ヴィパッサナーというと仏教のような印象がありますが、実際のところヴェーダンタで語られているアートマンがヨーギーにとってのヴィパッサナー(観)なわけです。
仏教はその教義において「無我」(アートマンがない)ことを標章していたりしますけど、その境地においてはヴィパッサナー(観)を言っていて、実際のところ、同じことだったりします。
これはどういうことでしょうか。
そもそも、ブッダがアートマンを否定してアートマンによる解脱を解くバラモンたちを説き伏せたのは、本当にアートマンを否定したのでしょうか。言い伝えによればブッダはそこでアートマンを否定して、それを根拠に仏教は無我、アートマンがない、ということを根拠にします。
しかしながら、ブッダは非想非非想処を超えた境地に達したということであればそれは心と体を超えた境地に達したということであり、ヴェーダンタによれば心の次にはまだ段階が少しあるものの、その先にはアートマンがあるわけです。ですから、ブッダが体や心の段階を超えてアートマンに達したと考えるのは筋が通っているわけです。
ヴェーダンタによれば人間の体は5つの鞘(パンチャ・コーシャ)に分かれていると言います。
■パンチャ・コーシャ(5つの鞘)
1. アンナマヤ・コーシャ(annamaya-kosa)物理的な体
2. プラーナマヤ・コーシャ(pranamaya-kosa)エネルギー(プラーナ)の体
3. マノマヤ・コーシャ(manomaya-kosa)マインドと5つの感覚器官にの体
4. ヴィニャーナマヤ・コーシャ(vijyanamaya-kosa)知性と5うの知覚器官の体
5. アナンダマヤ・コーシャ(anandamaya-kosa)カラーナ(原因)体、コーザル体。
ブッダが非想非非想処を超えた時には少なくともマノマヤ・コーシャとヴィニャーナマヤ・コーシャは超えている訳で、であればおそらくはアナンダマヤ・コーシャも超えたのでしょうからそこはアートマンの世界な訳です。
このように、アートマンの世界にブッダが達したのがおそらく確実であると思われる以上、上記の会話だけを取り出して「ブッダはアートマンを否定した」とは言えないと思う訳です。であればブッダが言っていたことは以下の2つの可能性に絞られます。
・ブッダはヴェーダンタを勉強していなかったので言葉がすれ違っていた。
・ブッダはヒンドゥが作り出した階級社会にあぐらをかくバラモンを批判した。
ブッダは王子の生まれですのでおそらくヴェーダンタもそれなりに勉強していたのではないかと推測されますが、そこはよくわかりません。
私はそれよりも、2つ目の、バラモンという特権階級に対する批判としてアートマンを否定して見せて「あなたの修行は足りないのではないか」と辛辣に指摘して見せたのではないでしょうか。
ブッダほどの人がアートマンを理解していなかったとはとても思えません。アートマンを理解した上で、体制にあぐらをかいて修行も大してしないバラモンとは一線を引く立場だったのではないかと想像するのですがどうでしょうか。
それを後世の人が誤解してアートマンの否定と解釈するのは個人の自由ですけど、境地を見てみると仏教が説くヴィパッサナー(観)とヴェーダンタが説くアートマンはとても似ていて、同じと言っても差し支えない気が致します。
誤解がないように申し上げておきますと、それぞれの流派の人はおそらく別物として捉えていると思います。ですから、流派の人に「同じでしょう?」と言っても通じないと思います。あくまでも私の解釈として、同じに見える、ということです。