体のサマーディから心のサマーディへ

2021-07-27 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

今までは基本的に物理的な体をダイレクトに動かすというサマーディでした。

それは、ヴェーダンタでいうところのアートマン(真我)が「私」の本体で、物理的な体が「動かされているもの」という関係です。

ここでアートマン(真我)のことを少し説明しておきますと、物理的な体および心(マインド)はアートマン(真我)ではないのですが物理的な体あるいは心あるいはその両方がそれ自身を「私」だと誤認していて、誤認している自分自身のことをヴェーダンタでは「ジーヴァ」と言います。ここで、ジーヴァとしての私とアートマン(真我)としての私、の2つの私が出てくる訳です。

上で言っているのは、アートマン(真我)の方の私が物理的な体をダイレクトに動かしている実感のあるサマーディ状態、ということです。

心が司令して体を動かす、というのは普通のことで、それはサマーディのお話ではありません。一方、アートマン(真我)がダイレクトに体を動かす、というのはサマーディのお話です。

そのようにアートマン(真我)と物理的な体、という関係だった訳ですけれども、最初は割とそのアートマン(真我)と物理的な体は離れていて、やがて、それは近付いてきました。

アートマン(真我)と物理的な体とは割と別物といえば別物なのですが一体になって動いていて、最初は離れていると感じられていたものが、最近はその感覚がかなり密着してきた、ということです。肉体の体に以前より更に密着して存在しています。

アートマン(真我)はダイレクトに動かすだけでなく感覚として認知もしていますから、体を動かすと同時にそれを把握している訳です。心が行うように明示的な指示というよりは体の各所の感覚を同時に感じている訳です。

そのアートマン(真我)の感覚は少し前までは肉体だけで、心に関しても以前より更に自由になったとはいえ、心に関してはそのくらいでした。

しかし、ここにきて、ほんの僅かではありますが、アートマン(真我)が心(マインド)をダイレクトに動かしているという実感が瞑想中にだけ少し感じられるようになりました。

肉体よりも心はもっと微細で微妙なものですので感じるのは難しいのですが、瞑想をしていると、マインド(心)の奥底にあるアートマン(真我)がマインドを動かしていることをわずかに感じられます。

日本語で心と言ってしまうと魂とかアートマン(真我)に相当するところまで含まれてしまうかのような広い意味がありますけど、ここで言っているのは、思考する心である英語のマインドのことです。そのマインドとしての心が肉体と同じようにアートマン(真我)によって動かされているのだ、という実感が出始めています。

肉体の方は日常生活においてもアートマン(真我)が動かしているという実感がありますけど心の認知の方はまだ弱くて、瞑想中にしか感知できていない状況です。とは言いましてもその感覚がわかってしまえば同じことだと思いますので、あとは深めれば良い、と思っております。



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