による観察のことです。それを言い換えれば「観照」ということもできます。

このアートマン(真我)をハイヤーセルフということもありますけど、ハイヤーセルフは様々なコンテキストで使われていて定義がはっきりしないため、アートマン(真我)の方が適切かと思われます。。

意識が空間に満ちていて、その空間には自分の体も含まれて、その意識が体をダイレクトに動かしていることを実感し、それと同時に、体の感覚が希薄になっています。

これは、言葉だけを聞くと「ロボットみたいになったこと?」と思われるかもしれませんが、逆で、アートマンと肉体および普通の心(顕在意識)とが一体になっている状態ですので、より人間らしくなっていると言えるかもしれません。かといって特に愛想が良くなったとかそういうことはそんなにはなくて意識の状態だけのお話ですけど、アートマンと人と心を言い換えればキリスト教で言うところの三位一体と同じことかなという気も致します。

キリスト教では三位一体として父(神)・子(キリスト)・聖霊が1つとうたっていますけど、(キリスト教徒にこんなこと言うと怒られてしまうかもしれませんけど)それぞれがアートマン(としての意識)と人間の肉体と普通の心が一体になることを表現しているのだとすれば、同じことであると言えると思います。

比喩的に言えば神の意識と言ってもそう間違いではないアートマンの意識が自分の周囲に満ちていて、体と心および周囲の空間をも貫いて一体になっているわけです。



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