アートマンの独存からブラフマンへ

2021-07-04 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

私が内なるガイドから教えて頂いたところによれば、これはもはや、深さと広がりの面で終わりがないお話だ、ということのようです。それ以前は段階的な変化が割と大きくありましたが、これからは程度問題であって、終わりがない、ということのようなのです。

と、言いますのは、まず、その一歩手前であるアートマンあるいはプルシャの独存という段階は心の本性あるいは仏の心と言っても良いものが現れてくる段階で、そこには大きな変化があります。それ以前はまだアートマン(あるいはサンキャ的に言えばプルシャ)は現れておらず、アートマンの独存の段階で新たなる世界へと踏み出したわけです。それは顕在意識と対比するところの無意識の世界ということもできますけど、アートマンが出てくるということは、元々無意識だった世界の一部が意識の世界へと変わるということでもあります。

その時、最初はまず自分の体の近くから始まって、やがて広がってゆくわけですけど、その時、主に2つあるいは3つの観点から広がってゆきます。

・自分からの距離(物理的な距離と時間的な距離の両方)
・深まり

最初は感覚は薄くて、やがて、感覚が深まっていきます。

また、最初は自分のほんの近くの、体のハートの部分だけだったものが体全体に広がり、体から周囲数m、というように次第に広がっていきます。それは距離的なものもあれば、時間的なものもあります。

このどちらもそれぞれ起こりますので、深まりつつ、広がってゆくわけです。最終地点というのはヴェーダンタで言われていますように一応は「全体」としてのブラフマンに辿り着くということにはなっていますけど、距離が広がることと、その感覚が深まることにおいては、終わりがない、ということのようなのです。ですから、アートマンの独存に関しては「達成」があるのですけど、ブラフマンに関しては程度の違いだけがあって、「終わり」というものがない、ということのようなのです。アートマンの独存がスタート地点と言っても良いかもしれません。

人によっては自分の周囲が自分と同一視できるのであればその距離感と深まりにおけるアートマンですし、あるいは、地域、あるいは国全体が自分のアートマンになる人もいるかもしれません。完全なる「全体」ではないのであれば人によってはずっとアートマンと言い続けるかもしれませんし、ちょっと広がったらブラフマンと言う人もいるかもしれません。ですけど、アートマンとブラフマンのお話は相対的なお話で、ブラフマンを知るとは言ってもアートマンを知ることによって同じ質であるブラフマンを知る、ということですから、ブラフマン自身に本当になるのは生きている人間にとってはないのかなと思います。そのように教わりました。完全なる宇宙全体のブラフマンは生きている人間には不可能で、概念としてのブラフマンは宇宙全体のことですから、修行者がアートマンからブラフマンへ、というように言うときは相対的なお話でブラフマンを知った、という状態のようです。

ヴェーダンタでは個人としてのアートマンが実はブラフマンと同一であると解いていて、そのことは真実ではあるのですけど、どうやら、どの程度までそのように認識できるのかは個人差があるようなのです。これは聖典の記述とも一致します。聖典や過去の聖者の文献によれば、アートマンの質を知ることでブラフマンを知ることができる、と書かれてあったりします。それは、本質としてブラフマンと同一なものが自らにあって、自らの質であるアートマンとブラフマンとが同じであることを実際に体感して知るのが一応のウパニシャッド(ヴェーダンタ)の最終地点になっています。そのことを「ブラフマンを知る」とか「ブラフマンになる」みたいに比喩的に書かれていますけど、実際には、アートマンが広がっていくことによってブラフマンを少し知る、と言うことのようです。

ヴェーダンタをただ読んだだけではゼロイチのお話のように解釈することもできて、アートマンの次はブラフマンを知る、という意味に読めたりしますけど、そこには程度のお話があるということのようです。最初はアートマンを知って、それがブラフマンと同質のものであることを知るわけです。その後、次第にその範疇が広がっていって、ブラフマンの全体に近づいていくわけです。近づくと言うこともできれば、同質化すると言うこともできますし、ブラフマンに溶け去る、と言うこともできます。川の水が大海に溶け込む、という比喩を用いたりします。

ですから、どうやら、ここから先は深まりと距離において成長があるだけ(だけ、というよりももっと重大なことではありますけど)ということのようです。ここで、距離、と言っていますけど、量子力学において言われているように時間と空間とは対になっていますから、遠くの距離まで見れるということは、遠くの時間まで見れる、ということでもあるようです。

文字通り「全体」としてのブラフマンになることはこの短い人生において達成することはなくて、比喩的なブラフマンとしてある程度の広がりを体験してゆくことになるようですから、これからは、この深まりを楽しむ段階にあるようです。

私の場合、体の周囲がそれとなくほんの少しわかる程度ですのでまだまだな感じではあります。

川から海にたどり着いてみたらあまりもの大きさに圧倒されている、という感じもあります。

一応、これが「故郷」と比喩してもいい場所かもしれません。長い旅路の一つの終着地点に到達して、新たなるスタートを切ったわけです。