スピリチュアルの言う「感じること」

2021-07-08 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

ニューエイジやスピリチュアルでは「感じること」が重要視されていて、普通に読むと五感と言うことですけど、実際には、そこでは心の本性による覚醒の働きであるリクパのことを意味しているわけです。

それを、比喩的に、わかりやすくいうと「感じること」になるのかなと思います。

ただ、そこには誤解の入る余地があるように思います。

普通にこれを聞くと、体の感覚や視覚など五感を感じればそれでいい、みたいなお話になってしまいますけど、そうではないわけで。

ただ、このあたりは説明している側もよく分かっていないことが多くて、五感で感じてゆっくり生活すればそれがスピリチュアル、みたいな理解が基本にある気がしますけど実際はそれが普通の五感でのお話なのかそれとも心の本性のお話なのかでかなり違ってくるわけです。

もしこれを五感のお話だと理解してしまうと、何もかもを受け入れてくれるような静かな環境に依存してしまうようなことになります。最初の初心者のうちは仕方がないのですけど、本来のスピリチュアルは心の中にあるものですので、周囲の環境に依存した静かな心ということであれば、環境に依存してしまっているということでもあります。それが初心者であるという自覚があるならばまだいいのですけど、スピリチュアルを静かな環境を選択したり作り出す道具として用いてしまい、他人を攻撃する口実としてスピリチュアルを使ったり、あるいは、感覚の激しさに耐えきれなくなって爆発してしまうようなキレやすいスピリチュアルになってしまいます。結果、自分の心地の良い環境を追い求めて山の中に籠ったり、自分に対して心地よく接してくれる人を追い求めた挙句に自立していなくて他人をコントロールしようとする変なスピリチュアル教祖にハマってしまったりするわけです。

心の本性を用いて覚醒(リクパ)をする場合は五感も感じますけど五感を見る者としての心の本性が働くわけです。その観照の働きのことを覚醒と言ったりリクパと言ったり悟りと言ったりもしますけど、とても微妙なお話で、比喩的に言えば簡単に「感じること」ということもできますけど、「感じる」と言ってしまうと誤解が混じってしまう余地があるわけです。

スピリチュアルな教師から「感じれば良いのですよ」と言われたら「ああ、そうか!」と、物分かりがいい簡単なお話かのように思えて、既にそれができているかのような錯覚に陥ってしまう可能性があるわけで、このような簡単な表現はわかりやすい一方で、よくわからない状態に陥ってしまう危険性もあるわけです。

かと言って、厳密に言ったところで誰も興味を持たずにスルーしてしまう可能性も大きいわけで。なかなか難しいですね。

わかりやすく言って誤解を招くようなスピリチュアルな教師は必要悪なのかもしれませんね。そういう人と私とは個人的な関わり合いはないですけど。