胸の内にまだ残る「個」の核を包んでいるつぼみが開けてくる

2021-07-09 記載
トピック:スピリチュアル: 十牛図

おそらくアートマンの独存という段階に私はいて、まだ私は「個」として存在しています。「個」とは言いましても自分の内なるアートマンの質はブラフマンと同一だと自覚していて、自分の周囲の数mまでは自己同一視できている状態ではあるのですが、未だ、いわゆる「全て」と同一にはなっていない状態です。

その、同一できていない状態はと言いますと、まだ「個」が残っている、ということでもあります。その「個」とは、概ね感覚的なもので、胸の中にまだ「個」が残っていると認識されていて、その「個」は、感覚で言いますと若干の緩やかな「緊張」のようなものとして認識されています。

緊張と言っても少しの緊張ではあります。体の周囲はいわゆる「無限」「空」あるいはアートマンとも言える「空間」に溶け込んではいるのですが、胸の内に至るまではまだその無限と完全に溶け込んではおらず、それは感覚としては「緊張」に似たようなものとして感じられているということです。

それはトラウマとはまた違ったもので、この段階に至ってもまだトラウマというのはあるようで、とは言いましても以前よりトラウマの解消はとても早くなってきており、10秒とか30秒でほぼ解消できて、以前のように数分ということはないですし、かなり以前のように数日とか数ヶ月悩まされてるということも、もちろんないです。トラウマの解消の方法も変わってきていて、トラウマが出てきてもすぐに気付けるというのが第一で、それに加えてトラウマを結晶化して抜き出すということをしています。最近はお腹のあたりにモヤモヤと眠っていたトラウマを水晶あるいはダイヤのような形に結晶化して取り出しました。ですけど、ここで感じている胸の中の「緊張」のようなものは、トラウマとはまた違った種類のものです。内なるガイドによれば少し前に取り除いたダイヤのような結晶が最後の大きなトラウマだった、ということのようですから、今回のはトラウマとはまた違うようです。

それは、比喩的に言えば「空じられていない私」ということになるかと思いますが、まだ最後に残された「私」が感覚的には「緊張」として認識されていて、もっと具体的に言えば、胸の中それ自体は緊張というよりもコアのような感じで、それがあるゆえにその周囲の、例えば肩のあたりにほんの少しの緊張が生まれている、という感じです。

ヨーガではリラックスすることが重要とか言われていますけど、この肩の緊張は単に肉体的な緊張ではなくて「私」が存在することによる弱い緊張ですので、それが完全にリラックスできる日が来るのかはよくわかりませんけど、なんとなく、この「私」という胸の内の感覚が完全に空じられてブラフマンと一体化すると完全なるリラックスができるのでは・・・? と思っておりますが、どうでしょうかね。

階梯で言いますと私はアートマンの独存という状態にいて、まだブラフマンとは合一していない状態かと思います。

十牛図で言いますと「第五図 牧牛」から「第六図 騎牛帰家」ですね。

■第五図 牧牛
気付きによって真実を得ることもあるが
迷いによって我を忘れてしまうこともある
対象のせいでそうなるのではなく、ただ心より生じている
だから鼻索を強く引いてためらわないようにせよ
「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」

ここで真実と言っているのは心の本性(セムニー)が覚醒状態(リクパ)にあるということで、気付きの状態(リクパの覚醒状態)で真実であるアートマン(あるいはプルシャ)の自覚を得る、ということです。迷いによって我を忘れる、というのはリクパの状態から落ちてしまう時もある、ということです。ですから、この段階では時々、ただ気付きを再確認するということが必要です。

■第六図 騎牛帰家
牛と童子がぶつかり合うこともなくなり、ついに1つとなって家山へと帰ってゆく。
(同書より)

同書によれば牧牛の段階はプルシャの独存で、騎牛帰家は(一時的な)ブラフマンとの合一、ということのようです。同書では騎牛帰家の段階で「プルシャ(アートマン)の離脱」が起こってブラフマンと合一すると書かれてありますけど、私にはその自覚はないですから、それはまだですかね。理屈で言っているだけで実際はただブラフマンとの合一、ということなのかなとも解釈できますけど、どうなのでしょう。実際にプルシャの離脱として認識されるのですかね。そこはまだわからないです。

おそらく、牧牛の段階ではプルシャ(アートマン)が主に胸の内に存在していてまだブラフマンと合一していない、ということかと思います。私の場合、アートマンは胸の内に強く感じられて自分の周囲数mまで自己として認識できているものの、まだ胸の内に上記のようなコアがあるような感覚で、それは十牛図のように強く「ぶつかる」という感じではないですけど、そのコアはまだ上記のように若干の弱い緊張としてありますので、まあ、それを「ぶつかる」と表現できなくもない、という感じです。自分では「ぶつかる」とは言いませんけど、表現として、十牛図の言い方で言うと確かに一致しているかな、とも思います。

私は第五図 牧牛から第六図 騎牛帰家に進む段階のようです。

これは、座った瞑想をしばらく1時間とか2時間すると緊張それ自体は解けて肩も柔らかくなるのですけど、それ自体がそのままブラフマンの合一というわけではないようです。

更に瞑想を度々しつつ何日かすると、緊張が解けるだけでなく、花の「つぼみ」が段々と開けてくるような胸の感覚が出てきます。

それは、チャクラでよく言われているような「花びら」が一枚一枚開く、という感覚ではなく、それよりも、硬く小さく纏まっている花弁のつぼみが少しづつ広がっていく感覚と同時に、皮が何枚もむけてゆくような感覚とが同時に起こります。つぼみが広がる、と言えばそうですし、緊張が解ける、と言えばそうですし、胸が「広がる」と言えばそうも言えますし、皮が何枚も何回もむける、ということもできます。この微妙な感覚を表現するならばいく通りもの表現方法がありますが、簡単に比喩的に言えば「広がる」ということでもありますし、胸にあった塊の皮が何枚もむけて「剥き出し」になる、とも言うこともできます。

これがいわゆる「チャクラが開く」ということなのかどうかはわかりませんけど、そうとも言えるかもしれません。そもそも、マニプラとかアナハタなどのオーラが優勢になる、という段階であればかなり前から体験してきていますけど、今回のように明らかに何かが開けてくる感覚はその時にはなくて、同様に、少し前に創造・破壊・維持の力を胸に感じた時は「開く」という感覚とはまた違っていました。

最初は「緊張」として胸の中に認識されましたけど、それは緊張というよりは、アナハタが開き始めた、と言えるのかもしれません。でもまあ、まだ様子見ではありますけど。



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