仏教で禅定は色界4つ(形のあるものが4つ)・無色界4つ(形のないもの=心の世界が4つ)の合計8つで、その後、滅盡定を経て金剛定にてプルシャ(アートマン)の独存、最後は「全体」としてのブラフマンへの合一というステップになります。
このあたりは明確に記されている書物が少なくて、きちんとこの辺りを理解して書いている書物は手元にあるものでは2つあり、1つは本山博先生の書物で、もう1つは油井真砂先生の「信心と坐禪」です。
テーラワーダ仏教も色界禅定から無色界禅定の途中までは割合とわかりやすいのですが、無色界の後の方の記述は曖昧で、はっきりとしません。
ヨーガはその最終目的地がプルシャの独存で、ヨーガスートラなどが詳しいです。
インドのヴェーダンタは最終目的地である「個」としてのアートマン(サンキャ哲学におけるプルシャに近いもの)と「全体」としてのブラフマンに関する記述はとても詳しいです。
チベット仏教、特にゾクチェンの見解は瞑想をする上で理解の役に立ちます。
どれも1つで全てをカバーしているわけではないのですが、手に入りやすい文献としては本山博先生の見解がとても参考になります。
最後の段階は「空」とも比喩されますけど、いわゆる「悟り」と同義だと思って頂いて良いかと思います。それまでは「空」を垣間見たり理解する段階ですけど、最後にはその「空」と一体になるわけです。この最後の段階は「覚醒」とも言えるかもしれませんけど、覚醒という言葉だけであればもっと早い段階で起こるといえば起こりますので、全体のブラフマンとしての自覚であれば最後の段階にならないと起こらないわけです。
本山博先生の著作はヨーガだとか超能力だとかそういうテーマも多いのでチャラチャラしているかのように誤解されることもあるのですけど、インドのスワミとの交流もあってかなりヨーガに詳しいですし、文献を読むと、この人はわかっている、というのが伝わってきます。
私が最近になってようやく理解した上記の階梯にしても本山博先生の著作でその裏付けがなされたわけですし、その著作は30年以上前に書かれたものだったりします。まさに大家ですね。
最近読んだ本山博先生の著作によれば、仏教は元々ブッダが愛に飢えていた節があり、色界と無色界に分けるだけで良いものを、色界に含まれている欲界をわざわざ別にしていたり、最終目的地にて愛を説くというのは結局はブッダが愛に飢えていて、それは母親が早くに死別して無償の愛を受けられなかった欠乏感によるものだ、と述べていて、そうかもしれない、と思わされました。
それによれば、仏教の禅定の最後の方を通り抜けてブッダが明らかに悟っていて、それはまさに上記のような階梯であるということです。
ブッダに関しては色々と誤解があってヴェーダ系と対立していたとか言われていたりもしますけど、境地からすれば同じ境地に達していたのだと思います。であれば、世間で言われているような、仏教がヴェーダ系よりも上だとかヴェーダの方が仏教の方が上だとか比べるのはあまり意味がなくて、どちらも同じ境地なわけですよね。
そのことが、本山博先生や油井真砂先生の著作を読むとよくわかるわけです。